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古い糸車の物語

岐阜の明るく楽しい養蚕家の
加藤祐里です。

前回の記事では初心者向け
機織りクラスの探し方について
書きました。

同じぐらいよく聞かれることは
「糸紡ぎはどこで習いましたか?」

最初だけ、糸紡ぎの道具の
使い方を教えてもらったりはしたけど
ほぼ独学です。

↑修理してもらうために糸車と一緒に全国旅をしました

今使っている糸紡ぎの道具は7年前に
手に入れました。
すごい古い海外製の羊毛を紡ぐ足踏み式の
糸車を譲っていただいて
あちこち壊れていたものを
うちの旦那が分解して
足踏式部分は外して
モーターつけて
電動式にしてくれたオリジナルです。
(旦那は糸紡ぎには興味はないが
プラモデルつくったり
モーターつけたりするのは得意)

糸紡ぎについて語る前に
この古い糸車にまつわる物語をご紹介します。

もとの持ち主は
岐阜県瑞浪市在住の陶芸作家
大泉讃さん。
(昨年、自分で建築から作られた
登り窯の工房兼ご自宅が全焼して
しまったそうです)

讃さんのお母様が昭和40〜50年ぐらいに
使っていたそうです。
(この時点ですでに中古だった)

30年以上?小屋に放置されていたのを
譲っていただきました。

アッシュフォード製というのは
間違いないのだけど
いつの時代に作られたのか分からなくて

糸車に詳しい人に見てもらったとき
その人が見たことがないぐらい
めづらしくて古い型だったようです。

讃さんのお母さんを語る際、
忘れていけないのは
宮城出身の詩人であり版画作家だった
お父様の茂基(しげもと)さん。

茂基さんは宮城のお金持ちの跡取りで
戦前から海外の文化にも詳しく
英語やフランス語も読むことが出来た。

自分で海外の情報を調べることが出来たから
戦争で日本が勝てない事は
よく分かっており
まわりから村八分にされて
食料を分けてもらえなかったり
いじわるされたけど
反戦の立場を貫いた。

奥様(讃さんのお母さん)もやはり実家が
お金持ちでお見合い結婚だったから
もとは裕福なお嬢様だったのに
戦時中は実家にも頼れず
ずいぶん苦労されたらしい。

戦争が終わり、1週間も経たずに
大泉家の暮らす宮城の田舎町に
アメリカ軍がやってきた。

アメリカは戦争中から日本軍の
ことはほとんど把握していて
田舎の地方に飛行機や戦車を動かす
燃料や食料やお宝などを隠していることを
知っていたらしいです。

それらを早急に抑えて
自分たちのものにするために
田舎にやってきた。
そして、英語で道案内しろと言う。

村の長老は困った。
若者はみな兵隊にとられて
自分の身内には
英語を話せる人は誰もいない。

戦時中、さんざん「非国民!」と
仲間はずれにして
馬鹿にした茂基さんに頭を下げるしかなかった。

その頃、息子さんの讃さんは中学生ぐらい。
本当にその日を境に
それまでは食べるものもなくて
すごい貧乏だったのが
家にアメリカ軍がくれた
お菓子や鉛筆、タバコがあるような
生活がはじまったそうです。

茂基さんは数年は
通訳の仕事をしていたそうですが
やはりそれも彼の美学では
許さなかった。

ついこないだまで
「天皇陛下バンサイ!」と言っていた奴らが
今度は「ギブミーチョコレート」と言って
媚を売る。

アメリカ軍にコネのある人間が
どんどん良い暮らしをして
要職に就いて出世するなか
通訳はスパっと辞めて

NHKの海外のクラシック音楽を
毎日5分間紹介する番組の台本を書いたり
編集作業の仕事に就きます。

戦時中、ほとんどの海外の書物は
没収されたり焼かれたりしましたが
NHKには資料として残されていて
もちろんお仕事でも使いましたが

決まった勤務時間もなく
自分のペースで仕事が出来たから
資料室にある本をすべて
読んで気が済んたから
(この先、数年分の番組も作って)
辞めてしまったそうです。

今の私ではあまり理解出来ないのですが
「食うためだけに働いて
金を稼ぐのは嫌」なんだそうな。

自分の美学に反することで
働くぐらいなら
飢えたほうがマシ。

そんな旦那さんだったから
暮らしも浮き沈みが激しくて
茂基さんも病気を患い
生きていくために奥様が始めたことが

東北の伝統工芸である
「こけし製作」
奥様は素人ではじめたのですが、
なんと初めて出展したコンクールで
最高賞を受賞されて
全国の展示会に並べるような
作家の仲間いりをします。

晩年は茂基さんの作った詩を
版画にして
奥様のこけしと一緒に
展示するような
個展も開催されていたそうです。

茂基さんが亡くなり
讃さんが東海地方で働くことになり
お母様も宮城を離れます。

讃さんが働く会社の
寮母さんとして住み込みで
仕事をはじめたので
以前のようにこけしを作る
道具も場所も時間もありません。

讃さんは結局、体を壊して
会社を辞めて陶芸の道に入ります。
讃さんの身の回りの世話をするために
岐阜に一緒に住んでいた頃に
糸紡ぎをしていたそうです。

讃さんのお母さんの話は
これで終わりでないのです。

讃さんが結婚して
お嫁さんをもらうことになり
お母様はなんと
「同居なんてまっぴらゴメン。
自分1人気ままに暮らしたい」と
なんと宮城に帰ってしまいます。

それまで岐阜の田舎で
畑やったり糸紡いだり
体を動かして暮らしていたから
いきなり知り合いもいない
遠方に暮らすことになって
まわりも心配されたでしょうね。

讃さんの弟さんがガラス工芸作家を
されていて
制作の途中で出る廃ガラスで
何か作ったら?とアドバイス。

それが今の「とんぼ玉」に繋がります。

讃さん曰く
「うちのおふくろが日本で初めての
とんぼ玉作家」

ブランドがあったわけでもないし
商標登録もしてないですから
どこまで事実かは分かりませんが

何人ものかたが全国から
習いにきていたそうです。

私は讃さんのお母様には
お会いしたことはないですが

時代に流されているようで
種が撒かれた場所で咲く花のように
自分の出来ることで個性を発揮して
楽しんで毎日生きている。

茂基さんは
良い暮らしが出来なくても
まわり全員敵になろうとも
自分の美意識に嘘をつかず
正しく時代を読んで
生き方を貫きました。

お二人が厳しい時代を生き抜いた
おかげで
私も糸車に出会えました。

今の時代に養蚕を続けることは
楽なことばかりではないですから
ある意味、時代に逆らっています。

糸車を触るたびに
大泉夫妻から「負けるなよ!」って
言われている気になります。

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