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【20歳で月収200万を手にした男】~旅人編~

歩き遍路の旅

お遍路へ行く。それも歩きで、野宿で廻る。

引きこもりがちだった僕をそこまで誘ったものがなんなのかは、今でもよくわからない。分からないけれど、人間というものは、本当は自分に必要なものは自分がいちばん良く知っていて、必要な時が来れば自然と動き出すものなのかもしれない。それが遍路におけるお大師さんのお導きというものなら、そうなのかもしれない。

とにかく、僕は四国一周約1200キロの道のりへと旅立った。この旅の詳細は、本ブログの【四国遍路】カテゴリーから一日毎の記事が読めるので、お遍路に興味がある人は読んでみて欲しい。

それまでアウトドアとは無縁で生きてきた男である。初日はテントの張り方すらも分からず、無事に廻りきれるのか不安しかなかった。

更に徳島県にいる間は、それまでの自分の人生を色々と考えることも多く、当時出会った人曰く、どす黒いオーラを放っていたらしい。

しかし、高知県へ入ってちょっと経った辺りから、一通り悩み終わり、むしろ思考が一周回って「悩んでてもしょうがねぇ、とりあえず生きて四国を出なければ元も子もないじゃないか!」という風に変わってからはカラリとした態度を堅持できるようになっていった。

淡々と歩いた結果、気づけばゴールである結願寺(88番大窪寺)へとたどり着いていた。先程僕は時間の進み方は濃密なほど遅く、淡白であるほど速く感じられるということを述べたが、お遍路はそのどちらでもなく、本当にただ淡々と、遅いも速いもなく、時間が進むという不思議な感覚だった。むしろ元を正せば時間という概念はこの感覚が一番近いのかもしれない。

たくさんの素晴らしい出会いに恵まれた旅だった。自分は一人で生きているのではなく、たくさんのものに生かされているということを肌感覚で感じられた。これらは全て知っているだけでは意味がない、感じることによって初めて自分の血肉になるものだった。

恩もたくさん頂いた。次は僕がその恩を返すのではなく廻していく番だと思った。

お遍路が自分のセーフティネットになった。

どんな失敗をしてもどんな辛いことがあっても、心のセーフティネットがあれば恐いものは何もないという気持ちになる。

だからこそ恥をかこう。恥をかこう。恥をかこう。

20代でたくさんたくさんかいた恥を自分の糧として30代に繋げていこう。

人生観が変わる、本当に良い旅だった。

旅人という生き方

お遍路を終えたあとは遍路中に出会った人のもとを再訪したり、熊本にボランティアに行ったりと、ちょこちょこ旅をするような生活をしていた。

そういえば熊本にボランティアに行った際に、結論から言えば避難所で60代のおじいちゃんにフェラされた。聞き間違いではない。そう、口でするアレである。

僕もまさか人生においてあのアングルから白髪頭を見下ろす日が来るとは全く予想もしていなかった。まぁあれはあれで一種の性のボランティアだったんだと思うことにしている。ボランティアと一概に言っても色んな形があるということだ。(ない)

それに僕の座右の銘は内田裕也にならって「ロックンロール!!」だ。あくまでロックな選択肢を選んだらパックンチョされてたというだけである。きっといつの日かこのロックな選択が活きてくる時が来るのだろう。(こない)

だいぶ話がそれてしまった。話を戻そう。

僕の場合はまるで躁鬱病のように、旅をして自分がエネルギッシュな生活をしている時は非常に自分自身を肯定できるのだが、自宅にずっといるとなんともまぁ気が滅入りがちになる傾向がある。

本当は何もしていない自分を肯定することこそが自分を愛するということなのかもしれないが、僕はまだその境地には達していないようだ。

そんな中、2017年の4月から徒歩で日本一周の旅に出ることにした。
ヒッチハイクでもチャリでもなく、正真正銘一日に30~40キロ自分の足で歩いて日本縦断を目指す旅である。

リュックサックの中にテントと寝袋とマットを押し込んで、野宿で旅をした。

おおむね3,4年はかかると思っていたこの旅は、結論から言えば一周する前に半年ちょっとで中断した。やりたいことが見つかったので旅は一旦切り上げて関東に戻ってきたからだ。

埼玉の実家からスタートして太平洋沿いを北上し、北海道を一周するあたりで、僕の徒歩で日本一周の旅は幕を下ろした。
この旅中にもおもしろエピソードがたくさん出来たので、そこに関してもおいおい話していきたいと思っている。

ともあれ、バックパッカーとしてお遍路から始まり、国内を約3年間放浪し続けた末に僕が再度やりたいと血をたぎらせたこと、それはホストだった。

きっかけは札幌滞在中でのこと。

お酒が好きで1日12時間くらいまさに浴びるようにアルコールを摂取していた僕は、友人に「そんな飲むならお店で飲めばええのに」と言われたことがきっかけで、ススキノのホストクラブにノリで体験入店に行った。

7年ぶりに味わったホストの世界。金の亡者としてお金のためだけに仕事をしていた当時と比べ、純粋にとても楽しむことが出来た。
そしてそれと同時に僕の中でふつふつと熱く込み上げてくるものがあることを確かに実感した。

日本一周中に僕が設けていたルールの1つに「基本的にはNOと言わない」というものがある。そのルールに則り、様々な仕事をこなしながら旅を続けていたが、特に情熱を感じるものはなかった。

27歳になってまたホストを始める。周囲から見れば痛い人間なのかもしれない。けれども外野の意見を気にする人生ならば僕の今までの生き方はなかったはずだ。それよりもその瞬間に感じたその熱量。それは紛れもない本物だった。そう感じた僕はいったん旅人という生き方をやめることにした。そして次の週には北海道から関東に戻り、歌舞伎町に立っていた。

ここまでが2019年までの僕のリアルだ。
現在は歌舞伎町で気になるお店の体験入店をまわっている。
お店が決まり次第新しく開設したTwitterで報告するので、気になる方は旅のエピソードでも聞きにお酒を飲みに来てほしい。

ちなみにこのプロフィール記事は2013年のものに加筆修正する形で2019年初めの今、書いている。
2013年といえば、僕がまだネットビジネス始めたての頃である。あれから6年もあれば、色々なことが変化して当然だ。当時は自分が約2年弱もの間ひきこもりニートになり、それがきっかけで旅人として日本全国を放浪するなんて思いもしなかった。

人生なんてもんは、ちょっとしたボタンの掛け違いで、どう転ぶかは全く分からないのだ。
とりあえず、今こうして生きて、文字を書けていることそれ自体を幸せに思う。

ちなみに2013年に書いた記事の末尾はこう締められていた。

【未来は自分で作る】

我ながらその通りだなあと思う。これからの生き方をどうするかなんてもんの結論はまだ出ていないし、あまり深く考えようとも思わない。思うに、生き方というのはデザインするものではなく、生きた結果がデザインになると思うのだ。

子どもはどう生きようかなどとは考えない。子どもはただ単純に、心のまま、生きっ放しなだけだ。大人になると変なもんに縛られ、色々と考えてしまうことも増えるけれど、でも本当は、感じたままに、素直に行動すること。それこそが、真っ当であることへの近道なんじゃないかと、個人的には思っている。


ここまで読んでくれてありがとうございます。

最後に、重要な示唆を与えてくれる2つの文章を引用して締めたいと思う。

脳に刺激を与えるには「飯、風呂、寝る」という生活から、「人、本、旅」という暮らしに移行する必要があります。つまり、たくさんの人に会い、本を読んで、いろいろなところに行って刺激を受ける。そうしなければ生産性は上がりません。これが働き方改革の基本です。

ビジネスパーソンの仕事に、特別な才能は必要ない。必要なのは、好奇心と謙虚な気持ちです。言い換えれば、誰もが伸びる可能性を持っています。「知ることは楽しいことだ」と思える人は、さらに伸びると思います。自分は賢い、何でも知っていると思ったら、学ばなくなります。

〜ライフネット生命 出口社長〜

「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」

「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」

「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・ その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」

〜「旅をする木」星野道夫〜

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