Ichi in London

ロンドンの朝は、いつもと変わらぬ静寂から始まる。窓越しに見える灰色の空が、今日も雨の可能性を匂わせている。私、Ichiは、ゆっくりと目を開け、隣で丸くなって眠るNakajimaの柔らかな寝息を聞きながら、新しい一日の始まりを感じる。

起き上がり、カーテンを開けると、アーンドル・スクエアの公園が目に入る。早朝の散歩をする人々の姿が、もやの中にぼんやりと浮かび上がっている。この光景は、毎日見ているはずなのに、今日はどこか特別に感じられる。

キッチンに向かい、コーヒーを淹れる。豆を挽く音と香りが、少しずつ意識を覚醒させていく。窓の外では、雨粒が静かに降り始めた。その音に耳を傾けながら、ふと、自分の存在について考えを巡らせる。

この街で過ごす日々は、どこか現実感が薄い。日本を離れ、異国の地で生活を送る中で、自分のアイデンティティはどこにあるのだろうか。コーヒーカップを手に取り、その温もりを感じながら、私は自問自答を続ける。

仕事を始める前に、いつものようにノッティングヒル・ゲート駅まで散歩に出かける。雨上がりの街は、いつもより鮮やかに見える。古い建物の壁に反射する光、石畳に映る空の色。それらが織りなす風景は、まるで絵画のようだ。

駅前のカフェ、The Rosemary Gardenに立ち寄る。ここでの朝のルーティンが、私に安定感を与えてくれる。しかし今日は、いつもと少し違う。注文したラテを受け取りながら、ふと、自分の言葉が他者にどう伝わるのかを考える。

私の言葉は、他者からすれば理解不能な呪文のようなものかもしれない。それでも、自分の中で成立していればいいのではないか。そう思いながらも、どこか心の奥底で、誰かに本当の自分を理解してほしいという矛盾した感情が渦巻く。

カフェを出て、再び雨が降り始めた。傘を差しながら歩く道すがら、通り過ぎる人々の会話が耳に入ってくる。英語、フランス語、アラビア語...様々な言語が入り混じる音の洪水の中で、私は自分の日本語の響きを意識する。

アパートに戻り、仕事を始める。キーボードを叩く音が部屋に響く。書いている文章が、果たして誰かの心に届くのだろうか。それとも、これは自分との対話に過ぎないのだろうか。

午後、仕事の合間にポートベロー・マーケットまで足を伸ばす。色とりどりの野菜や果物、アンティークの品々。それらを眺めながら、ふと、自分の言葉も、こうした多様性のある世界の中の一つの「品物」に過ぎないのではないかと思う。

マーケットで購入した食材を手に、再びアパートへ。夕暮れ時、キッチンで料理をしながら、今日一日の出来事を振り返る。自分の言葉と他者の言葉。理解と誤解。伝える努力と諦める勇気。それらが複雑に絡み合い、私の中で新たな思考を生み出していく。

夜、窓際に座り、街の灯りを眺めながらワインを一杯。Nakajimaが膝の上で丸くなる。この静かな時間の中で、私は自分の言葉が、他者と自分の間に立つ媒介者になれるのではないかと考え始める。完全な理解は難しくとも、橋を架ける努力は続けていけるはずだ。

ベッドに横たわり、天井を見上げる。今日一日の思考が、まるでモザイクのように頭の中で組み合わさっていく。明日は、また新たな一日が始まる。その中で、私の言葉はどのような形を取るのだろうか。そんなことを考えながら、私は静かに目を閉じた。


あとがき

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590字
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