「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の大人になる主人公問題

シンエヴァを観た。

本編の詳しい感想は『底辺文化系トークラジオ「二九歳までの地図」』で話したのでわざわざ文章では書かないのだけど、一応そろそろネタバレ解禁なんじゃないか、ということらしいので、思っていた件について書きたい。

はじめに、これは明確なネタバレ記事になるし、ついでに褒めたり良いところを指摘するタイプの記事でもないし、考察をしたり論評を深める類のものでもない。なので、シンエヴァが大好きで記事を読みたい人に取っては向いていないし、かといって、僕はシンエヴァを楽しんで観た人間でもあるので、別にアンチってわけでもない。

作品それ自体の出来不出来というよりは、僕がかねてから、なんだろうこの感じ、思っていた感じを、シンエヴァでも味わったので、それについて書く。

というわけで本題。

ラスト、大人になったシンジが登場して、まさかのCV:神木隆之介で声変わりをしており、すっかり大人になったシンジが、マリと二人で外の世界へ飛び出していくような、そんな感じの終わり方だった。

それ自体は美しいラストだと思うし、少なくとも「シンエヴァ」において果たしたかったこと(エヴァを終わらせる)という意味において、これは必要なラストなんだと思う。

のだけど、結構居心地の悪いような気持ちもあった。

「デジモンアドベンチャー02」のラストで、「選ばれし子供たち」たる主人公が大人になった姿や、結婚して子供がいる姿が次々と描かれていたのを中学生当時テレビで見て、その時も同じような気持ちになった。

あるいは、映画「仄暗い水の底から」のラストで、それまで黒木瞳演じる主人公が守ってきた娘が、突然水川あさみに成長して登場したときにも。

成長した主人公が登場する作品というのはものすごくたくさんあるし、成長したからこそのドラマがそこで生まれたり、あるいは「仄暗い〜」では母の愛が、心霊ドラマとしてちゃんと結実するように用意されたラストであったはずで、本来だと別にダメなわけじゃないはずだ。

だけど、毎回必ず微妙な気持ちになる。

アニメだと、5歳〜10歳くらい成長する分には、比較的受け入れられる。

実写だと、同じ役者が引き続き演じるぶんには大丈夫だけど、同じ人が演じられないレベルの年月が経過した場合に受け入れられない。(劇中の時間経過としてはあり。あくまでラストでとつぜん、というのが受け入れられない)

多分、同一性みたいなものが唐突に失われることの気持ち悪さなんだろう。

ラストで突然時間が飛ぶと、物語的には結構作りやすかったりする。物語においては時間の省略は常套手段だけど、クライマックスで一頻り盛り上がった後に、「まぁそれでなんやかんやありまして……」ですっ飛ばして大人になる。

いや、なんかこれまで一緒に時間重ねてきたはずのこいつらが、急にこっちの知らない「いろいろ」を経て、「大人」になっちゃってるぞ。いつの間にかいろんなことを受け入れてるぞ。

物語には「物語内時間」みたいなものがあって、現実のそれと同じではないにしても、不思議なもので受け手の側はその時間経過を共に過ごすことができるのだけど、それが明確にズレる瞬間、ということな気がする。

「シンエヴァ」のシンジに関しては、そもそもが序盤で村で悩むシーンで吹っ切れてからはいかにも覚醒した人のそれといった感じで、悩める主人公ではなく、悩み終わった人のモードで突き進むので、それが面白さの部分でもあると同時に、それが故にわざわざ「大人になったシンジ」まで出てくることに、必要性を感じなかった、というのもある。

いや、必要性はある。「エヴァという物語を終わらせる」という意味では。

でも、主人公の成長したりしなかったりを25年も続けてきたシリーズのその「成長」という側面においては、ちょっと歩調がずれてしまったような感触もあった。

「スタンド・バイ・ミー」とかそういった、「寧ろ今よりも輝かしかった頃」としてノスタルジックに回想していく分には、そんなに気にならないような気はするので、インスタントな大団円や感動の演出としての成長が好きじゃないんだろう。


ちなみに、作家個人の「成長」という文脈で語ること自体には、僕はあんまり馴染まない。

庵野秀明や新海誠に対して「成長した」とか「大人になった」という表現をするのが僕はどうも苦手で、別に彼らが成長していなかったからああいう作品を作っていたわけではなく、またエンタメ性を高めたりキャッチーな内容にすることは大人になることとはちょっと違うんじゃないかとは思う。

そんなに多くの作家を知ってるわけではないけど、大体みんな自分のコアとなる作家性を持ちつつ、それが狭い界隈でだけ通じるものにならないように工夫したり努力したりしていて、それがちゃんとできるから売れてみんなが知ってる作家になるはずなので。

おそらく「シンエヴァ」にしたところで、この数年で急激に「大人になった」とかってことでもなく、そもそもの新劇場版のスタート地点からして、大まかに言えば希望に向かっていくために作っていたように思うし、エヴァ的カタストロフを迎えさせながら、最終的にそれでも人間はまあ営みを続けていくしかない、というところ出発点は納得できた。

リアルな世界を知らない子供たちに農業体験!みたいな風に見えなくもないよね、とかはあるけど、まぁこれはこれでいい気がする。

『アベンジャーズ/エンドゲーム』でも、人類の半分が消え去った後の世界で、大きな喪失と同時に、それでも時間は前に進む、ということ両方を描いていて、とても誠実な映画だな、と思った。トニー・スタークの娘が登場した瞬間に、時間を巻き戻してあの悲劇を無かったことにする、なんてことは出来ない、進んでしまった時間の中にある幸せもある、ということが身に染みて、割と楽観的にも思えるタイムトラベル展開が、いや、そんな単純でもないぞ、とドラマにのめりこめたのを思い出した。

奇しくも「シンエヴァ」においても似たようなことが描かれていたんじゃないか。何度目インパクトだか知らんけど、とにかくまぁ人類滅亡、みたいな展開があったその先に時間は流れてるよ、っていう。お腹が空くし、心がどんだけボロボロに傷ついてもなんでか息はしてたりするよな、とか、自分のことなんて誰一人大切に思っちゃくれていないんだ、なんて言えないほどには人から優しさを向けられる瞬間ってあるよな、とか。

強烈な否定をしてきたからこその、否定しきれない事実みたいなものを積み重ねていくことにグッときた。

グッときたので、だから最後に「いろいろ」をすっ飛ばしたラストにはちょっとだけガッカリしたのかもしれない。

まとまりがなくなったのでこのくらいにするけれども、超綺麗ごと言って御茶を濁すけど、こういうこと無限に考えさせてくれるあたりが「エヴァ」の楽しさだよな、と思います。

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