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Web個展「悪徳と美徳」ステートメント

12月ですね。今年の制作を、ふりかえっております。インスタグラムに2022年の主な制作とお仕事で作らせていただいたものを載せております。
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昨年から今年にかけて行ったWeb個展「悪徳と美徳」では、初の試みでNFT版とキャンバス版をそれぞれopensea、ネット通販にて販売しました。またやりたい。

ご高覧くださったみなさま、お買上げくださったみなさま、ありがとうございました。ますます精進して参ります。

以下、「悪徳と美徳」開催時に載せていた声明。

我々は様々な価値基準によって行動し、自分自身の決定に正当性があるかのように行為する。

他者の幸福を悪徳である、美徳である、と断じるのは自分自身の社会性において、あるいは未来の自分自身に対して、裏切りや危険を伴う重大な行為である。美徳の解釈は無数にあるが、原体験や、思想や、文化、宗教、または流行によって変化する。

いま、加速度的に時代は変化し、インターネットやマスコミは口うるさく人々の正義を掻き立て、数年前に悪の素因であったものが美の基準になるということもあり、その逆も起こり得る。我々の道徳が明日どうなっているかの担保はどこにもない。しかし、明日の自分自身の美徳の足掛かりになるものは現在の自分自身に棲みつく悪徳への意識である。少しも悪徳を知らない者のところに美徳があることはあり得ないからだ。今一度、自分自身の悪徳そのものあるいは他者を悪徳であると断罪してしまいそうな瞬間に目を向けることが、むしろ極めて前向きな行動の指標になると考えている。

かの古代ギリシアにおいては、プラトンは普遍の美徳が存在することを夢見た。

アリストテレスは、美徳は極端な悪徳の間にある中庸であると説いた。

美徳の普遍が絵空事だと馬鹿にされてたとしても、その絵空事を目指していきたいのである。そして、悪徳を解釈することこそが逆説的に美徳を目指すこととなり得るのではないか。

「悪徳と美徳」ステートメント


自分の美徳のために魂が傷つくことさえ恐れない者もいる。それはある側面では悪徳となり得る。

一年経った今、このステートメントは一年前とは違う質量をもって伝わるものになったと思います。




少しのサポートでもたいへん励みになります。明日を生きられます。よろしくお願いします。