1/31~2/6、或る日の日記


或る日の日記10

すべての事物は、彼の必然と呼ぶところの渦巻がすべての事物の生成の原因である(デモクリトス)

 この2年で状況が変わってしまったものってあまりにも多いと思うのだけど、本当は「元々そうだったもの」の表出が激化しただけで本質的なところは誰も変わっていないのだと思う、変わったように見えるものも、その素因がなければそうはならない。みんな大切なものを素直に大切にしようと激しい行動をしてしまっているだけ、根本はそれだけだ。あいつはくだらないやつになっちまったな、と思うことがあっても元々そうだったのを知らなかっただけなのだよね。もしくは、知っていたのを必要に迫られてか、空気を呼んでか、知らぬふりをしてヘラヘラ付き合っていたのだろう。だから、何か変化が起きたとて、誰が悪いということではなく「私の*」幻想が裏切られてしまっただけなのだ。

 人と人の関係は幻想の共有で成立している。まるで恋の現象を説明するかのようなことを言ってしまっているけれど、そういうもんだ。「あの人はああいうところがある」「そうだよ、私はこういうところがある」というような、ある種の相対的なパブリックイメージみたいなものの総合が当該の「私」もしくは「あなた」である、と思われている。それが幻想の共有である。しかしほんとうは、本当は、そんな単純な話ではなく、もっと細かい原体験や原因やそういったものの編集で作られているものでもあって、そのバランスはいつ崩れるかわからないのだ。人はいつでも変わってしまう(そのように見える)し、元々の素因はその人の中に存在している。まるでデモクリトス的決定論のようなことを言っているような気がしなくもないけど。

 しばしば、インターネット上で「数年前に発言していたことと、現在発信している事柄について矛盾があること」について炎上したり、議論になったりなどする。公人ならば発言に責任を持て、というのは確かかもしれないが、あくまでも一般的な話をすると、ヒトは概ね複合的な要素でできていて、多くの言動のきっかけには矛盾を孕んでいるものである。それを全て把握できている人間なんて、いないのではないか、と思ったりなどする。このあたりの話は、また今度できたらいいな。否、できないかもしれない。明日には変わってしまうかも。あくまでもこれは「わたし*」の「今の考え事」であって、明日の行動とは矛盾してしまう(そのように見える)かもしれないので。

 わたしも、この2年で変わったように見えるかもしれない。けれど、わたし自身は根本の行動原理も原体験からの影響もなにも変わっていなくて、それを自覚しているし、あくまでも自分の中での再編集が行われているという認識がある。

* 私=コギト的な「我」のこと。
* わたし=書き手=九十九のこと。

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