2/21~2/27、或る日の日記

或る日の日記15

 その昔、亡き父とよく飛行場へ赴いては軍用機や旅客機を眺めていた。一緒に沖縄へ旅行に行ったときは、嘉手納基地近くを訪れた。間近で飛ぶ輸送機やF-15を見てそのかっこよさに純粋無垢に心を躍らせていたのを覚えている。

 わたしは大人になってからも、戦闘機を見るのが好きだった。今はそれが兵器を載せているということも知っているし、使い方次第で人の命を奪うものだということもわかっている。そもそも争いが無ければ必要がないものだが、どこかに争いがあるから必要になるのだ。武器さえなければ争いが起こらないか?というと、それはそうではないと思う、何かの大いなる意思が人間から武器を取り上げても、おそらく別の争いが起こる。全世界のヒトの心を根本から均一の価値観にしなければ、そうなる。しかしそんなことは不可能だろうし、現状で価値観の均一化を可能にする普遍の倫理というものはありえない。望むことは可能だが、無理に現実に当て嵌めようとするならば、野望としての宗教の利用ということになるかもしれないし(日本人の多くはピンとこないかもしれないが宗教は世界の価値基準に多大に影響を及ぼしている)、それこそ争いは避けられないだろう。武器の道具としてのかっこよさや綺麗さを語れるのは、なにも起こらないうちだけ。

 平和とは、一定の幸福の流布ではない。そして未だ達成されていない発明である。綺麗事を排除したまま事実を一言で言うとそういうことになってしまう。

 隣の国が戦争を始めてしまった。

少しのサポートでもたいへん励みになります。明日を生きられます。よろしくお願いします。