『知恵遅れ』を自称する私 言葉を探して

こんにちは。水島です。

私はこの3年くらい、ずっと探している言葉、言い方があります。

私は知性が一般的な人とズレていることがコンプレックスです。そしてたぶん、自分の人生のテーマ、課題です。
そのことを私はよく自虐で『私は知恵遅れ系だから、、』と言うのですが、自分に対して使うのが許される場合と、自分への表現であってもあまりよろしくない場合があります。

私はずっと自分が自称として使っている『知恵遅れ』に代わる言葉を探しています。

何度も調べてはいるのですが、言い換えとなると『精神遅滞』といった学術的な用語になってきます。あとは白痴だったり廃人などのゴリゴリな言葉が…。

いや、自分が白痴でもなんでもいいのですが、『何かしらの診断の有無にかかわらず己の知性に不便を認識していること』をスパッと表現し、どんな場面でも通用する言葉って、私が調べた限りですと存在しないのです。

私は頭が悪い自分が大っ嫌いです。
だからこそ、ピー音被せられるレベルの言葉を使って最大限に自分を貶します。
でも、それが『通らない言葉』であること。

私の頭の悪さは最低な、下劣な言葉でしか表現できないと信じていて、自分が嫌いだからこそそう言っていました。
しかし『知恵遅れ』と言うことで、逆にイマイチ私のヒドさが伝わらなかったり、趣味の悪いギャグみたいなニュアンスになってしまうことが多いと気づきました。

決してお上品に言いたいわけではない、一生頭が悪い自分は嫌いだし自分を悪く言うことはやめられないけど、違う言い方の必要性を感じるようになりました。

私は、以前の記事でも述べましたが発達障害という概念が浸透するずっとずっと前から自分は軽度の知的障害があるのだろうと思っていました。
発達障害の存在を知らなかったから知的障害だと信じていたのだろう、というのが正確なところでしょうか。しかし、今では『知的障害』の線はほぼないだろうという認識でいますが、発達障害気味であるかというと、それも違うような気がします。
『信号の色が変わったのがわからない』というのも、色覚異常とは言えません。赤と緑は区別がつきます。それが切り替わった瞬間がどうしても捉えられなくて、気づいたら青信号でした、ということ。
ドンキやヴィレヴァンのPOPが読めないのも、識字障害ではなく単純に掲示物が苦手なんです。

掲示物、といえば、私は大学院に進んでから教職課程を履修しましたが、今は発達障害に関する知識、理解は必須ですから、それについて詳しく解説される授業がありました。抱腹絶倒系の先生でとても面白かったのですが、なんという授業だったのかは覚えていません。

その先生は『発達障害傾向がある子には視覚的なガイドが必須』とよく仰っていて、ホワイトボードにキッチリ区切り線を引いて板書していました。その他にも、目で見てすぐにわかる掲示物と同時に、ゴチャゴチャ余計な情報が目に入らないように関係ない物は隠すこと、と。

私は視覚的理解にかなり難があるので、せっかくの親切な掲示物が脳に届きません。
たぶんモノは見えてはいますが、それが訴えている情報が、キャッチできない。『ペンキ塗りたて』にハッとせず、座ってしまうのです。

私の困りごとをまとめると、だいたいこんな感じです。
→信号の色が変わったことに気づけない、スポーツ・ゲームのルールが理解できない(勝ち負けを決めるシステムが苦手)、掲示物、標識に気づかずガン無視する、文字が文字に見えていない(ちょっと変わったフォントだと絵や模様にしか見えない)、文字通りにしか言葉を理解できない、言葉の範囲外の想像ができない、言語ではなく写真で記憶することしかできない、人間にあらゆることを知らせる『音』が聞こえない(レンチンとか気づかないです)、お金の計算(おつりや割引等)ができない、空気が読めない、重度の失言癖、etc

こんな感じで恥の多い人生を歩んできましたが、何か名前のついている、医学的に認められた概念に属したいという思いはあまりありません。
知るのが怖いとか、何かを失うんじゃないかとか、あとは単純にめんどくさいとか、そういうわけではありません。

何か診断がついたところでおそらく今までと変わらない自助努力しかできることがないし、診断を受けたことで自分の中で整理がついて安心した、という話もよく聞きますが、私には…メリットがないように思います。

仮にあなたは○○です、と断言されたところで、それ以後『私は○○なので…』と自称するのか。たぶんできないと思います。『普通』であることを切望し、今でも『普通』になることを諦め切れず、『頭が良い人は○○』といった書籍のようなコンプレックス商材のカモでしかない私は、たぶん、『障害は認められませんでした』も、『○○という障害があります』も、受け入れられないと思うんです。

白黒どう転んでも受け入れられないから、私は今でも専門家に相談しないままでいます。

これほど知性の欠落で屈辱的な人生を送ってきているのに何もありませんでした、じゃ途方に暮れますし、

逆に障害がありますね、と宣告されても、私が人生をかけて追い求めている『普通』になれないという現実を突きつけられたら、絶望して生きる気力を失うでしょう。

だから、自分の知性にとても不満である、という今の状態が努力の甲斐あるような気がしているのです。


夢を見過ぎでしょうか。


少し、努力で改善したことはありました。失言癖です。

私は過去に人を激昂させてきた実績を振り返ると、
『パンがないならお菓子を食べればいいじゃない』
的な発言が多かったのだと考えられます。

この発言は今ではマリー・アントワネットが言ったものではないと証明されていますが、

私が飢えた人民だとして、貴族様がンなことを発言したとしましょう、


…なんとも思わないんです。


『うーん、おやつじゃなくてちゃんとしたご飯が食べたいんだけどな…』とは思うのですが、1人の人間のある1つの意見としか思えなくて、そこに怒りやバカにされたという気持ちは芽生えてきません。

そして、本当にかき集めたお菓子ばかり食べて凌いでいるか、それすらもできずに餓死するのだと思います。

失言癖を持つ人は、たぶん他者の失言にも鈍いです(私の勝手な想像だと)。

今の世の中、著名人や個人かかわらずSNSの発言が炎上→大論争に発展したりします。

たびたび、『うーん、私も全力で怒らないといけないのかな…😥』と感じることがあります。ホントに絵文字の😥←こんな顔になってしまいます。


失言に対して怒り、執拗に攻撃する構図——これは何もSNS社会である現代特有のものではないです。
私は幼い頃からたくさん出火元になってきたし、この目で見てきたと思います。この記事でもちょっと紹介しています。
多くの人が同じ怒りを共有できることに私は驚愕します。

女性は話が長いだか、時間がかかる、でしたっけ、世の中が正しい怒りで燃えているところで、失言を失言だと理解できない私は取り残されました。

変な話をしますが、他者の発言に怒れる人を私は心底羨ましく思ってきました。
『怒り』という感情への憧れです。小学校の頃、些細なことでキレ散らかせる女の子が私にとって『カッコいい』だったんです。
怒ってる…怖い、けど自分が理解できないことに怒ってる。いいなぁ。

物事をサッと理解したから怒れるのであって、それはとても羨ましかった…。
私もそうなりたくて"キレポイント"を探すのですが、まぁ見つからなかったですね。


話を戻しますが、何か医学的な判定が下されているわけではなく、ファッション的自称でもなく、しかし自分の知能に強烈な不便やコンプレックスを抱いている状態、人のことが簡潔に、でも十分伝わるような言葉が見つからなくて、何と表現したらいいのか彷徨っています。
不便な人生送ってそうだな、という印象がありながらも、これからもずっと差別用語扱いされることのないニュートラルな言葉があったら、医学的な査定に左右されず、とにかく自分が不器用であることが伝えられそうに思います。

『ちょっと言い方アレなんですけど』という前置きなしで、あまり品が悪くならずに説明できたら嬉しい…という思いで、3年も模索していました。


自分が普通になれたら、そんな必要ないのですが。





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