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【記憶の石】①

 夢の続きが気になって二度寝してしまうように、そしてその夢には二度と戻れないと知っているのに、消えかかっている幻にしがみついてしまうことがある。甘い記憶の欠片たちを拾い集めて守ろうとしても、朝日に照らされれば残るのは僅かだ。

 夢の終わりに到達できることはない。目が覚めたら終わるのだろうが、もしアラームをセットし忘れていたら続きがあっただろうし、でも映画のような明確なエンディングはない。夢の終わりは、誰も知らない。

 終わりがないということは、ある場面が永遠にループしているか、あるいは果てしなく続くということである。我々が夢を見たとき、印象に残った一場面がその日の頭の中に繰り返し再生される。覚醒によって中断されても、そのシーンはしばらく生き続けるし、もしかしたらその世界はどこかで続いているかもしれない。我々は夢を最後まで見る術を知らない。夢を手放したくなければ、大切な断片を頭の中で繰り返しているしかない。やがてその断片もつるんと丸く削られて、まるでペンダントやブレスレットにでもできそうな石になる。もうその塊でしか再生できなくなるのだ。

 無限ループなのか、あるいは別のストーリーが進んでいるのか―バンさんとの夢は、大きな石一つで作ったペンダントではなく、数珠としてループしている。一緒に映画を観に行ったことや、私が半裸で押し倒した夜が。どれが始まりの石、というのはなく、そのときどきで選び取った粒から再生してみる。私は今後増えることも減ることもない夢の記憶の石を、いつまでも握っている。バンさんはもう私のことなど忘れているか、忌まわしい女として忘れようと努めているところだろうが、粒の中にある過去は事実として永久に閉じ込められている。私はそれがいつまでも愛おしくて仕方ない。バンさんに好いてもらえていた瞬間、もうデバイスからは消えてしまった長いメッセージ、青白い頬と薄い唇。それらは私の胸を引っ掻き回す。数珠が擦れ合う音を立てて。


 私の人生の記憶はすべてエピソードの石を積み上げることで成り立っている。大きさは出来事によってさまざまで、砂利くらいの粒もあれば巨大な岩もある。はじめは細部まで鮮明でごつごつとした塊だが、時間を経て角が削れていき、最終的にはそれ以上小さくならないサイズに落ち着いていく。良いことも悪いことも、だいたい悪いことのほうが大きな塊として残ったけれども、私は毎日記憶のコレクションからいくつかピックアップして弄んでいた。削れたり埋もれたりして目立たなくなることはあっても、どれ一つとして抹消できたものはなかった。


 例えば―私が初めて他者からの拒絶を認識した五月のある日の記憶について話そう。私は小学校一年生で、クラスのリーダー格の女の子が私以外の女子を引き連れて下校していた。彼女の誕生日会だったという。後からふんわりと聞いた話によれば、その子は私のことをとても目障りに思っていて、学校では仲間はずれは許されないから、家で最高のメンバーで誕生日を迎えたらしかった。小学校の六年間はずいぶんとその衝撃に襲われたけれども、だんだんと記憶の角がとれてきて、あるときからは同じ大きさを保ち続けて今でもときどき私の心の視界に転がり込んでくる。


 ある人の人生と、ある人の物語とは別物であると思う。生まれて始まり死で終わるのが人生、人の歴史というもので、物語として人の生涯を語ろうとすれば、それはまさに記憶の粒の選択である。どの粒で終わらせるか、選ぶことができる。選ばれなかった他の粒で別バージョンの物語を紡いでいくことも可能だろう。


 私の最古の記憶は母の実家で授乳されているシーンで、私はその小さな石の中で当時の情景を永遠に再生することができる。まだ建て替える前の昭和の残り香がする平屋の居間で、母乳の味は覚えていないが―あのとき、私は飲んでいなかったと思う。母乳が喉を通る感覚だけが記憶から欠けている。おそらく、私は乳首を咥えなければならないということを本能的に知っていたので、とりあえずそうしてみたと思う。私は目をくるくる動かして、母の肩越しに祖母を見た。次に、小さな手を押して母の胸元から離れようとした。母はいらないのね、と反応した。

 私はこの一粒をもって自己の精神の目覚めとしている。しかし、私の人生を語るにあたって生まれたときから振り返る必要はない。私はスタート地点となる石を選ぶことができるし、ある時期をスキップすることもできる。

 例えば、私はバンさんとのある一粒をよく転がしてみる。私はいきなりこんなところから話し出してもいい。




 その夜、駅前のチェーン居酒屋に入ったのは午前1時を過ぎていた。いつもバンさんに会うときは会話の内容を覚えていない。抱きついて、キスしていいタイミングを伺っている。早くその唇を貪りたい、その瞬間を待っている。バンさんがいつも個室の飲み屋を選んでくれるのは、その流れがわかりきっているからだ。

 テーブルの下でバンさんの足をつつく。バンさんは表情を変えない。私がバンさんの隣に滑り込む。横から抱きつく。バンさんの体は薄い。今度はバンさんの頭を抱えて唇を合わせる。バンさんはここまで来てようやく反応してくれる。抱きしめてはくれないけれども、舌のうねりを返してくれる。バンさんも、もしかしたらこの瞬間を楽しみにしてくれているのではないかと、密かに思っている。キスの合間に好きだよ、など言葉を挟む。まだ唇と唇が触れ合っている状態で囁く。耳元でも愛していると言う。バンさんはこれに答えるのは困ってしまうので、『うん』と『うーん』の間くらいの返事をしてくる。

『ねぇねぇダメ?』私はバンさんに抱かれたいと懇願する。バンさんもここまでわかっている。やはり『うーん』としか言ってくれないが、相手に好きだと言うのは何か利己的な快感があるのだった。

 深夜三時前に居酒屋を出た。私たちは1丁目と2丁目の距離に住んでいるので同じ方面に向かって歩いていく。できるだけ長くバンさんと一緒にいたくて、ギリギリまで歩幅を小さく、ゆっくり進んでいった。

『じゃあ俺はこっちだから。』バンさんは立ち止まった。私はバンさんの首に両腕を回して唇を塞いだ。カラン、と唇の隙間から音がする。居酒屋のレジ横に口直しのキャンディが置いてあったので咄嗟に思いついたこと。キスを拒絶しないバンさんの口内に、すんなりとキャンディは転がっていった。両腕でバンさんにしがみつきながら、1つ1つ言葉を絞り出した。

『私ね、本当にバンさんのこと好きなの、もう…こんなに好きになったの初めてで…。』大きく息継ぎしながらバンさんの左耳に吹き込む。

 見上げるとバンさんは目線を斜め下にして、薄い唇の口角はかすかに上がっていた。要するに今はちょっと、ということだったがバンさんの言葉は具体的には思い出せない。

 九月下旬の、夜中の三時。風が草木を擦る中、虫の鳴き声が響く。虫の声は雨粒のようだ。見ようと思えば一粒ずつ、地面に落ちて溶けていくのを追うことができる。そのように、リンリン、ケラケラと降り注ぐ音に耳をすませば、落下する速度や声の重さに一つとして同じものはないことがわかる。私は恥ずかしくて虫の声に少しの間耳を逃がしてしまっていた。私たちの足元にはコンクリートに埋め込まれた赤のLEDがチカチカと光っている。十字路の真ん中で私はバンさんに抱きついたままだった。私の好意とバンさんのかすかな情が重なっていた。

 『うん、うんうん…ほんとに好き…また会えるよね?』

 バンさんは目を合わせないまま少しだけ照れ笑いして、細かく首を縦に振った。

 『うん、会えるよ。』

 『嬉しい。』

 薄い唇から小さくフフッと漏らしながら、バンさんはキスしてくれた。先ほど口移しであげたキャンディがまだ残っていて、二人でキャンディを移し合った。だいぶ小さくなったキャンディは最後にバンさんの口に残した。完全に溶けるまでキスしていたかったけれども、バンさんの帰り道に少しでも私の欠片を感じてほしかった。

 フフフ、と笑いながらぴょんぴょん飛び跳ねるように、バンさんがいない残りの道を歩いて行った。抱きついて駄々をこねたり、長くキスをしていたりずいぶんと引っ張ったので、帰宅したときにはもう朝の四時近くになっていた。



 私はこのように石を取り出すことで自分の人生を語っている。バンさんへの満たされない肉欲の記憶、最も多く再生したこの記憶によって自己を語りたいこともあれば、別の苦悩が自己の存在を再確認させてくれることもある。


 これは記憶の石を選び取って披露していくことで私の人生を、あらゆる悔恨、惆悵を1つの物語にするという試みである。ここで選ばれなかった石たちが、磨かれ、輝きを放つように。

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