【記憶の石】②
携帯電話の小さな画面、今思えばずいぶんと小さいその四角に、少女はあまりにも広大な希望を見出した。これを仕方なく希望という言葉の範囲内に収めるしかなかった未来への期待だった。少女は画面の枠を逸脱した途方もない未来のイメージに一瞬にして心酔してしまった。
23歳の大学院生を自称するその男はトモと名乗った。トモは自分の日記に自身の写真を載せていた。日記の内容としては煙草がやめられないという旨で画像とは関係がなかった。ふんだんに絵文字を使用した文章は、写真の人物とは似つかわしくなかった。
トモの腰から上が写ったその写真は、少女には刺激が強かった。アロハシャツを羽織り、少し根元が伸びた茶髪、顎髭、小さめのサングラスをしていた。斜めの角度から撮られており、サングラスで目元はわからないが鼻の大きさと唇の厚みが当時の画質でもしっかり確認できた。画面から切れた先の手元には、きっと煙草が挟まれているのだろうと思われた。少女はトモのプロフィールページに何度もアクセスした。大学名、星座、トモのあらゆる属性すべてを暗記したのに、何度もそのページに飛んでは熟読した。
ソーシャル・ネットワーキング・サービスという語が浸透するずっと前から、日本人は自分の、他人の「プロフィール」が好きだったのだろう。小学校の女子児童はプロフィール帳なるカードを持っていた。それは自己紹介のテンプレートやアンケートのような内容の可愛いカードで、クラスメイトに配って書かせては回収し、それ専用のバインダーに挟んで保管するものだった。内容としては名前や住所等のまさに「自分の情報」を書いてもらうのだが、子供たちがメインコンテンツとしていたのはより踏み込んだ質問で、それに回答することが一つの自己表現であった。もしも魔法が使えたら、好きな教科は、将来の夢は——、プロフィール帳のカードの質問内容はそのデザインによって差異はあったものの、必ずと言っていいほど恋愛に関する質問があった。だいたい、「すきな人は…:いる・いない」と、まず好きな相手の有無に〇を書かせた。その年代の女子にとっては、彼氏の有無以前に好きな人の存在自体が既に重大な情報だったのである。
プロフィール帳の文化はすぐにネットの世界にも定着した。自己紹介自体がメインコンテンツの「プロフサイト」なるものが爆発的に流行しただけでなく、ブログに掲載するための「100の質問」といった質問のテンプレートも乱立していた。少女がトモと接触した携帯サイトはゲームがメインコンテンツとはいえ、SNSとして十分完成されたものであって人のプロフィールページを渡り歩き日記をチェックする、他者への興味も自分の見せ方の追及も果てしない世界であった。
少女がそのゲームサイトに登録した理由は単純に、携帯を買ってもらったなら登録してほしいとクラスメイトから招待メールのようなものが届いたからであった。少女は進学先も決まっていない中学校3年生の終わり、最も親たちが子供を携帯電話から遠ざけようと躍起になっているであろう時期になぜか携帯電話を買い与えられた。少女は3月末生まれだったので中3の終わりでもまだ14歳だった。サイトに招待してきた同級生は仲良しというほどの関係ではなかったが、誰かを招待して登録させるとサイト内でアバター等のアップグレードに使えるポイントが贈呈されるらしかった。
少女の上の3人の家族、両親と姉からほぼ空っぽのメールを受け取って4通目の招待メールが、初めて赤の他人から受け取った携帯メールだった。少女はそれでも家族以外の者との通信を喜んだ。
テンキーの下ボタンと真ん中の決定ボタンで外部との世界は開かれた。招待してきたクラスメイトの化身のアバターがいた。少女は「かれん」に習ってプロフィールを埋めた。かれんは既に進路が決まっていて、自己紹介文に進学先の学校名を書いていた。住んでいる地域、学校、好きなアニメ、あとは何か上手いことを言って締める。かれんは自己紹介の達人だった。少女も同じくらいの雰囲気を目指して化身を完成させた。受験生、ネイルアートに興味がある、同じ県内の人と繋がれたら嬉しい。かれんよりもいくらか控えめな文面であったが、少女は他の中学生女子と同じくどれほど「プロフ」が人間関係構築において重要であるかを理解していた。
ゲームサイトに登録して2、3日は、かれんを起点として同じ中学校の同級生のページを次々と発見することができた。かれんの「ともだちリスト」には同級生と思われるニックネームが並び少女は一通りチェックしてみた。誰かのページを見ると「足跡」という訪問した印がつくので、少女からの足跡に気づいてくれた者は彼女のニックネームにも飛んだ。学校では見向きもしてくれないのに、サイト内の同級生たちはほぼ全員が少女を自分のともだちリストに追加してくれた。同級生たちは既にたくさんの「日記」を書いており、少女も自己表現の欲を少しずつ深めていった。
そうしているうちに、見知らぬ人からの足跡も増えていった。隣町の中学生と思われるプロフィールから足跡の輪は広がり、県内の大学生や違う市の成人のユーザーからも自分のページを覗かれることが多くなった。少女はいくらか年上のユーザーの日記を見て彼らがたいそう華やかな生活をしていると感じた。華やか、というのは少女の基準によるものだったが、友人と遊んだ、新しいネイル、看護学生の日常、少年院を出た若者の心の叫び、アルバイトで稼いだお金をすべて服を買うのに使った高校生、シングルマザー、皆確固とした自己を持っていた。日記がネガティブな内容であっても、少女にはそれで自分が何者であるかを楽しんでいるように見えた。「病み」という概念があるということはパソコンでネットサーフィンをしていてぼんやりと知っていた。病みはカルチャー、ある種の文学であった。ネットの世界にはつい薬を多く飲んでしまう人や、恋人に張り倒されてもそれでも好きだと叫ぶ女がいた。少女はそんな表現ができる人々を羨んだ。
しかし少女は病めないほど幸福というわけではなかった。少なくとも安全な生活はしていた。彼女の不幸せは文字起こしして披露できる類のものではなかった。例えば人間関係の悩みなど、彼女には高級過ぎた。少女には悩める対象となる人物などいなかった。そして虐められてもいなかった。修学旅行のグループ分けの際に『一番の思い出の機会にコイツと一緒だけは嫌だ』とクラス中が押し付け合いの大喧嘩になったくらいで、攻撃の対象ですらなかった。
少女は友人という存在を持たずにこの学年まで育ってきた。学校の誰もが彼女を避けた。誰もが彼女に接する理由、価値を見出せなかった。少女は自分の体が透けていたらいいのにと何度も腕を見て確かめた。しかしクラスメイト達には少女の姿が見えていた。少女を知っていた。名前も、家も、少女の姉に接する価値も、知っていた。ただ、喜ばれなかった。少女の存在は喜ばれなかった。修学旅行の話以前にも、自分の存在が大切な日を台無しにした実績があったであろうことを、彼女は認識していた。
少女は思えば物心ついた頃から孤独だった。幼稚園では、他の園児たちが自分とは違う生物の群れに見えていた。同じクラスに先生と親が引き合わせたかえでちゃんという友達ができたはずであったが、たまたま裏の家に住んでいる同い年だからと勝手に友達だと決められただけであって、かえでちゃんは少女よりもその姉に興味を示した。しかし1つ年上の子と関わるには同い年の少女がセットでなければならず、これも今思えば、かえでちゃんは常に少女に対して排除の感情を露わにしていた。
少女が排除の感情を初めて認識したのは、小学校に上がって間もない頃、初めて人づてに自分の悪口を聞いた日だった。悪口、と言える内容なのか絶妙なところであったが、同じクラスの存在が喜ばれるタイプの女の子が少女のことがあまり好きではないと発言したそうだ。だから誕生日会に招待しなかったと。5月初旬に少女以外のクラスメイトをぞろぞろと引き連れて下校していたのがそうだったらしい。それを聞いた少女は、自分は期待される存在ではないことを認識し、そして幼児期の原始的な社会における疎外感が何であったのかを理解した。
5月生まれ——少女は誕生日が早めの子が妬ましかった。そういえば人気者の姉も5月生まれだった。4月から3月まで区切られた1つの世代の中で早く生まれてきた者の処世の器用さ、華やかさはどうしても手が届かなかった。年齢が1桁の者たちの社会において、10ヶ月や11ヶ月の人生経験の差は甚大であった。姉は1つ上の学年だったが、実質二歳差だった。当時は出席番号が誕生日順で決められていたので、その番号でクラス内のおおよそのポジションが推測できてしまった。
少女は自身の孤独に恥という感情を反射させた。少女は寂しいなど毛頭思っていなかった。学校の誰もが少女を魅力がない、価値がない人間だと判断してきたが少女も同じく学校のメンバー達に興味がなかった。しかし誰も寄せ付けない体質は大変煩わしいものだった。子供たちは学校で常に行動を共にする存在を持つ。それも、自然に引き合ってセットになる。そのプロセスに何も苦労はない。教室を出て体育館や音楽室に向かう、そしてまた教室に帰るほんのささやかな旅路のパートナーがいないということが、あまりにも不名誉だった。孤独感よりも羞恥心が勝った。少女は誰かに付属したくてあらゆる努力を講じた。自分から近づいていけばセットになれるのではと考え、人のまとまりに接近してみた。教室から、同じ階の図工室まで—人間関係構築スキルが高い子たちは邪魔な存在を排除する能力にも長けていた。必死で早歩きでついて行っても、気がついたら輪からはじかれてしまう。それが2つ先の教室であったとしても、目的地に着くまでに彼女たちの精神の連帯は必ず排除に成功した。並んで歩くパートナーを得ることは到底不可能らしかったので、少女はできる限り羞恥心から逃れられる方法を模索した。恥ずかしいという感情は他者がいてこそ成り立つもので、誰にも1人で歩いているところを目撃されなければ自尊心を損なわずに済むと考えた。ならば、人の流れを避けて時間差で移動することが必要だ。人の流れが生じるよりずっと前、もしくはずっと後に動き出すよう細心の注意を払って生活するようになった。そのちょっとした心掛けでいくらか学校生活は楽になった。
誰かと共に歩く夢に挫折しても、当然ながら孤独の恥は移動の場面だけにとどまらなかったので、少女にはまだ努力できることはあった。子供向けの雑誌におまじないの小冊子が付録でついていたので、友達がたくさんできそうな術を試してみた。効果はなかったのだろうが、指南書通りに緑のペンでお願い事を書いている時間はたいへんな慰めになった。そして少女も自分でプロフィール帳を持つようになった。女の子たちは、プロフィールをたくさん回収したがったので、男子や距離感の近い教員などお願いできる人には片っ端から紙を渡していた。少女は女子たちがプロフィールを記入するのをお願いする最後の1人となっていた。枚数稼ぎのためであっても、他者から話しかけられると心が躍った。自分が依頼されれば、少女は相手の女の子にもプロフィールをお願いすることができた。少女は依頼主の興味をそそるようなことを書こうとした。あまりにも狙いすぎて、「すきなもの」の欄には深夜に風景を垂れ流しているだけのテレビ番組や大人の肴のような食材を書いたり、好きな映画にまだ自分が観る権利がないはずのグロテスクな映画を挙げたりなどして大いに滑っていた。せっかくカード交換で多くの素晴らしい見本を手に入れることができていたというのに、人生の初期においては、人は共通項から互いへの興味を見出すということを少女は知らなかった。
少女がモノで人の歓心を買おうとする癖がついたのもだいぶ早かった。家族旅行などに行けば、母親に無理を言ってクラスの1人1人にお土産を買ってきた。箱にたくさん入ったバラ撒けるお菓子ではなく、例えば女子であれば小さな鏡や綺麗なペンをプレゼントしていた。それが食べ物でないこともこだわりだった。物体として残っていれば、自分のことを思い出してくれるのではないかと考えた。実際に少女はよく吟味していたので、だいたいの者が厳選の土産品を使ってくれていた。お土産を渡すことは、1人1人に話しかけられる貴重なチャンスだった。同時に、家族旅行、というのも少女の孤独の屈辱感を甚だ刺激するイベントであった。少女と対話する存在は家族しかいなかった。それも、そこそこまともなほうの家庭で少女は自分がかいがいしく教育されていることを理解していた。どこにも機能不全なところはなかった。孤独への癒しを家庭に求めたことはなかった。家はどこよりも安全だった。しかし逃れることができた感情は恥それのみで、家庭が温かく幸せと思えるほど精神は成熟していなかった。少女は赤の他人を渇望した。できれば派手な、華やかな、プロフィール帳を交換している数が多い—そんな理想を抱いた。何度も緑のペンでお願い事を書いているうちに理想が高くなってしまったが、豊かな人間関係を築きたいのではなく、まずは誰かに付属することで恥ずかしいと思わなくてよい生活がしたいと切望した。
羞恥心から逃れたいという、少女にとってはどちらかと言えば生存のための欲求に分類される感情が中学終わりのこの時点まで満たされることのないまま、さらに人間としての社会的欲求を刺激する人格が、ゲームサイトには溢れるほど存在していた。人と繋がりたい欲求に加え、自分が何者かであることを楽しみたい願望も生じた。トモが大学院生を名乗っていたように、自分も何らかの属性を持たなければ——受験目前の中学3年生。それは華やかではない。少年院を出た若者のページに飛んでみる。今はホストをしているそうだ。日記に載せられていたザラザラした自撮りに青々としたカラコンが光っている。少年院は難易度が高すぎるが、あなたに興味がありますという気持ちで足跡を残す。次は処方された薬の一覧を丁寧に日記に記す女へ。既定の数倍の薬を飲んでいるらしい。その女の繋がりからまた「病み」属性のプロフィールを旅する。彼氏に何度メールしても電話しても反応がない、他の女ができたのかという日記をざっと読む。少女には返事を待ち望む相手すらいない。友達関係すら経験していない少女に、恋愛など少年院と同じくらい遠い世界の話だった。
高校に入ったら何か変わるだろうか——この、住所が政令指定都市内というだけの田舎、不審者よりも熊や猪が多く出没する小さな集落で、その住民の子息たちが集う学校に閉じ込められていては街中への進学を待つしかないのだろう。
足跡の網で繋がったトモは、『受験生なの❓もうすぐだね~🌸オレは理系だから数学なら得意‼♂教えてあげょうか❓』とテンションの高いメッセージを送ってきた。
『初めまして(^^)大学院ってなんかすごそうですね。大学のもっと上なんですよね👀』
『初めまして☺なんかオレ、すみれチャンのことすごい気になる↑↑入試ゎいつなの❓』
『第一志望の公立は三月の頭です✍』
少女は丁寧に返事を送った。ひと回り近く年上であるのと、日記に載せた写真が怖そうだったので一瞬怯んだが、間違いなく自分のように孤独で惨めな人間ではないと感じたので背伸びしてこの人物との関わりに挑戦したのだった。
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