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地下鉄サリン事件ーー25年目の全駅献花巡り


 今日(3/20)、東京都心の6ヶ所の地下鉄駅構内に、こんな献花台がひっそりと設置された。ちょうど25年前の今朝8時頃、丸ノ内線・日比谷線・千代田線を大混乱に陥れた、世界史上初の都市型化学兵器テロ事件。その犠牲者が出た現場だ。


 毎年この日は、テロのメイン・ターゲットだった霞ヶ関駅にメディアが集中するが、実はその6駅全てを巡って静かに献花している事件被害者(とその支援者)の一団がいる。ガイド役を務めているのは、NPO「リカバリーサポートセンター」(以下“RSC”)。6500人近いと言われる重軽症者の中には、未だに後遺症に悩まされている人たちもおり、その医療支援を続けている団体だ。(ボランティアの医師・看護師・カウンセラーらによって毎年秋に続けられている無料検診の様子は、こちら。)
 私もそのRSCの一理事として、例年通り、今日も被害者の皆さんの全駅巡りに同行させていただいた。

※050319/初の献花ツアー(被害者50人・支援者50人)

 これは、事件発生から丸10年の前日=2005.3.19、初めてこの献花ツアーを実施した時の様子。「あの事件以来、怖くて地下鉄の駅に下りて行けない」という人達の為に克服のリハビリも兼ねていたので、具合が悪くなることに備えて医師が乗った小型バスまで路線上を伴走させてのチャレンジだった。

最多の小伝馬町から、直近の中野坂上まで


 ―――以来、参加者の皆さんの希望で毎年開かれるようになったこの献花ツアー。初回は被害者・支援者合わせて約100人の参加だったが、以来年々順調に(リハビリ卒業の意味もあるからこれは良いことなのだと思う)減り続け、16回目の今日はコロナ感染警戒もあって総勢6人のささやかな弔問となった。

築地駅/車両と献花所

 1ヶ所で最多(4人)の犠牲者を出した小伝馬町駅からスタートし、日比谷線で八丁堀駅、築地駅(上の写真)の順に巡る。献花台は、殆どの駅でこのようなホーム外れの駅事務室兼「お忘れ物取扱所」内に臨時で設置されている。

 そう、まさにサリン事件は、今日も地下鉄を利用している多くの乗客にとって、もうすっかり記憶の彼方の「お忘れ物」になっているのだ。沢山の花束を持っている私達の姿を見る電車内の人々の表情は、この15年、確実に変化してきた。「あ、そうか今日は…」と気づいたような反応は年々減り、今や殆ど「この人達、なんだろう?」という顔しかされない。


 唯一の例外が、メディア・イベントとなる霞ヶ関駅なのだが…そこも今日は、コロナ一色の中、テレビカメラはNHKと東京MXだけという、かつてない少なさだった。インタビューに応じているのは、被害者の加藤勲さん(手前)と、RSC理事長の木村晋介弁護士(写真中央)。記者の多くは、事件当時やっと物心ついてきたかどうか…という年代。中には、まだ生まれていなかったという記者も!

霞ヶ関駅/取材に答える加藤氏と木村理事長

 霞ヶ関駅の後は、神谷町駅を経て、丸ノ内線に乗り換え、ラスト6駅目の中野坂上駅に向かう。今日は、この最後の駅での献花には特別の重みが加わった。先週亡くなったばかりの14人目の犠牲者・浅川幸子さんは、ここで倒れたのだ。


あの日、被害者1人1人に起きていたこと


 以来25年間、ずっと看病を続けてきた兄の浅川一雄さんは、かつて木村RSC理事長に、事件当日の様子をこんなに詳しく証言している。妹さんが運ばれた、との知らせを受けて駆けつけた、東京医科大病院の様子。

 病院中に患者があふれて、ごった返しています。妹は救命医療センターに入っていて、すぐには面会できないということで、私が妹の入院手続きを取りました。
 妹が中野坂上の駅で心肺停止の状態で倒れていたこと、地下鉄に撒かれた毒ガスサリンが原因であること、レスキュー隊の人工呼吸や心臓マッサージによって一命を取りとめて、救急搬送されてきたこと、レスキュー隊の1人が2次被害で倒れていること。話を聞いて驚くことばかりでした。

 ようやく面会が許されたのは、病院に着いて3、4時間くらいたってからでしょうか。その時の妹の姿にまた驚かされました。病衣を着せられ、体にいろんなものが取り付けられていました。人工呼吸器だけでなく、点滴やら何やらいろんな管がありました。顔は土気色でした。もう死んでしまうんじゃあないか、心配になって「お兄ちゃん来たから安心しな」と声をかけました。返事はありませんでした。
   【木村晋介著「サリン それぞれの証」(本の雑誌社)より/以下同】

 あの事件で被害者に対応した医療機関は、実に278ヶ所もあったという。最多の被害者が押し寄せ“野戦病院”と化した聖路加国際病院を中心に、こうした光景が、大小至る所で同時に発生していた。25年前の今日の東京は、そういう修羅場だったのだ。

 一雄さんは、そのまま妹さんの病院で一晩を過ごし、翌朝一旦帰宅した。その時のこと。

 無性に悲しみがこみ上げてきました。家内に「すまない。泣かせてくれ」と断って、すべてを吐き出す思いで泣きました。泣きわめきました。妻も一緒に泣いていました。私は普段、人前では絶対泣かないことを信条にしていましたが、このときばかりは、そうはいきませんでした。
 泣いたあとに、これから起こる全てのことを受け入れようと決めました。

 全てを受け入れると決めた一雄さんは、以来、幸子さんの長い長いリハビリ入院と、その後に続く在宅介護を伴走して来られた。サリン中毒による低酸素脳症、寝たきりの重度言語障害に回復の兆しはなかったが、それでも。

 妹の記憶力もすっかり衰えてはいますが、時々、不自由な口で、「兄貴」と言ったり、私の子供の名前を呼んだり、大好きなコーヒーを飲んで「おいしい」と言ったりしてくれると、苦労も忘れます。


 ーーー先週、ついに旅立たれた浅川幸子さん。その中野坂上駅の献花台の脇には、今日、新型コロナへの警戒を呼びかけるポスターが、貼り出されていた。

中野坂上駅/コロナ注意ポスターと

 

【 付 記 】

 このコロナ騒ぎさえ無ければ、今日は午後から、聖路加病院の関連施設で、事件当時生まれていなかった25歳以下の若者たちに被害者の皆さんが少人数ずつの車座になって当時を語る、語り継ぎの会が開かれる予定だった。この中止は、本当に残念でならない。
 いつかコロナが一段落したら、なんとしても開催したい。

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