はじめて、をはじめてみる
少し前に一眼レフカメラを買って、
文字だけの説明書なんか苦手なわたしは、
ひたすら撮っている。
鞄に入れて、持ち歩いて、
何とは無しに撮る、撮る、撮る。
15年ぶりに、英会話を習いはじめた。
久しぶりすぎて、
日常から英語が消えたこともあって、
ほんとに初心者のレベルからやり直しをしている。
そして、ひたすら
聞く、話す、作る。聞く、話す、作る。
の、繰り返し。
カメラも英会話も、ちっとも上達しないとは言え、
この「格闘」している感じがよい。
どうにもできない、ひたすらやるしかない、
この感覚がよい。
どうも、年を重ねると、
色んなことに慣れっこになってしまう。
経験を積むこと自体はよいのだが、一旦慣れてしまうと、気がつかないうちに、感覚を置き去りにしていたりする。
そして、勝手に分析して、一方的に統計だてて、ひとり分かった気になる。
本当のところは、分からないのに。
特に、わたしのような、分析好きには、この「慣れっこ」と言うのは注意が必要だ。
どんどん、フィルターがかかる。
人でもモノでも経験でも、付き合いが長く深くなるほど、容易にフィルターがかかるし、かけられる。
また、その一方で、
何事にも“意図”を求められることに、
お腹いっぱいになっているとき。
感覚で理解していることに説明を求められると、説明しようとした途端に、理解していることと離れていく。
特にわたしの場合は、先に感覚での思いつきがあって、それを後から時間をかけてロジックや経験をベースに分析したり検証していくので、
思いつきの段階で、
「それはどういうことですか?」
「それはどうしてわかるんですか?」
と、問われると途端に思考が停止する。
もちろん、その後に続く会話で、理論立てできたり整理できたりする場合も往々にしてあるのだが、
曖昧さ許さじ、みたいな方の場合は、「論理的で明確な答え」を求めていたりする場合もあるので、わたしの第一声が答えの全てだと思われたりする。
そんなことに、辟易しているとき。
わたしも「慣れて」そんな風に誰かに接しているかもしれない。
そんな時に。
この、はじめて、をはじめてみることは、
“なんとなく”とか、“こんな感じ”とか、“説明できないけどこうしたいの!”とか、
意図できない、直感への空腹をもたらしてくれる。
その曖昧さを掘り下げていけば、意図はあるのだろうけれど。
この操作できない、ただひたすら、習い、向き合い、手に入れようとする。
時にかっこ悪く、情けない。
どうにもできないことを思い出す。
どうにもならないことがあることを思い知る。
それでも、少しずつの積み重ねが、ある時ストンと自身に落ちることを思い出す。
ただただ、素直に受け取ることを思い出す。
人に頼ることを思い出す。
はじめての不安を思い出す。
はじめての悦びが蘇る。
チャレンジすることへの恐怖を思い出す。
そんな体験をくれた人の温かさを思い出す。
できた時の安堵と恍惚を思い出す。
直感に貪欲になれる時間を持つことで、
慣れっこになってしまったものへも、また新たな視点をくれる。
そうすると、あたりまえの日常が、
いろんなはじめてに溢れていることに気づかされる。
初心者マークをつけることの、
潔さよ。
この感覚を忘れないために、
はじめて、をはじめてみることは、
わたしには必要なのだ。
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