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しいたけさんに励まされたから、心の鈍痛について書き記す

苦しい。なんだか苦しい。
こんな思いを、このところずっと抱えている。

風邪っぽい症状がずっと治らなかったり、急な暑さだったりで、実際に体がしんどいというのもあるのだけど、それ以上に、この社会の中で、あまりに自分にできることがなくて、私が手にしている小さな希望のかけらが、スルスルと零れ落ちていくような感覚がある。
だから、それを丁寧に拾って、また新しい希望のかけらを見つけていくんだけど、やっぱり零れ落ちていく。
その繰り返しの日々に、少し疲れてしまったのかもしれない。

元々私一人にできることなんてたかが知れている。
だけど、微力だけど無力ではないとの思いを胸に、小さいことから、それも楽しんでやっていこうと、これまで踏ん張ってきた。

それでも、この苦しさはおさまらない。おさまらないどころか、どんどん強くなっていく。
もう逃げ出してしまいたくなるような月曜の朝、しいたけさんがくれたメッセージが、とても刺さった。

世界の痛みを感じながらも、何もできない自分がいたりすると、鈍い痛みを感じてしまったりもする。でもちょっとだけ、今は「痛むのが仕事」だと思ってほしいのです。未来において、「他者」とか「地域」に対して何かをやっていく人は、そのきっかけとして「胸に痛みを抱えたことがある人」だったりします。

何かをやろうとしている人の100日間は、失礼な言い方ですが、何もしない人の100日間と表面的には変わっては見えません。でも、外に出てこないだけど、そこでやっている「もがき」は、その人の表現や成果に対して確実に深みや鋭さを与えていってくれます。

◆しいたけ占い 8月3日(月)~8月9日(日)の運勢は?<魚座>
https://voguegirl.jp/horoscope/shiitake/pisces/20200803/

これを読んで、今の私の鈍痛を書き記しておこうと思った。
何もできやしないけれど、このもがきに意味があるのなら、記録を残しておくことにも意味がある気がする。

長くて暗いnoteになるけれど、今これを出さないと、私は前にいけない気がする。よかったらお付き合いください。

優生思想との戦い

7月下旬、ALS患者の方が依頼し、医師が薬物を投与して亡くなったという事件が発覚しました。
それを受けて、同じALS患者であり国会議員でもある船後さんが、「生きる権利」を守る社会をつくっていくことが使命だと声明を出しました。
すると今度は、日本維新の会の馬場幹事長が尊厳死を考えるプロジェクトチームの立ち上げの表明と同時に、「議論の旗振り役になるべき方が議論を封じるようなコメントを出している。非常に残念だ」とコメントを出しました。

ALSを発病することの恐怖は、私にはわかりません。それでも、「ALS発病=死にたくなるはず」という前提に立つことの恐ろしさはわかります。生きる辛さを理解しようとすることと、あなた生きてるの辛いだろうから死んでもいいですよと言うことは、まったく別のことです。
意思の疎通ができない障害者だけを選んで殺害した、津久井やまゆり園事件にも似たような恐怖を感じます。

社会性をもって生き抜くことを選んだ人間にとって、優生思想との戦いは、その業であるんじゃないかとも思います。
人間同士においても、たくさんの動植物との間においても、人間の優生思想は根強く存在しますし、それは、私の中にも存在しています。

政治家は私たち市民の鏡でもあります。
日本維新の会が、勢力を伸ばしつつあるということは、少なからずこういった優生思想が、多くの人の中で共感を得ているという面があるのだとも思います。(この件で支持率少し下がったみたいだけど)

わかってはいたけれど、現実問題としてこういう問題が起き、コメントが出てくると、本当につらくなります。

でも、だからこそ、私たちは一人一人の命がそれだけで価値があるということを、しっかりと学んで胸に刻んで生きていく責任があるのだと思っています。

小さな経済が壊れていくということ

Facebookやtwitterで、「残念ながら実店舗での営業をやめることにしました。」という投稿を頻繁に見かけるようになりました。飲食に限らず、小さくサロンなどをやっていた方も、実店舗での営業をやめている方がとても多いです。
補償を使ってなんとか耐えてきたけれど、それでももともと余裕がある経営ではない中で、これ以上耐えることは難しい。そういう判断だと思います。

地域のお店がつぶれていく。
小さな会社がつぶれていく。

大企業に比べ、社会への影響は小さいかもしれない。従業員も少なくて、もともとパート雇用だったりすることも多い。
それでも、こういった地域の小さいお店がなくなっていくことは、自分の足元が崩壊していくような恐怖を感じます。

そんな小さな崩壊はもうすでにアチコチで起こっていて、もう戻れないくらいに、社会全体が傾き始めている。それでも、回復の目処は、まだ立たない。

リーマンショック以上の不況がくるといわれる中、未来が見えない。希望が見えない。
新しい生活様式の確立には時間がかかるし、その上での商売のあり方も、これから模索が始まるところです。ずしんと不安ばかりがのしかかります。

小さな「仕方がない」が否応なしに積み重なる

コロナ禍で、私たちはたくさんのものをあきらめています。でも、仕方がない。仕方がないんです。

生きていると仕方ないことはたくさん起こります。仕方のないことばかりといっても過言ではありません。
私がこれまでで一番「仕方ない」という言葉を繰り返し使っていたのは、産後の日々やうつ病に罹っていた時期。「仕方ない」という状況をどう受け入れていくのかというのは、社会の中で生きていくうえで大切なことではあるけれど、一方で仕方ないを受け入れてばかりいることは、心のバランスを崩していきます。

私は、「仕方ない」という言葉をできるだけ使わないでいようとする「もがき」こそが、人の豊かさなんじゃないかと思っています。
「仕方ない」を積み重ねた未来と、「できる限りもがいてみた」を積み重ねた未来であれば、私は後者の未来を生きていきたい。

それでも、今は仕方ない状況が本当に多い。それを積み重ねるしかなくなっている。
本当にそれでいい?環境が変わったなら、その中で諦めずにいられる方法を考えたら?と思いたいけれど、そんなことすら許されず、エネルギーばかりが奪われる現状。

「仕方ない」という言葉が、逃げても逃げても追いかけてきます。

自分の中の正解がコロコロと移り変わる不安

2月末の突然の休校。そして3月の三連休に休校の緩和が発表されるものの、その連休で感染が広がり、4月には緊急事態宣言。5月になり緊急事態宣言が解除されるも、東京アラート発動、東京アラート解除、からの感染拡大。という中でのGotoキャンペーン。

どうしたらいいのかわからない時に、誰かが方針を示してくれると、寄らば大樹じゃないけど、それが正しいかどうかではなく安心できるというのがある。

でも、コロナ禍においては、もう何が正解なのか全くわかりません。

もともと正解がわからない時代だとは言われていたけれど、なんとなくの方向性は国が示していたり、海外の先進事例があったり、私たちが指針とするものはそれなりにあったんじゃないかと思います。
でも、その指針もない。指針に対する信用性が日々変化する。

医療の現場の意見が正しいと思った翌日には、経済学者の意見が正しいと思う。その翌日には、自分の中の感覚が一番正しいと思い、また翌日には政府の方針が正しいと思う。
正しさが自分の中でコロコロと移り変わっていく。

子どもの不登校の対応をしていく中で、この正しさが移り変わる感覚にはだいぶん慣れていたけれど、それでもだいぶんしんどいものです。

仕組みを衰退させる「無関心」

このところ国会沼にはまっていて、国会という歴史の積み重ねによって作り上げられた、おおいなる民主主義の仕組みに感銘を受けていたり、子どものPTAの役員として市内のPTA連合会の役員を引き受けていたりする中で、大きな仕組みのすばらしさと同時に、それを継続していくことの大変さと、大きさゆえの不自由とだからこその信用というものについて、考えています。

例えば、この前の東京都知事選で、須藤元気さんが山本太郎さんを応援したいということを理由に、立憲民主党を離党したことが話題になりました。
須藤元気さんが当選したのが比例代表(党としての得票)という背景もあり、議員辞職するのが筋ではないかという声があがりました。
これに対して、「こうやって面倒なことばっかいうから政治は嫌いなんだ」とか、「どんだけ「党」は自分たちが偉いと思ってるんだ」といった声も上がりました。

比例代表という制度に賛否意見があるという前提はありますが、私は現状の仕組みとして党としての得票である以上、1年程度の活動で離党はすべきではないし、するなら議員辞職が妥当かなと感じます。
それは、比例代表という制度によって、選挙の公平性を保とうとしてきた方々の積み重ねがあってのものだし、制度自体もその中で自浄作用を持てるよう、日々検討が積み重ねられているものだからというのがあります。

PTAも同じようなものがあります。
PTAの歴史や積み重ねが持つ信用性を担保するために、毎年変わらない形式張った総会を行い、細かい一つ一つを審議して進めていくという仕組みが存在します。そして、その中にいる人たちは、より良くするための改革を常に考え、できることから実施していくことで、その信用性を守っています。

関わるようになる前は、沼にはまる前は、こういった仕組みを腐敗させているのは、一部の沼の住人が自分たちの利権のために行っていることであり、そういった人たちがいなくなれば、腐敗はなくなり組織が活性化すると思っていました。でも、どうやらそれは違うらしい。

その中で分かったのは、仕組みを腐敗させるのは、「人々の無関心」なんだということ。仕組みが腐敗しているように見えるなら、それは自分たちが関心を持たずに関わってこなかったということの裏返しでもあるのです。

とはいうものの、関心を持てない、持たせない仕組みであるという課題はあり、社会の個別化が進む中で、こういった仕組みに関心を持ってもらうのがより難しい社会になっているように感じます。
その中で、関心を広げる活動は、砂漠に水をやるようなものでもあります。
息切れしてしまわないように、自分の源泉を大事にしないといけないと思うばかりです。

国家間の争いはなくならない

中国とアメリカの関係が、なかなかに悪くなっているのを感じます。とはいえ、このあたりの国際事情はあまり詳しくないので、詳細はよくわからないけれど、世界の歴史をたどっていくと、やっぱり大国と大国の国家間の権力争いと、そして資源の適切な配分という課題が、大きくこの社会には存在しているように感じます。

去年、米中の国際情勢を研究する東大の准教授の市民向け講座を受講したのだけど、今の国際情勢は、力を持ってきた中国を、いかに押さえるかという視点でアメリカが動いている。今の日本は、中国ともアメリカとも関係が悪くなく、不思議な存在感があるというような趣旨の話を聞きました。

外交に強い安倍さんといわれているように、安倍さんは日本国内のあれこれには多分興味がなくて(特に人権擁護とかは皆無)、国際関係における日本の立ち位置を常に考えて動いているんだなーと、その話を聞いてから思うようになりました。
ちなみに、その講座の時に「日本にできることはあるのか?」と聞いたら、「何をしても相手にしてもらえないから、特にないかなー」と、身も蓋もないお答えでしたが。

コロナ禍でその情勢はさらに変化しつつあります。アメリカがWHOを抜けると宣言し、香港のデモは続き、中国は尖閣諸島周辺に侵入してきています。
もともと国際情勢が変化しつつあり、日本の立ち位置も変わりつつある中で、私たちが政治やこの街について語るとき、この国際情勢というのも忘れてはいけないんだろうなぁとすごく思わされます。

それは、一つ一つ丁寧に人権擁護の輪を広げていても追いつかない、大きな国家間の争いが、実際に存在しているということだなーと思います。
影響力を持つことのできない大いなる力を前にしたとき、私たちは無力感を強く持ってしまいます。

きっと、まずは知ることから始まるんだろうと思いますが、難しい話に頭から煙が立つことも。誰かわかりやすく解説してくれないかなぁ。。

一人一人がその人として大切にされる社会を目指して

と、徐々に大きな問題ばかりが気になってきてしまう。しんどい時のあるあるです。

こんな時、つい目の前の人から視点がずれてしまうのだけど、私としてはやっぱり大きな問題よりも、一人一人が目の前の人を大切にすることができる社会であってほしいなと思います。
一人一人の持つ意思や気持ちが大切にされる社会であってほしいなと。

一人一人がわがままに生きればいいよということではなくて、一人一人がそのままのその人として大切にされる社会を目指すということは、多分歴史の中で今のところ人類が持ち合わせた、目指すべき方向性なんじゃないかと思うのです。

それはそう簡単なことではなくて、まだまだその道のりは遠く、3歩進んで2歩下がる。いや、進んでいるかどうかもわからない。
それでも、やっぱり私たちは未来を目指して進んでいきたいし、そうやって進んでいくんだろうと思います。

この苦しさの中、私にできることはあるんだろうかと苦しくなることもあるけれど、まずは目の前の人を大切にすることからしか始まらないとも思うので、家族や友人や仕事で関わる方々を大切に、丁寧に歩んでいくしかないのかなとも思います。

小さく小さく一歩でも前に。

うん。そうだね。

落ち込む事もあるけれど、私この社会が好きです。

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