上海戰と国際法 信夫淳平 1932年(昭和7年)

上海戰と国際法 信夫淳平 丸善 1932

第三章 敵の兵種及び兵器

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 の三師が加はつた。蒋介石は、十九路軍の優勢となるは則ち廣東派を有力化せしむる所以であるから、その優勢となるを欲せず、肚の中では實は日本軍に依りて十九路軍の挫滅せらるゝのを希ふて居つたに相違あるまいが、形勢の急となるに連れて高見の見物も能きまいから、澁々麾下の京衞軍三師を之に馳せ加へたものであつたのであらう。

敵軍の實勢力
 この合計六師の兵数は如何と見るに、支那の一師は表面大約二萬五千であるが、事實は多きは 三分の二、少なきは半分以下で、隨つて十九路軍の三師は各一萬、京衞軍の三師は各二萬、合して約九萬、外に別働隊として義勇軍なるもの約一萬あつたから、我軍に對する敵軍は大約十萬内 外であつたかと思はれる。一月二十八日夜半の衝突より三月二日の敵軍大潰走に至る間に於て、一方には累次の交戰毎に敵軍に夥しき死傷もあつたと同時に、後方からの補充も陸續行はれたか ら、交戰期五週間を通じて概略敵軍を右の勢力に見て甚しき誤算もあるまい。

敵ながら天晴れ
 十九路軍は過去の戰歴に於けるが如く、今次の上海戰に於ても相應に勇名を馳せた。彼等は他の支那軍隊に比すれば兵の素質は比較的に良く、規律は比較的嚴に、鬪志も比較的に旺盛で、隨つて自然支那軍隊中の白眉を以て自他共に許すものである。勿論總てが比較的の話である。十九路軍の將校下士卒の支給は、他の支那軍隊のそれと同様に決して裕でない。その月俸額を聞くに

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軍長二百元、師長百八十元、旅長百七十元、以下小尉に至つて四十二元、卒は上等兵十二元、一 等兵十元、二等兵八元とある。されど例へば一等兵の十元も、その中から食費に一半を削られ、又國民黨費として若干を差引かるとあるから、手取り四五元にも足らない。しかも落價の銀である。それでは如何に生活程度の低い支那でも糊口が能きぬから、自然掠奪は默許若くは公許となる。然しながら兎に角彼等は今次の上海戰に於て、閘北より江灣鎭及び呉淞に亙る十数哩の戰線に負嵎して我軍に對抗し、以て能く月餘を支へ得たのは、敵ながら天晴れと稱すべきであらう。

   第二項 便 衣 隊

 上海戰の勃發に際し、我が陸戰隊の歩哨兵、通行兵、その他私人たる在留邦民に累吹不測の危害を與へ又は與へんとしたうるさい蒼蝿は支那の便衣隊である。便衣とは平服といふに同じく、即ち一般市民と識別し難き服装にて本邦人の多敷に居住する方面に潜入し、多くは民家に隠れて屋上又は窓戸より、稀には街道に於て、突如多くはピストルを放つて對手を狙撃するもので、彼等の中にば學生あり、勞働者あり、將た正規兵の變装せる者もあり、之を背後に操つる者の中には、青ぱん(チンパン)と稱する有力な團體もある。青ぱんとは上海に於ける右傾的の、寧ろゴロ的の一大團體で、

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黄金榮、杜月笙、張蕭林などいふ挾客肌の親分その采配を取り、無頼者を麾下に包羅し、賭博場や阿片窟を縄張りにそのカスリを取りて大名生活をし、勞働者を顎で指揮して陰然上海の裏面に君臨する梁山泊の集團である。青ぱいに對し紅ぱん(ホンパン)といふのもあり、大體似たやうなものである。事變發生の一月二十八日の夜、支那軍側にて抗日會員その他青ぱい所属の輩を便衣隊とし、ピストルの外に機關銃まで與へて市中に潜入せしめ、一擧に日本人を屠らしめんと計畫したるその總員一千二百名と稱された。

便衣隊の交戰法上の性質
 抑も便衣隊は、交戰法規の眼から見て如何なる性質のものであるか。

交戰者の三種
 便衣隊は勿論交戰者たるの資格を有するものではない。現交戰法規の上に於て認めらるゝ交戰者は、第一には正規兵、第二には民兵(Militia)及び義勇兵團(Voiunteer Corps)にして(一)部下のために責任を負ふ者その頭に立ち、(二)遠方より認識し得べき固着の特殊徽章を有し、(三)公然兵器を携帯し、(四)その動作に付戰争の法規慣例を遵守するといふ四條件を具備するもの(正規兵もこれ等の條件を具備すべきは勿論である)、第三には、未占領地方の人民で敵の接近するに方り右の四條件の下に民兵なり義勇兵圏なりを編成するの遑なく、さりとて侵入軍隊に抗敵せずには居られぬから、敢て之を編成するを俟たず、公然兵器を携帯し且戰事の法規慣例を遵守して

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抗敵行動に出づるといふ謂ゆる民衆軍即ち Levee en masse で、以上の三者が交戰者としての有資格者となつてある。

非戰鬪員の語
 因みに記す。交戰者の中には非戰闘員即ち non-combatants もある。元來非戰闘員なる語には二様の遣方がある。一は軍人以外の私人で、即ち直接戰鬪に與からざる一般の男女老弱である。
 他の一は。戰線に立つも干戈を手にして敵と鬪ふに非ざる軍人軍属、即ち軍醫官、主計官、法務官、通譯、軍隊附布教師等である。前者は古來今に至るまで世間普通の俗用語であり、且往昔に於ては公用語でもあつたが、『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』(以下略して陸戰法規慣例規則と稱する)に於て『交戰當事者ノ兵力ハ戰圖員及非戰闘員ヲ以テ之ヲ編成スルコトヲ得』(第三條)と規定し、軍醫官主計官等を非戰闘員たる交戰者と爲すに至つた以來、一般私人の意味に於ける非戰鬪員のことは非交戰者(non-belligerents)と稱するのがヨリ正しき用語法となつたものである。私人を非戰闘員といふこと俗用としては勿論妨げないが、現行交戰法規の上では兩者を殊別して見るのでなければ意義に混雑を生ずる。
  序でながら。我國に於て軍事的對外公文の上に正しくこの語を用ひた一例は、大正三年の日獨戰の際、青島攻城軍指揮官榊尾陸軍中將及び青島封鎖艦隊司令官加藤海軍中將(定吉男)の連

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署にてワルデック青島總督に送りし同地殘留非交戰者救助に關する聖旨傳逹の同年十月十二日付書翰である。即ち『下名等ハ閣下ノ名譽アル守城ニ當リ現ニ青島ニ在ル交戰國ノ非交戰者(添附の英文には non-belligerents)及中立國人ニシテ攻城ヨリ生ズル損害ヲ避ケント欲スル者ヲ救助セントスル日本皇帝陛下ノ至仁至慈ナル聖旨ヲ閣下ニ通告スルノ光榮ヲ有ス云々』とあつた。
 日露戰役に於て同じ目的に係る乃木族順口攻團軍司令官及び東郷遼東半島封鎖艦隊司令長官連署の在旅順露軍指揮官宛書翰(明治三十七年八月十六日附)には『謹デ一書ヲ呈シ、茲ニ日本皇帝陛下ノ至仁至大ナル聖旨ハ現ニ族順口ニ在ル婦人、小兒、僧侶、中立國外交官、観戰將校ニシテ砲撃及攻撃ノ危瞼ヲ避ケント欲スル者ヲ救助スルニ在ルコトヲ閣下ニ通報スルノ光榮ヲ有ス云々」とありて、非交戰者又は非戰鬪員の語は共に用ひてなかつた。

便衣隊は交戰者の條件を全然缺く
 便衣隊は前述の如く專ら民家に慝れ、倉庫に潜み、我が哨行兵や私人を目がけて短銃を放ち、放つや否や忽ち狐鼠々々と逃げて了ふ。現場には必しも之を指揮する頭目が居るのではなく、動作は概して個々である。隨つて部下のために責任を負ふ者がその頭に在るのではない。次に十九路軍の命を受けたる彼等中には、その誰として銅製の小釦-表は黒又は緑の地色に花模様を浮かせ、裏は黄色--と白地に已れの所屬を記する腕章を受領するが如く(例へば我が陸戰隊の寳

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写真

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山路攻撃の際同所の公安局即ち警察署で押収した彼等の腕章に淞滬警備司令部所屬の保衛團便衣隊と記せるものがあつた)、それを彼等は懐中し、腕草【ママ】は多く上衣の裏に吊し居るが如きも、勿論遠方より認識し得べき固着の徽章ではない。更に又、彼等は孰れも唯一の狙撃道具として短銃を携帯するも、これは懐中深く藏め慝すので、公然兵器を携帯するものとは云へない。而して最後に、破等は兵でも私人でも苟も日本人と見れば之を狙撃し、その行動上に何等戰争の法規慣例を守る者でない。斯の如くにして彼等は、交戰法規が交戰者として要求する資格條件を一も具備する者でないから、目して以て交戰者とするを得ないこと論を俟たない。

不正規兵に關する國際立法案
 不正規兵の取締に關しては、一八七四年の交戰法規制定に關するブルッセル會議に於て討議に上りし若干の原案中に、之に觸れたる一二の條項を有するものがあつた。特に露國の提案は
 第一 軍隊の外左の條件を具備する民兵及び義勇兵は交戰者たるの資格を有す。(一)責任を負ふ者その頭にあり且本營よりの指揮の下に立つこと、(二)遠方より認識し得べき明瞭なる或徽章を有すること、(三)公然武器を携帯すること、(四)交戰の法規、慣例、及び手續に從つて行動すること。以上の條件を具備せざる武装隊は交戰者たるの資格を有せざるものとし、之を正規の敵兵と認めず、捕へたる場合は裁判に依らずして處斷するを得。

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 第二 交戰國の軍隊は戰鬪員及び非戰鬪員にて編成す。前者は交戰に能動的(マクチーヴ)且直接的に從事し、後者は軍の一部を成すも、布教、醫務、經理、司法、その他の軍隊構成の各種部門に屬す。
  非戰鬪員は敵に依り捕へられたる場合には、戰鬪負と均しく俘虜たるの權利を有し、且軍醫官、野戰病院補助員、及び布教師は中立人たるの權利を有す。
 第三 敵に依り未だ占領せざる地方の住民にして自國の防護のため武器を執る者は交戰者と看倣し、之を捕へたる場合には俘虜として取扱ふべし。
 第四 既に敵國の權力の下に置かれたる地方の住民たる私人にして武器を執りて敵に對抗する者は司法官憲に引渡すべく、且俘虜として取扱ふべき限りにあらず。
 第五 前記第一項及び第二項の條件を具備せざる私人にして或時には獨立して交戰に從事し、或時ぼ平和的業務に服する者は交戰者たるの資格を有することなく、捕ヘられたる場合には軍律に依りて虞断せらるべし。
このブルッセル會議の露國案が換骨奪胎せられ、特に第一項の末段と第四項及び第五項、即ちまさしく便衣隊に該當する所の條項が削除せられて海牙議定の陸戰法規慣例規則の第一條乃至第三條となつたものである。

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 故に現行交戰法規の上に於ては、軍隊と離れて獨立的に敵抗行爲を爲す所の私人の交戰上の資格如何は、尚ほ殘されたる一の未決問題で、隨つて斯かる私人即ち便衣隊の如きものに就ては、現行交戰法規の上に於ける交戰者資格限定の精神と既往の戰爭に於ける先例とを按じてその性質及び擬律を判定するの外ないのである。然るに便衣隊は、陸戰法規慣例規則所定の交戰者の資格を有せざる者であることは、前述の如く當該條項の文字及び精神に照して何等疑を容れない。この點は問題でないとし、次に之を過去の先例に徴すればどうであるか。

便衣隊類似の不正規兵處分例 普佛の役
 正規兵に非ざる一種の便衣隊を戰線の内外に使用することは、古來幾多の戰爭に於て珍しからぬことであるが、近代に於て之を盛に利用したのは一八七〇年の普佛の役に於ける佛軍である。佛國側にてはメッツの敗績後、新に『第二徴募の國防軍』(Garde-national de Second Levee)と『自由狙撃隊』(France-tireurs)なるものを編成して獨兵狙撃の任に當らしめたが、その國防軍なるものは敢て制服を着するのでなく、普通の民服を装ひ、武器は匿して之を携へ、多くは森林に身を潜めて敵を狙撃する。故に之を捕へたる獨軍にては俘虜として遇するを拒み、悉く之を銃殺した。自由狙撃隊は制服着用の者もあつたが、多数は便衣で、特定の徽章は帯ぶるも、遠方よりは認識し得ず、且自由に取外しの能きるものであつた。獨軍にては固より之を適法の敵兵と認む

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るを肯んぜず、當時メッツ駐屯第二軍司令長官は特に『正規の佛國軍隊に屬するに非ずして自由狙撃隊その他の稱呼の下に武器を携帯する敵の私人を發見したるときは叛逆罪を以て問ひ、他に拘致して審問するを須ゐす、之を捕へたる現場に於て銃殺又は絞殺に處分すべし』との布告を同地の城外に掲示し、尚ほ軍令を以て、獨軍に於て佛國の兵と認むべきものは固着の且射弾距離に於て認識するを得べき徽章を有する制服を着し、且佛國軍隊所属のことを證明する書類携帯の者に限るべく、この條件を具備せずして獨軍に敵抗する者は十年の禁鋼に、情状重き者は死刑に處すべく、而して自由狙撃隊にして獨兵を狙撃したる者は情状重き者と看做す、と律定したものである。獨軍にては之を勵行し、狙撃隊にして捕へられて銃刑に處せられたものは數知れず、剰さへ之と連累ありと認められたる都市村落にして巨額の贖金を課せられた所もあつた。

南阿の役
 一八九九年開始の南阿の役に於ても、ボァ測には便衣隊類似の者がかなり活躍した。英軍は軍律を以て、苟も組織ある隊伍に屬するに非ざる者にして敵抗行爲に出づる者は死刑に處すと規定し、この類の捕虜を之に依りて處斷し、中には懲罰として犯人の家宅田畑を破壞したなどもあつた。當年の役を叙せる一記事に『若し英軍にして、凡そ英國領土内にて捕虜となれる武装人にして南阿共和軍に屬することを標示すべき或常用的の且容易に認識し得べき制服なり徽章なりを有

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せざる者たるに於ては、之を土匪として取扱ひ、何等手續を経るなく之を銃殺すべし、といふ聲明を當初に出すありしならんには、蓋し顯著の效果を奏したことなるべく、即ち陸戰の法規慣例に關する海牙條約に完全に遵由しつゝ以て能く敵の侵人を鈍らし、又は喰止むるを得たりしならん』(The Times Historian of the War, Ⅱ,p.274)といふのがあるが、これで見ると、便衣隊類似のボア人に英軍は大分惱まされたものと見える。

米西戰爭
 一八九八年の米西戰爭に於ても、米軍のキュバ征討の折に西班牙側の土民便衣隊は高き樹木の上に身を潜め、行進中の米國兵を狙撃し、甚しきは軍醫官や擔架上の負傷兵などにも狙撃を加へたといふ話である。

日露戰役
 我國は明治三十八年の日露戰役の末期に於て、一種の便衣隊を露兵の間に見出したことがある。即ち同年七月我軍が薩哈嗹を占領したる所、ウラヂミロフカ邑には制服を纒はす指揮者もなく、普通の村民と識別し難き輩が村民の間に伍し、或は猟銃やピストルを放ちて我兵を狙撃し、戎は鎗や斧を手にして山野に待伏せするなど、まさに露國式の應揚な便衣隊であつた。我軍の之を虜にせるもの百六十を算し、中にありて情状の重きもの百二十名ほどは、交戰法規の容認せざる、即ち交戰者たるの資格なきに敢て交戰行動を執りて我軍に敵抗したとの理由の下に、軍事法

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廷に於て之を銃殺の刑に處した。

横川沖の兩志士も、便衣隊
 しかも日露戰役の初期に於て露軍に捕へられて壯烈な最後を途げたる我が横川沖の兩志士も、その性質に於ては矢張り便衣隊であつたのである。勿論兩志士の行動は憂國の至情赤誠に出でたもので、専ら金錢で働く日傭式の支那便衣隊とは發端に於て雲泥の差あること論を俟たぬが、法的性質に於ては均しくこれ便衣隊たるを失はない。露軍の兩志士を銃殺に處したのは間牒と認めたが故と記せるのもあるが、これは誤つた見方である。當時露軍にして果して爾く判斷したものとせば、そは誤斷である。間牒の一條件-最も主要の條件--は情報蒐集、敵情偵察にある。然るに兩志士の目的は鐡道破壞にあつた。敵情をも偵察する考も或は有つたであらうが、そは副たる任務で、主たる使命ではなかつた。鐵道破壞は敵抗行爲の一種で、それを交戰者たる資格なき者が行へば便衣隊を以て論じ、戰時重罪犯を以て擬律し、概ね銃殺に處する。兩志士の忠烈義勇は別とし、その行動を法的に觀れば、やはり便衣隊たるに相違なきものであつたのである。

支那に便衣隊は古來珍しくない
 便衣隊は支那に於ても決して近代の創作物ではあるまい。支那では古來軍に間牒を大に利用するの習であり、孫子は之を國間、内間、反間、死間、生間の五つに別つてその利用の必要を大に説いたものであるが(『用間』篇 第十三)、便衣隊は元と間牒に生れ、後に進化して狙撃及び後方

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攪亂を任務とするに至れるものなること想像するに難くない。最近代にありては、第一次革命戰次では奉直戰に際し、更に降りては蒋介石の國民革命軍を率ゐて北伐の軍を興し武漢を占領せる折、便衣隊の盛んに利用せられたること當時洽く世に報道せられた所である。

便衣隊の所屬系統
 支那の便衣隊は或は直接に軍の指揮を受け、或はその傍系に屬し、或は軍外の特定團體の使嗾の下に行動するが如く、その系統は一様でない。上海戰の初期に於て活躍したる便衣隊中には(一)十九路軍の指揮の下に行動するもの、(二)之と離れ各種抗日團體に参加して隨時便衣隊の行動を執るもの、(三)抗日團體には關係なくして獨自に同志相寄り便衣隊を組職せるもの、(四)隊を組織しないで獨立獨歩の行動を爲すもの等種々あつた。又右の(一)の中にありても、十九路軍幹部の直屬の者、特定部隊に分屬の者、軍所屬には非ざるも軍の區處は承くる一種の義勇兵的のもの(例へば左傾學生及び勞働者にて編成し便衣の儘正規軍中に混じて戰鬪任務に服したる救國義勇軍と稱せるものゝ如きで、これは殊に多く、實に七八千からありしと聞いた)、斯くその種類一様でない。中には、必しも抗日團體とは云ふべからざらんも、前にも述べた如き青ぱんその他類似の諸團體に屬する臨時雇の便衣隊もある。これ等臨時雇の給輿は勿論一様でなく、日傭的の者にありては口當四五元のものもあり、或は銃の放射一發幾らといふ風に打殻の持参者にその數に

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應じて若干額を支給するのもあつたと聞く。
 陸戰法規に於て前に述べた三種に限れる交戰者は、非交戰者の有せざる特權を有する。例へば敵に捕へられたる場合に於て俘虜としての取扱を受け、戰時重罪犯(War crimes)として處罰せらるゝなきの特權の如きである。戰時重罪犯とは、敵國の交戰者若くは非交戰者に依りて行はれ我軍に有害なる結果を與ふる所の重罪性の犯行で、例へば交戰者にありては、陸戰法規慣例規則の第二十三條に於て特に禁止してある害敵諸手段、第二十五條の無防守の土地建物に對する砲撃、その弛陸海の交戰諸法規の禁ずる諸事項の無視等、要するに戰時法規違反の行爲は勿論、或は間牒行爲の如き、將た間牒ならざるも變装して我軍の作戰地、占領地、その他戰爭關係地帯内に入り我軍に不利の行爲に出づるが如きを云ひ、又非交戰者の行爲としては、その資格なきに尚ほ且敵對行爲を敢てするが如き、孰れも戰時重罪犯の下に概して死刑、若くは死刑に近き軍刑に處せらるゝのが戰時公法の認むる一般の慣例である。

便衣隊の處分
 陸戰法規に於て前に述べた三種に限れる交戰者は、非交戰者の有せざる特権を有する。例へば敵に捕へられたる場合に於て俘虜としての取扱を受け。戰時重罪犯(War crimes)として處罸せらるゝなきの特權の如きである。戰時重罪犯とは、敵国の交戰者若くは非交戰者に依りて行はれ我軍に有害なる結果を興ふる所の重罪性の犯行で、例へば交戰者にありては、陸戰法規慣例規則の第二十三條に於て特に禁止してある害敵諸手段、第二十五條の無防守の土地建物に鋤する砲撃。その他陸海の交戰諸法規の禁ずる諸事項の無視等、要するに戰時法規違反の行爲は勿論、或は間牒行爲の如き、將た間諜ならざるも變装して我軍の作戰地、占領地、その他戰爭闘係地帯内に入り我軍に不利の行爲に出づるが如きを云ひ、又非交戰者の行犯としては、その資格なきに尚ほ且敵對行爲を敢てするが如き、孰れも戰時重罪犯の下に概して死刑、若くは死刑に近き重刑に處せらるゝのが戰時公法の認むる一般の慣例である。
 便衣隊は間諜よりも性質が遙に悪い(勿論中には間牒兼業のもある)。間諜は戰時公法の毫も禁ずるものではなく、その容認すち所の適法行爲である。たゝ間牒は被探國の作戰上に有害の影響を與ふるものであるから、作戰上の利益の防衛手段として戰時重罪犯を以て之を諭ずる權を逮捕

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国に認めてあるといふに止まる。黙るに便衣隊は交戰者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戰法規違反である。その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正當防衛として直ちに之を殺害し、叉は捕へて之を戰時重罪犯に間ふこと国より妨げない。

多少は玉石混淆
 たゝ然しながら、彼等は暗中狙撃を事とし、事終るや闇から闇を傳つて逃去る者であるから、その現行犯を捕ふることが甚だ六ケしく、會々捕へて見た者は犯人よりも嫌疑者であるといふ場合が多い。嫌疑者でも現に銃器弾薬類を携帯して居れば、嫌疑濃厚として之を引致拘禁するに理はあるが、漠然たる嫌疑位で之を行ひ、甚しきは確たる證據なきに重刑に處するなどは、形勢危胎に直面し激情昂奮の際たるに於て多少は已むなしとして斟酌すべきも、理に於ては穏當でないこと論を俟たない。
 上海戰勃發の際に方り、我方の便衣隊捕縛には或は玉石混淆の嫌ひがあったやうにも聞及んだ。その中には、或は全然無辜の徒にして我が陸戰隊又は有志者團に拉致せられ、誤って制裁を加へられた者も無いでもあるまい。何分にも豫め戸籍調査や行跡査定を盡した上でやったことではなく、事は咄嗟の間に起り、手當り次第に目前緊迫の危険を除くといふのであるから、多少は無理もあつたに相違あるまい。甚しきは、債務履行の督促を支那商に受けつゝありし我が一邦民

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にして、苦し紛れに債權者たる支那商をば彼は便衣隊なりと我が軍衙に誣告し、銃剣の一撃の下に自然債務をも抹殺した者すらあったとの風説-勿論風説に過ぎまい一をも耳にした。

牧師蒋時叙拉去亊件
 或は斯ういふものを傳へ聞いた。
 北四川路の北端に位し我が陸戰隊本部より程近き竇樂安路(Darroch Road)にある中華基督教會(Fitch Memorial Church of Christ in China)を監督し、斯界の間に相當の名ある牧師に蒋時叙といへるのがあつた。支那側の語る所では、一月二十九日の午後、彼は教會内にて信徒と共に聖書の繙讀及び祈祷に耽り居りしに、突如陸戰隊の闖入を受け、妻女等七名と共に殴打捕縛の上何れにか拉去せられ、杳としてその消息を聞く所なしといふことである。その始末は、之に關し同教會の理事四名が連署して二月十三日野村第三艦隊司令長官及び帝國總領事に送りし左の公開状(原文英文)に詳である。如何なる程度まで事實なるかは知らざるも、今翌日の上海各英字新聞に見えたるその全文を邦譯すれば左の如くである。
 『中華基督教會は虹口竇樂安路に在りて、上海に於ける最大の教會の一に屬し、その會員中には最近全部破壞せられたる商務印書館の設立者及び理事、竝に有力なる支那人の家族も少なからずあり。

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『一月二十九日の午後、大部分婦女及び兒童より成る會員約三十名、教會に相接する牧師の家に避難のため集合せり。當日日本帝國陸戰隊の数箇分隊が教會附近にて小銃機銃を發射しつゝありし間に於て、彼等は静に祈祷を捧げ、安息を爲しつゝあり。やがて午後四時頃、海兵約五十名、教會の鐵門を敲き、内に入らんことを求めたり。避難の人々自然恐怖を感じたるが、間もなく父母及び少妹と共に同じく避難中の一少年は進んで門を開きたり。すると彼は有無を云はず直ぐ手を背に縛せられ、何虞にか拉去せられ、爾來沓としてその行衛を知らず。
『間もなく海兵は室に闖入し、隊長は避難者に向つて教會附屬の學校の教員生徒の所在を尋問し、學校の通學制にして且日下冬期休業中なるが故に各自孰れも家に歸りて在校せざる旨を答ふるや、重ねて建家の管理者の何人なるかを尋問したので、牧師蒋時叙は進み出で、自分は牧師であり管理者である旨を答へたり。海兵隊長は建家中に爆彈が隠慝しあるに相違なしと言張りたるを以て、牧師は此處は教會なり、斷じて爆彈その他何等の軍用品なし、御疑念とあらば何處を捜索せらるゝも可なりと述べ、隊長を案内せり。約三十名の避難者も悉く身體を檢査されたり。されど建家内にも、避難者の身にも、爆彈若くは武器は一として發見せられず。
『隊長は次で牧師とその妻子、甥、秘書、及び下僕二名を一括して別にし(但し何事をも知ら

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ずに庭園にて遊戯中なりし齢九歳の彼の一少女は免かれたり)、他の避難者二十二名には、必ず建家内に立籠りて一歩も外出するを許さず、又窓外を見る可らずと嚴命し、轉じて海兵は牧師の面を打ち、その妻女をも腿をば銃尻にて突いて突倒し、次で七名を悉く高手籠手に縛して連れ行けり。その後吾等及び外人の朋友は彼等の何れに在るや、如何になりしやに關し日本領事館その他凡ゆる方面に就て取調ぶるも、何等得る所なくして二週有餘日の今日に及べり。
『蒋牧師は愛情に富める人にして、彼が最後の聖壇にて設教したる所のものは、貴國の不正を憎まずして恕すべく、恰も基督が教へ給へる如く恕して愛すべしと吾等に切々誠訓したることにてありき。四方に散在する吾等教會員は、一に我が敬愛する牧師の賢明なる指導と精神的援助とを渇望するや切なり。蒋牧師は胸中たゞ愛のみありて毫も憎悪の念なく、隨つて彼もその家族も、縛して拉去せらるべき何事をも爲したる者に非ず。彼を愛慕する我が教會の男女會員は、胸中深き悲哀に打たれて已まず。吾等教會理事者は茲に貴下に向つて一書を裁し、彼及び彼の家族を吾等及び教會の手に復歸せしめらるゝことを梱願せざる能はず。吾等は貴下の慈悲及び愛情に封し甚大の感謝を捧ぐるものなり。

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之に對し野村艦隊司令長官が如何なる取計を爲したかは聞及ぶ所なかつたが、總領事館の井口領事の二月十九日付回答として同じく各英字新聞に掲げられたるものは要旨左の如くであつた。
 『本月十三日付貴信照會の件に關し、當領事館は日本海軍官憲に問合せたるに、その回答に依れば、一月二十九日午後日本海軍陸戰隊約二十名一士官の引率の下に便衣隊捜索のため貴信記載の支那牧師の居所に入りしは事實なるも、貴信にあるが如き日本海兵が彼及び彼の家族を後手に縛して拉去せりとは全然無根にして、その捜索を行へる際には教會内に何人も居合せ居らざりしとのことなり。』
 本件に就て爾後重ねて照覆があつたか、又その成行はどうであつたかは詳でない。聞く所では、事攣勃發の當時、便衣隊は確に同教會堂に據りて我兵を盛に狙撃したる由で、甚しきは堂内の一隅に支那正規兵の制服百人分が隠慝しありしを後日發見したとも聞及んだ。その實否も亦詳でない。問題の牧師一家の失踪假に不明なりとしても、それが果して我軍に拉去せられ、果して我方の手にて不明となりしものか否か、確たる立證を得た上でなければ何とも裁斷は下し得ない。國際聯盟委囑の上海事件調査委員會の第二回報告(二月十六日上海各外字新聞所載)に便衣隊處分
のことを記し、

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我軍の便衣隊取扱に關する外國人報告
 「日本海兵に依る過度(エキセキス)の例は幾多あり、中には一束的殺戮(ケンマリーエキゼキュショシ)もあり、又何等公的資格を有せざる私服の輩が葢し單に支那人の過去の排日運動に封する復讐の念よりして行つたのもある。その結果は虐殺の横行となり、日本人以外の者は全然虹口地方にその跡を見ざるに至つた。
 『日本人に依り逮捕若くは殺害せられたりと思はれ、その踪跡不明となれる支那人頗る多敷に上つたので、租界工部局は二月五日領事團に謝し、日本官憲に就て調査せられたきの希望を通じた。目本總領事は感情の激昂せる混亂状態に際し日本人に過度の行動ありしことを肯定し、今や事態は大分改善せられたりと云ひ、且租界内に於て日本海軍官憲に依り嫌疑者として逮捕せられたる総ての人々は之を租界警察に引渡すべきことを約した。爾後引渡を受けたる者あるも、尚ほ行衛不明の者少なからず、租界警察の手に既に蒐集せられある件敷約三百を算す。
 『便衣隊の活動は今や著しく熄みしも、日木官憲の監視は依然嚴で、租界の警察その他の機關の職務執行は僅に遲々として回復に向ふに過ぎず、日本官憲は日本人に依りて行はれたる過度の行動に就て相慮に關心を有し、不良分子の若干名は既に本國に送還せられた。』
蓋し帝國総領事も肯定したとあるが如く、事實事變勃發直後の數日間に於ける我が軍憲の便衣隊處分方に關しては、人氣も荒立てる渾沌状態の際とて、多少面白からざる遣口もあつたかも知れ

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ない。けれども、假にそれがあつたにもせよ、何分當初豫期せざる狙撃を突如街上又は民屋内の彼等より受け、忿懣の情が極度に高まつて居つた際のほんの一兩日のことであつたに相違あるまい。且それは決して司令者の意圖でもなかつたであらう。陸戰隊指揮官は事攣勃發後三日を経たる二月一日、各部隊長に對し左の訓示を出して居る。

陸戰隊指揮官の訓示
 『本陸戰隊は警備區内の治安を維持し、人心を平靜ならしむる任務を有す。故に外部より侵入せんとする正規兵便衣隊の跳梁を鎭壓せざるべからず。然れ共虹口特殊の事情に鑑み、此が任務遂行の爲却つて人心を攪亂するが如き軍事行動は絶對に之を愼み、以て軍の威信を保持し、在住一般民をして安んじて業に服せしむる如くするを要す。之が爲め準據すべき事項を示せは凡そ左の如し。
 一、正當防禦以外妄りに發射せざること。
 二、邦人住居周密なるに付銃の指向に注意すること。
 三、便衣隊は屋上又は二階窓等の高所より射撃するを例とするも、直に該家屋を捜索せざること。
 四、確實に我に敵意を有すと認めたる建築物は海軍の名を以て捜索封鎖す。

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 五、正規兵便衣隊其の他明かに我に敵意を有するものゝ外、一般支那人に對しては特に丁重に取扱ひ、聊かも恐怖せしめず、皇軍を信頼せしむる如く導くこと。
 六、外人に對しては努めて誰何等を爲さざること。
 七、支那人の誰何檢査は確實にし、明かに支那義勇軍に属するもの、抗日會員、支那軍隊關係者、及武器携帯者なるときは之を逮捕す。
 八、白布腕章を附する邦人と協力すること。
 九、工部局警察署員竝に義勇隊と協力すること。
この訓示で見ると、當時の情勢の下にありて陸戰隊指揮官は冷靜を失はず、大體に於て極めて適切の方針を示して愆りなかつたものと評すべきである。(但し第七中の或者の取扱上に關しては多少議論の餘地あるを免れまい。)

第三艦隊の調査したる數字
 その後第三艦隊の上海到着(二月八日)後に於て同艦隊司令部にて調査したる所といふを聞くに、事攣勃發直後の九日間に於て、我軍の現場にて收容したる便衣隊の死體數は百六個、捕縛したる數は一月二十九日に二百二十一名、三十日に九十七名、三十一日に六十六名、以下遞減して二月六日の十名に至るものを合計して九日間に四百九十七名、その中銃殺したる者は六十六名、

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審問後繹放し又は共同租界工部局に引渡した者四百三十一名とある。この銃殺に關し同司令部の調査報告には、大要
 『一月二十九日及び三十日の分計五十一名は、訊問調査のため陸戰隊本部及び各大隊本部に護 送中、少數の監視兵に對し集團結束して抵抗したるを以て、監視兵が自衞的措置として已むを得ず拳銃小銃を以て射殺せるものなり。又一月三十一日の分十五名は、當日大隊本部(日本人倶樂部)に於て各方面より陸續引致せる多數の便衣隊の訊問調査を開始したる處、彼等は突如 喊聲を擧げて抵抗し、その中多數の者は便衣の内に隠し持ちたる拳銃を取出し發砲攻撃したるを以て、少數の監視兵は巳むを得ず武器を以て之に對抗し、居合せたる日本人の援助を求め、漸く之を制壓するを得たり。その結果十五名の便衣隊は射殺せられたり。
 『尚ほ當時市内一般混亂状態にして、陸上に於てこれ等の死體を火葬に附する能はざりしを以 て、日本海軍葬喪の例に倣ひ、黙祷の禮を捧げたる後水葬に附したり。』
とある。當時他に如何なる風説ありしにもせよ、別に確たる反證の提擧せらるゝことなき限り、之をば決定的事實と認むるの外あるまい。想ふに事攣勃發と共に便衣隊の急激たる潜航的活動、我が軍民の受けたる狙撃の不斷の報道に依り邦人一般の極度に興奮し居れる際、右様の急迫なる

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事態に面しては、他に執るべきの道も無かるべく、乃ち正當防衞手段として之を適法視するに相當の理由もあらう。

支那の抗議に理由無し
 斯の如く我が軍憲に於て便衣隊を射殺したのは、孰れも我が軍民に對する狙撃の現行犯の場合に非ずんば現行犯者又は嫌疑者の逮捕護送中、又はその檢束中、集團結束して抵抗し、少數の監視兵にて他に取るべきの道なき急迫の場合のみと承知する。而して他は審問の進むと共に、情状の輕き者は將來を戒めて之を釋放し、相當處分を要すべきかと認めたるものは之を共同租界當局に引渡してその處分に任せたもので、當面の措置としては大體に於て間然する所なかつたものと認められる。然るに支那政府は之を解せず、二月五日付を以て公文を帝國公使に寄せ、日本陸戰隊は共同租界の一部、租界外道路、閘北その他に於て民國市民を逮捕し、私刑を加へ又は殺戮し、現に監禁中の者數百人に達せりとの上海市長の電報なるものを援引し、右は國際法を無視せるのみならず人道に反するものと爲し、強く抗議を提起する所あつた。謂ゆる民國市民とは便衣隊を意味したのであらうが、この抗議の理由なきことは上來述べたる所に依りて明白である。公使が如何なる回答を爲したかは承知せぬが、若し何等回答する所あつたとしたならば、趣意は蓋し以上の外に出でなかつたことかと察する。

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戰鬪終結と共に嫌疑者全部釋放
 その後三月三日を以て戰闘が事實的に終結となるや、當時便衣隊嫌疑者として尚ほ我が憲兵隊本部に抑留中の者五十四名あつたが、翌四日悉く之を釋放し、その中の租界外にて逮捕したる四十五名は支那官憲に、租界内にて逮捕したる餘の九名は之を租界警察に孰れも引渡した。殊に抑留中に病に罹れる者は我がひょく民病院にて相當治療を加へたので、彼等中には去るに臨んで厚く感謝した者もあった由である。

       第三項 第三國人の支那軍參與

外國將校の十九賂軍參與の噂
 支那の十九路軍が意外に頑強で、且その射撃も意外に巧妙であり、殊に防禦陣地の構造の如き多くは最新式の型に則れることなど、到底他の支那兵の類でないといふ所から、十九路軍に外國將校が參與し居るに非ずやとの風説は當初より傳へられた。二月八日北平發聯合電報として都下諸新聞所載記事に『北平の確實なる筋の消息に依れば、從來南京及び上海に於て陸海軍隊竝に天津陸軍大學校等に勤務する獨逸人顧問將校は大將一名、將官十數名、その他合計七十二名に達し、内今次上海方面の作戰に直接参加し第一線に活動しつゝある者三十名ありて、孰れも世界大戰當時の経験を経たる老功の士である」といへるのがあつた。その他米國人にして支那航空隊に勤務

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する者數名ありとか(米國の飛行將校ショルトの支那機を操縦し、我方の射落す所となつたことは別に述ぶる如くである)、砲兵隊に約百名の露國人ありとかの風説もあり、中にはその俸給額までをも詳細に報じた新聞記事もあつた。

支那軍事顧問の獨逸將校
 中にありて多くの人々が殆んど確定的に信じたのは、獨逸將校の参加である。歐洲大戰以來、失意の獨逸將校にして支那に來りて軍事の顧問又は準顧問となつた者はかなりあったが、兩三年來は大分減じたとも聞く。それでも上海事攣の直前に於て、支那國民政府の軍事顧問職にありし獨逸將校は、少なくも左の十名を算した。