信夫淳平「戰時國際法提要」上巻 1943年(昭和18年)-1944年(昭和19年)

信夫淳平「戰時國際法提要」上巻 1943-1944年

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地域
ル第一條乃至第三條(第六條)記載ノ者ニ對スル被告事件』とあるのがそれである。この作戰地域の語に關しては、同法中に何等解説的條項は無いやうである。然しながら軍(及び第十三條にある獨立師團又は獨立混成旅團)軍法會議の管轄權は、如何にその地域を廣意に解するにもせよ、事賓占領地と作戰地帶と戰場の三者以外にそれが及ぶことは考へられない。戰地にして敵軍の權力の實在する所には、軍法會議の管轄權を及ぼさしめんとしても事實不可能である。故に軍法會議の支配する戰地は、自然に占領地と作戰地帶と戰場の三者執れかに限局せらるべきである。随つて謂ふ所の作戰地域とは、戰地の中にありて特にこの三者を指すものと解すべきであらう。

陸戰の目的
 三一九 開戰の目的は、昔日と今日とは大分變つて來た。往昔にありては、開戰は多くは専ら城を屠り地を略し、領土を擴め財寳を奪ふにありて、要は專ら國君の覇圖匪望を充すにあつたが、今日に於ける開戰は斯かるを許さずで、その目的は主として特定の國策を遂行するがためか、他國の侵略に對抗するがためか、將た特定の條約上の義務を履行するがためかにある。然るに戰闘の目的は自ら撰を之と異にする。戰闘の目的は、要は敵を武力の下に屈伏せしむること古今を通じ大體に於て一である。而して陸戰にありては、その敵を屈伏せしむる所以の目的は、海戰及び空戰のそれとの間に似た所もあり、異たる點もあるが、概略之を二つと見るに誤りない。一は敵の陸上、河川、又は沼湖に於ける兵力を撃破すること、二は敵の領土に軍の權力を樹立することである。約言すれば、その前者は狭義の戰闘即ち敵の兵力(軍事的機關及び施設を含む)及び資源に對する加害であり、後者は敵地の占領である。

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文明の戰闘の要求する箴規
 三二〇 陸戰の當事着はこの兩者を遂行するに方り、往昔にありてはそれが全然若くは殆ど無節制的で、時には人道主義がその上に發露せる戰場の美談も無いではなかりしも、そは稀有に屬し常事ではなかつた。
然るに現代にありては、第一には交戰者と非交戰者-俗に謂ふ戰闘員と非戰闘員-の區別を設けて危害を漫に後者に加へざることを精神とし、第二には加害手段に特定の制限を加へ、第三には抵抗力を失へる敵兵を人道的に取扱ひ、第四には一時の占領と永遠の征服とを區別して住民の權利を尊重する、この少なくも四つを戰闘の箴規と爲し、之を無視して行ふを許さずといふのが現代の陸戰法則の眞髓となつてある。尤も右の第一は、近代の謂ゆる國家総力戰制の下に、戰闘員と非戰闘員の分界極めて不鮮明となるに至れる次第は別に説く如くで、随つて非戰闘員の不加害は事實に於て保障し得なくなつた。第二も、強烈なる破壞力の新武器の發明、殊に空下爆撃及び毒瓦斯の大活用に伴ひ、その制限を墨守すること頗る困難となつた。随つて今日の交戰法則の箴規は、僅にその一半の俘虜及び傷病者の人道的取扱と敵地占領に關する若干の法則の二點に於て餘喘を保つと評さば評し得ぬでもない(この二つすら輓近の戰役に於て往々無視されたけれども)。然しながら、こは強て交戰法則の現在の缺陷を評して見た迄のことで、その故を以て交戰法則を無償値と視るは當らない。戰闘の文野【ママ】の分岐點は、それが交戰法則に遵由して行はるるや否やにある。

交戰法則の意義
 三二一 交戰法則とは要するに交戰國が敵の兵力及び資源に對して行ふ加害手段に關し、人道上その他の關係に於て要求せらるる或種の禁止又は制限の或は成文を以て律定せられ、或は周認の慣例として列國の之に遵由すべきものとなつてある所の規矩準縄の綜合的稱呼である。交戰法則は、往昔の戰闘に於ける常例た

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りし敵土及び敵人の蹂躪殺戮勝手次第といふ一般的憤習の上に適度の制限と加ふることの要求に胚胎する。
その要求する所の法則は、概言するに積極的よりも消極的である。即ち如何に戰ふべきかよりも如何に戰つては相成らぬかを律定するものである。人を殺し財を壞つには斯かる手段を以てせよと命ずるのではなく、斯かる手段は宜しく避けよと命ずるのである。特定の加害手段を行ふに方りては特定の注意の下に若くは特定の範團に於て之を行ふべしといふのも、これ亦一種の消極的令規と見るに妨げない。これが交戰法則の概念である。

現代の交戰法則の三根幹
 三二二 現代の交戰法則の根幹を成すものには少なくも三つある。之を要約すれば、(一)戰闘の目的は敵の抵抗力を挫くにあるから、苟もこの目的を達するに絶封必要なる限りは、如何なる種類の武器にても、將た加害手段の何たるを擇ばず、之を利用するに妨げないことである。別言すれば、敵兵を殺傷し敵物を破壞するに就て如何にその手段が猛烈であり、惨酷であり、強暴であつても、苟も敵の抵抗力を挫くといふ戰闘の目的を達するに絶封必要のものであらば、之を利用するに毫も遠慮を要しない。人間の性情は昔日よりも決して變化した譯ではなく、文明の進歩と共に理性は向上し、無益の殺生を排斥するの念慮は遙に高まつたに相違なきが、科學の大進歩に伴ふ武器の精鋭化と之に封する破壞の必要は、必然的に戰闘を却つて昔日よりも殘酷性のものたらしめずんば已まず、隨つて科學の發達にして停頓せず、而して苟も世に戰闘が消滅せざる限りは、之に殘酷性の増大を非認せんとするが如きは現實に即せざる迂儒の見たるを免れない。(二)然しながら右の無制限的利用は、畢竟戰闘の目的を達するに絶封必要なるが故である。隨つてその絶對必要な

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るに非ざるものにありては、右の無制限的利用を許容する理由は全然消滅する。例へば敵國人にしても交戰に關係なき常人及び財産に對する故意の加害の如きは、戰闘の目的に必要のことでない。既に必要のことでないから、之に對する故意の加害は戰闘上無益のことに屬し、隨つて許容せらるべきでない。これが原則第二である。リヴィエーの『總ての交戰の目的は勝利である。この目的を達するために必要なる暴力の使用は適法であり、ただ必要に非ざるそれは違法である。』(River, Princioes du Droit des Gens, Ⅱ, p,239)と云へるは、右の第一と第二を併せ説いて簡にして要を得たる言である。(三)敵の交戰者(即ち兵力を構成する戰闘員及び非戰闘員)に對しては如何なる手段を以てするも加害することの許容せらるる所以は、それが抵抗力を有するが故である。隨つて既に抵杭力を失へる交戰者に對しては、最早や之に加害すべき交戰上の必要は無い理である。この理より推し、戰場に於て兵器を捨て又は自衛の手段盡きて乞降する敵兵、その他負傷して抵抗力を失ひたる敵兵は、謂ゆる hors de combat として之に加害するを許されざることである。俘虜及び負傷兵の取扱に關する諸般の法規は、總てこの原則に發する。

第二次大戰に於ける『獨逸兵十誠』
 三二三 獨逸は第一次大戰に於て交戰法則違反の行爲を累次演じて憚らざりしとて、當時甚しく非難を受けたが、又その違反と目せられたる行爲は事實絶無でもなかつたであらうが、一九三九年の第二次大戰に於ては、獨逸はその兵士をして交戰の法規慣例を遵由して行動せしむるために『獨逸兵十誠』なるものを制定し、之を兵の手帳の表紙の裏面に印刷貼付したる由で、その十誠なるものは
 (一)獨逸の兵は獨逸國民の勝利のために戰ふものなり。残酷及び無益の破壞は兵の威嚴を損するものと知

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るべし。
(二)戰闘員は制服を着し且遠方より明瞭に識認し得べき徽章を具有するを要す。この徽章を具有せずして私服にて戰闘することは之を禁ず。
(三)降伏したる敵は之を殺すべからず。間諜とても亦然りとす。間諜は裁判を受けしむるため之を引致すべし。
(四)俘虜は之を虐待し又は侮辱することを得ず。俘虜の携帯する武器、地圖、及び書類は之を取上ぐベし。その一身に屬するものには觸るるべからず。
(五)グムダム弾は之を使用することを得ず。彈丸をダムダム彈に變形することは之を禁ず。
(六)赤十字は之を侵すことを得ず。負傷の敵兵はその取扱方に斟酌を加ふべし。敵の衛生部員及び軍隊附屬の教法者の職務執行は妨礙することなきを要す。
(七)常人には攻撃を加ふべからず。物を掠奪し又は悪意にて破壊することは之を禁ず。歴史的記念物及び宗教、技藝、學術、又は公益の用に供せらるる建物は特に注意して取扱ふべし。住民を何等の役務に使用するには必ず上司の指揮を受くべく、且之に賠償するを要す。
(八)中立國の領域はその上空も陸地も通過することを得ず。中立領域に砲撃を加へ之を作戰行動地域と爲すことは之を禁ず。
(九)獨逸兵にして敵の俘虜となりたる場合に、その氏名及び階級に付訊問を受けたるときは實を以て答ふ

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べし。但し如何なる場合にありても自己の所屬部隊を告ぐることを得ず、又獨逸側の軍事上又は經濟上の状態に關し陳述を爲すことを得ず。たとひ約束又は脅迫を以てせらるるも之に誘導せらるることなきを要す。
(一〇)以上の命令に違反したる兵は總て處罰せらるべし。敵にして以上第一項乃至第八項の規定に違反したるときは直ちに之を報告すべし。報復を行ふは高級指揮官の命令ある場合に限るものとす。
              (Tha Japan Advertiser,Oct. 10, 1939, Berlin, Trans. Ocean, Oct. 8)

と云へるものであつた。右は獨逸宣傳省の公表とあつたから、單なる宣傅用に過ぎぬものか否やか判らぬけれども、事實斯かる誠訓を發したものとすれば、その規定事項は執れも現代の交戰法則に副ふもので、確に善い心懸けであつたと稱すべきである。第二次大戰に於て獨逸の將兵が果して始終一貫この誠訓に則りて行動したりしや否やは、本款擱筆の際には何とも判知するを得なかつた。

         第二款 陸戰關係の法規

          第一項 國際條約に依るもの

現行の重なる國際約定
 三二四 陸戰に關する現行の重なる國際約定には左の如きものがある。
 (一)一八六八年の聖彼得塗宣言。

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 (二)一八九九年第一囘海牙平和會議議定の『一。輕氣球上ヨリ又ハ之ニ類似シタル新ナル方法ニ依リ投射物及爆裂物ヲ投下スルヲ禁止スルコト』、『二。窒息セシムベキ瓦斯又ハ有毒質ノ瓦斯ヲ散布スルヲ唯一ノ目的トスル投射物ノ使用ヲ禁止スルコト』、『三。外包硬固ナル彈丸ニシテ其ノ外包中心ノ全部ヲ蓋包セズ若ハ其ノ外包ニ截刻ヲ施シタルモノノ如キ人體内ニ入テ容易ニ開展シ又ハ扁平ト爲ルベキ彈丸ノ使用ヲ禁止スルコト』に關する三宣言。
 (三)一九〇七年第二囘海牙平和會議議定の『陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約』、及び同條約附屬の『陸戰ノ法規慣例モ關スル規則』。
 (四)一九二五年ヂュネーヴ議定の『窒息性、毒性又ハ其ノ他ノ瓦斯及細菌學的戰爭方法ヲ戰爭ニ使用スルコトヲ禁止スル議定書』。
 (五)一九二五年ヂュネーヴ議定の『戰地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ關スル條約』。
 (六)一九二九年ヂュネーヴ議定の『俘虜ノ待遇ニ關スル條約』。

陸戰法規は全交戰法規の基本法
 三二五 以上の諸條約中その(三)以外のものは、必しも獨り陸戰に限れるものではないが、その實際の適用は主として陸戰に於けるものであるから、便宜陸戰關係の國際條約として此に論ずることにする。元來陸戰、海戰、及び空戰の各戰闘は諸般の状形を相異にし、その手段も亦自ら相異なる所よりして、之を支配する法説慣例にも自ら特殊のものがあり、殊に水中戰及び空戰ぱ最近代の發達であるだけ、從前の他種戰闘の法規慣例を以て律するを得ざる點が多々ある。衣は以て寒暑を凌ぎ食は以て飢渇を愈すの用たる根本原則は

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通じて一なるも、東西自ら裁縫を異にし老壮自ら餌烹を別にするはこれ亦自然の要求たるべく、理は移して各種戰闘の法規慣例の上にも論すべきである。然しながら同時に、三者の全般を掩ふ所の共通的諸原則もある。それ等の諸原則は大體之を陸戰法規に求むるを得べく、随つて現代の交戰法規の基本法は實に陸戰法規にありと云ふも失當でない。現に第二囘海牙平和會議に於て表白せられたる希望の第四として、同會議の最終議定書に『本會議は……如何なる場合に於ても列國は陸戰の法規慣例に關する條約の原則を爲し得る限り海戰に鷹用せむことを希望す。』との聲明があり、又一九二三年の海牙議定の空戰法規案も、その第六十二條に『両規則に特別の規定ある場合……を除く外、敵對行爲に從事する航空機乗員は………陸上軍隊に適用せらるる戰時法規及中立法規に遵ふべきものとす。』と規定し、翌一九二四年の萬國國際法協會のストヅクホルム空戰規則案第六條にも大體同様の規定がある。これは恰も國内法に於て、商事に關し商法に規定なきもの及び商慣習法なきものに就ては民法を適用すと爲せると擇ばない。陸戰法規に一倍の研究を要する所以は此にある。特に陸戰法親慣例規則は、現在に於て陸戰關係の諸法規中の核心を作すもので、その條文五十六ケ條は、之を海戰に關する國際的法典たるべかりし倫敦宣言の七十一ヶ條、空戰に關し同樣の一九二三年の海牙空戰法規案の六十二ヶ條に比すれば、その規定事項は比較的簡少ではあるが、しかも該規則は陸戰の最主要の準據法として、現實の價値は倫敦宣言及び空戰法規案に勝るも劣らざるものである。

明文なきの故を以て獨斷は許されず
 三二六 陸戰に關する前掲諸條約の内容は追て關係款項の下に於て随時解説すべきが、これ等諸條約の規定する所とても、陸戰の凡ゆる行動を律するに就て決して全掩的のものではない。戰闘手段の中には、成文

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の交戰法規の上に規定するに至らざりしものも多々あり、その當然違法行爲を以て論ずべきものにして、明文の上には特に禁止又は制限されてないものも少なくない。然しながら、その規定が無いからとて、違法が化して適法となるに非ざるの理は銘記するを要する。陸戰法規慣例條約の前文には『實際ニ起ル一切ノ場合ニ普ク適用スベキ規定ハ此ノ際之ヲ協定シ置クコト能ハザリシト雖、明文ナキノ故ヲ以テ規定セラレザル総テノ場合ヲ軍隊指揮官ノ檀斷ニ委スルハ亦締約國ノ意志ニ非ザリシナリ。』、又『締約國ハ其ノ採用シタル條規ニ含マレザル場合ニ於テモ、人民及交戰者ガ依然文明國ノ間ニ存立スル慣習、人道ノ法規、及公共良心ノ要求ヨリ生ズル國際法ノ原則ノ保護及支配ノ下ニ立ツコトヲ確認スルヲ以テ適當ト認ム。』と特に宣言した。即ち苟も文明國間の慣例に反し、將た人道に悖戻すること明白なる行爲は、たとひ法規に明文なしと雖も、之を戒飭すべきは當然である。ただ成文法規の上に何等規定なく、而して國際法の原則に違反せず、人道上の要求に悖戻せざる行爲たる限りは、適法の手段として交戰國の之に訴ふるに妨げなきこと勿論で、軍隊指揮官はその裁量にて適當に之を取捨すべきである。

          第二項 國内法規の定むるもの

陸戰の法規慣例に關する條約と規則
 三二七 一八九九年の第一囘海牙平和會議に於て創定し一九〇七年の第二囘の同會議に於て改正の加はりたる現行の基本的の隣戰法規は、詳に云へば『陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約』と『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』の二つである。(略して前者を陸戰法規慣例條約、後者を陸戰法規慣例規則と稱する)。陸戰法規慣例

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條約は一の國際條約として、締約國をその規定條項の範團に於て拘束するものである。然るに陸戰法規慣例規則は、該條約第一條に『締約國ハ其ノ陸軍軍隊ニ對シ本條約ニ附屬スル陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則ニ適合スル訓令ヲ發スべシ。』とあるが如く(第一囘海牙會議の該條約第一條の規定も亦同じ)、締約國が各自の軍隊に對して追て發すべき訓令の典型たらしむるために、該條約の附屬として標本的に添付せる言はば一の参考文書に過ぎぬものである。さりながら該條約と該規則とは元々不可分的關係のもので、前者の締約國は則ち後者の規定を尊重すべき少なくも徳義的義務の下にあること論を俟たない。殊にその規定事項は、第一囘の該條約の前文に『……前記の目的を體し陸戰慣習を明確に規定するを目的とする許多の條規を採用せり。』とあるが如く、敢て新に陸戰の法則を創作したものではなく、大部分は文明諸國間の累次の陸戰を經て自然の間に發達したる諸般の慣例を改めて、確認し、之を條文に編成したといふ迄で、別語にて云へば、從來の不文律の種々の權利義務を成文の國際法規に直したといふに過ぎざるに於て尚ほさらである。

規定通り新に發令せる國幾許も無し
 三二八 然るに第一囘の該條約の出來てから後、その署名及び後日加入の二十ケ國(第二囘の該條約のそれは三十二ケ國)を算する締約國中にありて、右の第一條の規定に從つて典型的の該規則に適合する訓令を自國の軍隊に發し、又は從來の自國陸戰法規の上に相當改定を加へたる國とては、東西を通じ僅に二三ケ國に過ぎず(獨逸の一九〇二年制定の『陸戰慣例』は必しも右の規定に從つたものでないこと追て述ぶる如くである)、餘の大部分の國々は之をその儘にし、別に新規の發令ありしを聞かない。これは一は二囘の陸戰法規慣例條約第一條に於て、執れも締約國の該訓令布達に特定の期限を附するなかりし手落ちにも由ることで

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あらう。尤も日露戰役中、露國は開戰後五ケ月餘を經たる七月十四日(一九〇四年)を以て『陸戰法規慣例訓令』を在満洲部隊に發した。(一八七七年の露土開戰の際にも、露國陸軍省は赤十字條約、聖彼得堡宣言、ブルッセル宣言案等の要旨を問答體に記せる簡易の『陸戰法規提要』を編纂し、之を諸團隊に頒布して將校の指針用にしたことがが【ママ】る)。日露戰役に於ける右の訓令は、將校に對するのと下士卒に對するのとの二部に別れ、その後者は十一ケ條の簡單なる戰場心得に止まれるも、前者は之を交戰者の資格、その權利義務、負傷者取扱、俘虜取扱、軍使、間諜等の諸章、全文四十四ケ條を有し、大體に於て海牙議定の陸戰法規慣例規則に遵由せるものであつた。我が日本は同戰役に於て特に綜合的の法規は制定せざりしも、開戰後累次制定したる俘虜取扱規則、俘虜情報局設置令、その他若干の單行的法令は、執れも陸戰法規慣例規則の精神に則つたものである。

米國の一九八三年の『陸戰訓令』
 三二九 然しながら海牙平和會議に於て、各國をして據つて以て陸戰の準則に關する訓令を部内に發せしむるに就ての典型として陸戰法規慣例規則を議定せるその以前にありても、既に權威ある國内法規を獨自に制定せる國は無ではなかつた。乃ち米國の如きは、夙に之を具有する随一の國である。米國が一八六三年に制定せし『陸戰訓令』("Instructions for the Goverment of Armies of the Uuited States in the Field")は、蓋し近代世界に於ける國内陸戰法典の魁たるものであらう。米國はその前々年に南北戰を迎へ、ヴァージニァ州を始め各地に激戰ありたるが、兩軍の行動には虐殺、掠奪、その他非人道的のこと少なからずあつた。北軍の司令官中には、當年の米國有數の國際法學者として知られたるハレック少將の如きもありて、そ

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の部下に對し能ふ限り交戰の法規慣例に則らしむる所あつたやうであるが、規律の粛正は全軍に及ばざる憾があつた。大統領リンカーンは之を遺憾とし、北軍出征部隊の戰場に於て遵由すべき交戰法規を編案するの目的を以て、一九六二年十二月新に陸軍省にその編案委員會を設けしめた。而してその主任に當らしめた者は、コルムビア大學の史學教授リーバー(元獨逸人で、壯時普魯西政府の忌諱に觸れて下獄し、後米國に歸化したる Dr. Francis Lieber)であつた。

後年の陸戰法規概ね範を之に取つた
 この陸戰訓令は、米國政府が元と當面の南北戰に適應せしむるため急ぎ編纂したものなるが、その規定事項は當時にありて戰時國際法上一般周認の陸戰關係の重要なる諸原則を網羅して洩さず、乃ちブルンチュリが『本訓令は巻頭より卷末まで國際法關係の一般的原則を擧げて包含し、その規定する方式は人道の現代思想及び文明人の則るべき交戰方法に一として合致せざるはない。本訓令の勢力は遙に米國の境域以外に及び、戰時公法の諸原則の形式に向つて貢献する所極めて大である。』(Bluntschli, Droit Int. Col.,p.6)と激賞し、マルテンスも『世界に率先して交戰の法規慣例を正確に解定したる名譽は、實に之を米國及び大統領リンカーンに捧げざるを得ず。』(Martens, La Paix et la Guerre,p.77)と稱讃し、更にルノールも『如何にその中には缺點があるにもせよ、本訓令は凡そ軍隊の行動を一定の成文法則の下に律し得るの可能性を世に證示したる大功績は沒すべからず。』(Renault,"War and The Lae of Nations," Amer.Jour. of int. Law, Vol.9, Jan. 1914,p.2)と感嘆したるが如く、陸戰法典として確に世界に先蹤を印せるもので、一八七四年のブルッセル宣言案の討議の基礎案となつたのみならず、歐洲若干國をして、執れも之に倣ふて自國の

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陸戰法規を編案するの好範例とならしめた。別に記する和蘭のポルチュガエル將軍の一八七一年に編纂し同國陸軍士官學校の教科用となれる『交戰法規提要』、一八七七年に佛國のビヨー執筆の『陸軍將校用國際法提要』、一八七八年の塞耳比國陸軍省の編纂せる『陸戰訓令提要』、同年瑞西政府のヒルチー教授をして起草せしめたる『交戰法規』(Pref. Hilty,Kriegsrecht)、一八八三年英國陸軍省の刊行したる『軍喜法規提要』(Mannual of Military Law)、一八九三年に西班牙政府の同國陸軍士官學校教科用に編纂したる『陸戰法規慣例』、次に述ぶる一九〇二年に獨逸参謀本部の制定したる有名なる『陸戰慣例』、更に一九〇四年、英國陸軍省のホルランド教授に委囑して編纂したる『陸戰法規慣例便覧』等、孰れも直接間接にリーバーの法典を参考したるに非ざるはない。米國自身も啻に南北戰役に於てのみならず、後年の對西戰役にも之をその儘に適用し、斯くして第一次大戰直前の一九一四年四月二十五日改定の『陸戰規則』(Rules of Land Warfare)を見るに至るまで、まさに五十年の久しきに亙りて生命を有せしめた。この改定『陸戰規則』は、舊『陸戰訓令』の全文百五十七條なるに比し四百四十三條の多きものとなつたが、舊訓令中の重要なる諸條項は殆ど全部之を踏襲し、ただ事實既に不用となれる例へば奴隸の取扱に關する條項などを削除し、更に補ふに海牙議定の陸戰法規慣例規則及びヂュネーヴ議定の赤十宇條約中の重要條項を以てしたもので、その土臺となつたものは、やはりリーバーの當年起草の舊訓令であつたのである。

獨逸の一九〇二年の『陸戰慣例』
 三三〇 海牙平和會議議定の陸戰法規慣例條約が締約諸國に命ずるに同條約附屬の陸戰法規慣例規則に適合する訓令を各自の陸軍軍隊に發すべきこと以てせる次第は前に述べた。帝政時代の獨逸参謀本部は、同條

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約(第一囘海牙會議議定の舊條約)の出來てから三年後の一九〇二年に、『陸戰慣例』("Kriegsbrauch im Landkriege")を制定して之を陸軍部内に令達した。(その佛譯としては P.Carpentier, Lse Lois de la Guerre Contrinentale, publication du Grand Etat-Major Allemand, 1904; 英諜にはJ. H. Morgan. The German War Book,1915,がある)。獨逸は既に一八七〇年の普佛の役に自國軍隊の遵由すべき法則として一訓令を布達したが、これは陸軍部内限りの内訓としてあつたので、内容は世間に知れてない。その公に知られてあるものは一九〇二年の『陸戰慣例』のみである。獨逸の當年の陸軍當局者の見解では、世に陸戰の法規なるものは存在しない、存在するのは單に慣例のみである。その慣例とても時代に依りて異なるのみならず、同一戰役に於ても必しも一樣でない、又一般に認めらるる慣例とても、作戰上の必要の前には全然それに依らざるも可なるものである、といふのが彼等の根本観念である。隨つて彼等は陸戰法規といふ語を好まない。これその編纂令達したるものに特に『陸戰慣例』の命題を用ひた所以である。
 獨逸の『陸戰慣例』は、敵國軍隊に對する加害手段、敵國の占領地及び住民の取扱、及び中立國の權利義務の三部十五章より成るが、その指導原理としたる所のものは謂ゆる戰時無法主義(クリーグスレイリゾン)で、帝政時代の獨逸の軍部及び若干の國際法學者は之を祖述し、且凡そ戰は單に敵國の軍隊のみを對手とせず、敵國の有形的權力のみを撃破するに止めず、併せてその精紳的(ガィスチツク)威力をも破壊するを要す、隨つて敵の私有財産を破壞し、敵の常人に壓虐を加へ、都市村落を砲撃し、無償の徴發を行ひ、資源を涸渇せしめ、甚しきは俘虜を殺戮し、その他敵に屈伏を促し講和を哀求せしむるに必要なる如何なる手段に訴ふるを可なりとし、海牙條約の要求する

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人道主義の如きは感傷性且女々しき惰念(Sentimentalitat und weicher Gefuhlsschwarmerei)に過ぎずと斷じ、軍事的必要の至上主義を極度に力論したるものである。陸戰法規慣例條約は附属の該『規則ニ適合スル訓令ヲ發スベシ』と命ぜるか、獨逸の『陸戰慣例』は啻に之に適合せざるのみか、随所に該規則を冷嘲し、随所に之を打消す反對の規定が設けられてある。
 その後第二囘海牙平和會議改定の陸戰法規慣例條約あるに及び、獨逸は一九〇二年の『陸戰慣例』を何程か緩和し、何程が新條約の規定に一致するが如き訓令を陸軍部内に發した。これは新條約の或條項が獨逸自身の發議に出でたといふ關係からであらう。といふ次第は、一九〇二年の『陸戰慣例』中には、海牙條約の如きは單に徳義的拘束力を有するに過ぎす、獨逸陸軍は自己の便宜に從ひ之を守るも守らざるも可なり、との意味が記してあるので、列國は獨逸の誠意を大に疑つた。そこで獨逸は不信實の非難を避くるがためか、第二囘海牙會議に於て陸戰法規慣例條約及び同規則の改正問題の討議に方り、同國代表は別に『(一)交戰國にして本規則[本條約附属の陸戰法規慣例規則]に違反するものは被害國に對し賠償を爲すの義務あること、(二)兵の違反行爲に對しては所屬國政府その責に任すべきこと』と云へる宣言案を提出した。各國全權執れも異議なく、全會一致にて之に賛した。その結果が新條約(現行)第三條の『前記規則ノ條項ニ違反シタル交戰當事者ハ損害アルトキハ之ガ賠償ノ責ヲ負フベキモノトス。交戰當事者ハ其ノ軍隊ヲ組成スル入員ノ一切ノ行爲ニ付責任ヲ負フ。』といふ舊條約に見るなかりし民事的制裁の一規定の挿加となつ【ママ】のである。獨逸が改めて發したる訓令といふのは、畢寛右の提議の責任上から新條約の該規定と一致せしめざるを得ざるもので

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あつたのである。けれども第一次大戰に於ける獨軍の諸般の行動から見れば、假に獨逸が敗績せざりしたらんには、果して獨逸自身それを厲行したか否か、聊か疑問たらざりしを得まい。これは然しながら必しも獨逸のみでなく、對戰國としても亦同樣であつたかも知れない。

佛國の『陸軍將校用國際法提要』
 三三一 一八七七年の露土戰役に露國陸軍省にて『陸戰法規提要』を編纂して將校の指針用に供したことは前に述べたが、佛國の陸軍省にては之を便利の企てと見たものか、同じ一八七七年、同國の國際法學者ビヨー(Prof. Bilot)に委囑し、陸戰の法規慣例を簡單に記述せる『陸軍將校用國際法提要』( "Mannel de Droit International a l'Usage des Offiers d' Armee de Terre-Ouvrage autirise pour les Ecoles Militaries.")を編纂し、自國の陸軍士官學校の教科用にした。内容は敵對行爲と占領の二章に過ぎぬ一小冊子であるが、當年にありては實用向の好提要たりしやうである。
 その後海牙の陸戰法規慣例規則の成るに及び、佛國参謀本部にては右の國際法提要を改纂し、爾後版を重ね、 一九一三年にその第四版が出た。内容は大體に於て陸戰法規償例規則の條文を複寫したやうなものである。翌年の第一次大戰は之を實際に試練する機會となり、而して佛國軍隊の戰場に於ける行動には、之と甚しき背馳の跡ありしを聞かなかつた。

英國の『陸戰法規慣例便覧』
 三三二 英國にては、一八七九年に上院議員スリング(Lord Thrind)が陸軍省の囑託にて編纂に着手し、一八八三年に刊行されたる『軍事法規提要』(Mannual of Military Law)あるも、これは彼の一私著となつてあるから措き、公的の權威ある文書としては、ホルランド教授が同じく英國陸軍省の依囑にて編纂し、一

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九〇四年を以て始めて出せる『陸職法規慣例便覧』”Handbook of the Laws and Customs of War on Land")を推すべきである(一九〇八年に再版、一九一四年に最後の第三版が出た)。ホルランドは是より先き一八八八年、同國海軍省の依嘱にて『海軍捕獲法提要』("Mannal of Naval Prize Law")を編纂したるが、第二囘海牙平和會議直後の一九〇八年、別に『陸戰法規』(The Laws of War on Land Written and Uuwritten)を私的に刊行した。而して兩書共に、交戰法則に關する英國の政府及び學界の所見を窺ふ上に於て好文献となつてある。

一九一四年の同國『軍事法規提要』
 この間にありて英國陸軍省にては、別にオッペンハイム教授とエドエモンズ大佐(Col. Edmonds)の共纂に成る陸戰の法規慣例關係の一切の條規類を輯録且多少の解説を加へたるものを、"Land Warfare: An Exposition of the Lands and Usages of War on Land for ihe【ママ】 Guidance of Officers of His Majesty's Army"と題して一九一二年に刊行し、更に一九一四年には、右をも併録したる官版の"Mannal of Military Law"として之を上梓した。これは"Mannal"即ち提要とあるも、陸戰の法規慣例に關する諸事項を五百十ケ條の多きに排序し、幾多の先例や解説をも附加してあり、提要の語寧ろ謙辭と謂ふべく、陸戰
に關する一大教科書日と見ても可いものである。

帝國陸軍の諸操典
 三三三 帝國陸軍が日露戰役に於て海牙陸戰法規慣例規則に準據せる數種の單行的法規を制定實施したることは前に述べたが、之を外にし、陸軍には作戰行動に關する成文の準則として歩騎砲兵及び航空兵の各操典、陣中要務令、戰闘綱要等幾十種の多きがあり、殊に航空兵操典は比較的最近(昭和九年三月)の編纂に

係り、附録を外にし本文千二百六十二ケ條に亙る極めて綿密なる規定を有し、他國の同種操典に比し勝るも劣らざる完備のものと見られる。けれども、これ等諸操典の内容は、概言するに各科軍隊の訓練上主要なる戰闘の方式、陣中諸勤務の準縄、教練の方針要目等にありて、國際法眼に映ずる交戰の法規慣例には殆ど觸れてないやうであるから、此に謂ふ陸戰法規を以て論ずるは當らざることであらう。

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『戰陣訓』
 三三四 昭和十六年一月八日の我が陸軍始の佳日、東條陸軍大臣は『戰陣訓』を部内に訓令し、之を『戰陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ』と命ぜられた。この戰陣訓は曾て帝國軍人に賜はりたる 勅論を經とし、戰闘訓練等に關する帝國陸軍の典令綱領を緯とし、特に戰場に於て實践且戒愼すべき須要事項を端的に列擧したるものとありて、各項目共に辭簡にして意到れる頗る好訓令に推すべきが、殊にその中には、國際法眼より見るも、現代に於ける陸戰の法規慣例の要求に善く合致し、戰場(及び占領地)の準則として稱揚すべき箇條が少なからずある。例へば『軍ハ……常ニ大御心ヲ奉ジ、正ニシテ武、武ニシテ仁。……武ハ嚴ナルベシ、仁ハ遍キヲ要ス。……假令峻嚴ノ威克ク敵ヲ屈服セシムルモ、服スルハ撃タズ從フハ慈シムノ徳ニ缺クルアラバ、未グ以テ全シトハ云ヒ難シ。』(本訓、其ノ一、第二)とあるが如き、交戰法則の根本義を道破して復たこの以上の贅説を須ひない。又『六。敵産、敵資ノ保護ニ留意スルヲ要ス。徴發、押収、物資ノ燼滅等ハ總テ規定ニ從ヒ、必ズ指揮官ノ命ニ依ルベシ。』、『七。皇軍ノ本義ニ鑑ミ、仁慈ノ心能ク無辜ノ住民ヲ愛護スベシ。』(本訓、其ノ三、第一)、『八。常ニ大國民タルノ襟度ヲ持シ、正ヲ践ミ義ヲ貫キテ皇國ノ威風ヲ世界ニ宜揚スベシ。國際ノ儀禮亦輕ンズベカラズ。』(同上、第二)とあるが如き、執れも戰地殊に占領地に於ける

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軍の權力の運用に關し、反論を挾むの餘地なき鐵則的箴規である。戰陣道徳の凡ゆる發露は、悉くこれ右の若干條項を敷衍せる餘映に外ならない。既に述べたる如く、一九〇七年の陸戰法規慣例條約の調印且批准後に於て、同條約第一條の規定の命ずる當該訓令を自國陸軍部内に發したる國とては、僅に濁逸の『陸戰慣例』を外にし、爾來他に殆ど無かつた。(獨逸の『陸戰慣例』とても同條約附屬の典型的規則とは大分違つたものである)。今囘の戰陣訓中の少なくも前抄諸條項の如き、實は當時疾く發令して皇軍の精神を夙に列國の間に宣揚せしめ置きたきものであつたが、今日でも勿論遅くはない。そこで今隴を得たる上更に蜀を望ましむれば、皇軍當局者に於て右の戰陣訓を基準とし、同時に一九〇九年の前記條約附屬の陸戰法規慣例規則を参照し、主として國際法的見地に立脚したる世界絶冠の帝國陸戰法規の編纂を企てられんこと是れである。神武の精神の力的體現に就ては、今日世界を擧げて寸毫の疑を皇軍に挾むものとては一人も無い。乃ちその法的體現に於ても、東西列國をして後へに瞠若たらしめたきことが稿者の希望である。『日本軍隊の國際法尊重は日露戰役を以て最後とし、その後の日本は舊獨逸の戰時無法主義の忠實なる信徒となれり。』とは英米國際法學者の口よりして往々出でし評言であつたが、この誤解(又は曲解)を一掃するには、この戰時訓は少なくとも最有力の一武器たるに相違あるまい。

國内法規も完成か望ましい
 三三五 以上述べたる各國制定の陸戰法規は、當該國の陸軍部隊の戰時行動の準據法として執れも有用の具たるは論なきが、ただその執れも國際的拘束力を有せざる國内法規たるに止まり、且當該國は戰時任意に之を改廢するを得るは勿論、交戰國の一方にして同樣の規定を設け且守るに非ずんば他の一方は敢てその規

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定を適用せずと爲すのが各國の國内交戰法規の普遍的條規となつてあるから、自然その遵守力に薄弱の感あるを免れない。故に眞に交戰法規としての效力を發揮せしむるには、國際條約として之に國際的拘束力を有せしむるに若くはなきこと辯を俟たない。けれども折角國際法上の相反發する諸主義及び各國の海軍政策を辛うじて調和し、互譲妥協の末に漸く成るに至らしめたる倫敦宣言すら、その運命遂に彼が如くになりしに顧み、今後國際的の陸戰(及び海戰竝に空戰)法規の議定を見るまでには尚ほ幾層の難關を送迎すべく、その實現は何れの日か期するを得ない。國際法の成典化は誰しも望む所であるが、その業は却々以て容易ならず、別して戰時國際法の成典化は至難のことで、一朝にして能くする所でない。努めて倦まずんば早晩彼岸に達するには相違なかるべきも、その早晩は今後十年を算すべきか、百年を俟つべきか、將た千年の後たるべきか豫言を許さない。故にせめては國内的のそれにても能ふ限り之が完成を計り、その中の共通條規を以て骨と爲し、漸次之に肉を附け、以て他日の國際法規制定の基礎工作と爲すのも一の順序であらう。この見地に於て國内法規の制定且完成も決して無用の業でないのみならず、大に望ましきことたるに相違ない。

伊國の一九三八年の交戰法規
 三三六 この意味に於て伊太利の一九三八年制定の全文七款、三百六十四ケ條より成る交戰法規の大法典の出現は、その内容の當否は暫く措き、種々の見地に於て大に歡迎すべきであらう。第一次大戰に先だつ一雨年前、及び同戰役中より戰後にありて、世界の重なる陸海軍國にして交戰の法則を國内法規を以て律定したるものも若干はあつた。例へは佛國は一九一二年十二月十九日布告の海戰訓令(一九三四年三月八日改正しを以て、獨逸も同年九月制定し大戰勃發の際の一九一四年八月三日に公布せる海上捕獲令に於て、我國も大

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正三年(一九一四年)十月六日布達の帝國海戰法規に於て、米國も一九一七年六月三十日の海戰訓令に於て、執れも倫敦宣言の條項を多分に採擇したる海戰關係の國内法規を律定した。その外中立に關する國内法規としては、米國の一九三五年以降累次改定の中立法、一九三八年五月の北歐諸陸の中立規則等、執れも顯著のものに屬するが、陸海空の三戰を通ずる交戰法規に兼ぬるに中立法規を以てしたる、即ち戰時に於ける交戰國として又は中立國としての一切の行動の規定を網羅する浩澣の法典を制定したのは、蓋し伊國の一九三八年七月八日の發布に係るそれであらう。

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      第二章 交 戰 者

         第一款 戰闘員及び非戰闘員

交戰者の語
 三三七 交戰者( Belligerents)の語は、交戰の主體たる交戰當事國(Belligerent States)を指すこともあれば、現實の戰闘に從事する個々の將兵を意味することもある。陸戰法規慣例規則の第一款の命題である『交戰者』("Des Belligerents")及び同款第一章『交戰者ノ資格』の『交戰者』とは專ら後者の意味に屬し、即ち文明國間の交戰に於て一定の資格の認めらるる所の個々の將兵を指す。然しながら、この意味に於ける交戰者の語は實は適切とは云へない。交戰者と云へば交戰の主格者である。交戰の主格者は交戰を爲す權利を有するもの即ち交戰權の主體で、そは國家であつて將兵ではない。將兵は國家の交戰權の行使の下に戰闘に從事するも、交戰權の行使者ではなく、即ち極めて嚴密に云へば、戰闘は爲すも交戰は爲さず、又爲すを得ない。故に本規則の第一款及び同款第一章の命題である『交戰者』は、蓋し戰闘從事者とでも譯さねばならぬものと信ずる。或はベリジェレントを戰闘員と譯し、次に述ぶる第三條の "de comattants et denon-combattants"を闘者及び非闘者とでも譯するのも一辨法であらう。けれども交戰者の語は既に我國調印の國際文書の上に於ける公的譯語となつてあるから、今さら非議するも妥當であるまじく、要は右の意義

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を理解しての上でこの語を使用すべきである。(同じ意味に於て中立人、中立貨、中立船等の語も之を誤解するなきを要する。中立の主格者は國家であつて、人や貨物や船ではない。けれども、これ等の語も海牙諸條約の我が公譯語として用ひられてあるから、本書中にも之をその儘に踏襲する所屡々ある。)

戰闘員及び非戰闘員の語
 三三八 次には戰闘員及び非戰闘員の語である。
 陸戰法規慣例規則にて謂ふ所の交戰者とは、前述の如く、國家の交戰權の行使の下に戰闘に從事するもので、之に從事せざる一般常人は交戰者なる語に對し非交戰者(non-combelligerents)と云ふべきであるが、本規則の上に於ける非戰闘員とは謂ゆる非交戰者とは異なり、銃器を手にして能動的に敵と戰闘こそせざるも、戰闘員の言はば補助機關となりて同じく戰線に立つ者を指すのである。即ち本規則第三條に
 第三條 交戰當事者ノ兵力ハ戰闘員及非戰闘員ヲ以テ之ヲ編成スルコトヲ得。
  敵ニ捕ハレタル場合ニ於テハ二者均シク俘虜ノ取扱ヲ受クルノ權利ヲ有ス。
とあるが如くである。尚ほ本條に於て交戰國の兵力はと云はないで『交戰當事者ノ兵力ハ』("Les forces armees des parties belligerents;" "The belligerent parties")としたのは、交戰の主體は必しも國家のみと限らず、未だ國家を成すに至らざるも法規慣例を守りて交戰する謂ゆる交戰團體なるものもあるので、それ等を包括的に言表すために態と國の語を避けて當事者と稱したのであらう。
 故に非戰闘員たる語には二樣の遣方があること知るべきである。一は交戰國(或は交戰當事者と云ふも可い)の兵力に編成せらるる非戰闘員で、即ち戰線に立つも干戈を手にして敵と闘ふを本務とするに非ざる軍

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人軍屬、例へば軍醫官、主計官、法務官、通譯、軍隊附布教師等である。(本規則第十三條の『新聞ノ通信員及探訪者、竝酒保用達人等ノ如キ直接ニ軍ノ一部ヲ爲サザル從軍者』は之と全然別である)。第二の意義に於ける非戰闘員は軍人以外の一般常人で、即ち交戰當事者の兵力の構成員でなく、武器を手にせず、戰時にあるも尚ほ且全然平和的の業務を唯一的に營み又は平和的に生活を送りつつある者を謂ふ。この意義に於ける非戰闘員は、古來今に至るまで世間普通の俗用語であり、且往昔に於ては公用語でもあつたが、本規則第三條に於て前掲の規定を見るに至つた以來、一般常人の意味に於ける非戰闘員のことは非交戰者と稱するのがヨリ正しき用語法となつた。之を非戰闘員といふことは俗用としては勿論妨げなきも、本規則の上では両者を殊別して見るのでなければ意義に混雑を生ずる。この混雑を避くるためには、右の第一の意義に於ける非戰闘員には時として英文の軍事關係文書の上に見る所の"Military non-combatants"即ち軍事非戰闘員、又は陣中非戰闘員といふが如き文字を用ゆるのも一策であらう。

現行規則の右の區別は適切でない
 三三九 然しながら以上述べたる戰闘員、非戰闘員、及び非交戰當事者の區別は、現行陸戰法規慣例規則の上に示されてある所に就て云へるものなるが、實を云へば右の區別には面白からぬ點がある。本規則第三條には前掲の如く非戰闘員を交戰當事者の兵力編成の一部と爲すを得としてあるも、非戰闘員が兵力の一部となるといふは言葉それ自身に於て妥當であるまい。尤も本規則の上に於て謂ふ所の非戰闘員とは、前にも云へる如く軍醫官、主計官の如きを指すのであるが、彼等とても軍人である。身自ら進んで劍を抜き敵を屠る者には非ざるにもせよ、陣中に在りて作戰事務に從事する紛らうなき軍人である。して見れば、彼等はや

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はり戰鬪員として見るのが妥當であらう。(銃劍を手にするに非ずんば戰鬪員に非ずと云はば、諜報や宣傳の勤務に從事する軍人は戰鬪員に非ずとの論理とならう)。通譯の如きも、身分は軍屬であると同時に職務はやはり作戰事務に關係を有するから、廣義の軍人として之を戰鬪員の中に入るるに妨げあるまい。稿者は一切の敵人を三つに別ちたい。即ち(一)戰鬪員、(二)準戰鬪員、及び(三)全然戰鬪に關係なき平和的常人たる非戰鬪者の三種である。軍人軍屬はその職務の關係上悉く之を戰鬪員とする。準戰鬪員とは後方にありて軍事關係の現業に從事する例へば軍需品工場の職工の如きものを謂ふ。(婦女子の現業員も含む)。之を戰鬪員に準ずることなく、平和的常人を以て取扱ふに於ては、彼等の從事する軍需品工場は敵の砲爆撃より無難たるの特權を得ることになるが、そは恕せらるべきでない。軍需品工場の現業員は、その現業に從事する間は戰鬪員に準ぜしめ、敵の加害の適法の目的物と爲すに充分の理由がある。
 特に現業に從事する間といふ理由は他なし、元來戰鬪員の戰鬪員たる所以は、その固着的身分よりも寧ろ現に從事する職務の上に存するのである。軍人は兵營の内外に於て戰鬪の教育、演習、又は實行に從事するときは戰鬪員たること論なきも(その間に於ける休憩、食事、就眠等は戰鬪員の資格を中斷せざること論を俟たない)、然しながら彼等にして郷里に歸休し(將校ならば私宅に歸り)、軍服を脱して浴衣がけとなり、謡曲なり園藝なりに時を送るとならば(戰時にはそんな餘裕は無かるべきも)、軍人の身分は依然その身に固着するも、嚴格に云へば戰鬪員たるの資格は一時中斷する。故に戰鬪員たると否とは、多少の例外は別とし、要は軍服を着すると否とにて別れると大雑把に云へば云へるのである。この理は兵器廠その他軍需品工

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場の從業員にも推すべく、即ち彼等は國家總力戰の現代にありては戰鬪員に準ぜられ、當然加害の目的物となるが、從業時間を終へ工場を出でて自宅に歸らば、その時は最早や戰鬪員でなくして無害の常人を以て目すべきである。この分界は時には確と判別すること難く、殊に將校にありては、私服にて軍人としての職務に當る場合も多かるべく、從つて戰鬪員たるの資格の有無如何を以上の原則から截然割出すこと能はざる場合もあらんが、理論としては、その資格は身分に固着するに非ずして現實の職務に由りて異同するものと解すべく、否らずんば何を以て戰鬪員と爲すかの標準は立て難くなる。

古は戰鬪員と非戰鬪者の區別なし
 三四〇 されど暫く從來の用語を踏襲し、且俗用に從ひ非戰鬪員即ち non-combatants を以下一般常人の意味に用ゆるとし(但し員よりは者の方が可なるべく、本書に於ては多く非戰鬪者の語を用ゆるが、時には耳慣れて居るので非戰鬪員といふこともある)、之に對しては故意に危害を加へざることが近代の交戰法則の一原則となつてある。古代及び中世紀にありては、戰鬪員と非戰鬪者との間に全然區別なく、均しく之を殺害して憚らなかつた。稀には古代にありても夙に之を戒め、無辜の常人に加害せざるべきを説いたものも、現に二千有餘年前の東洋にある。『尉繚子』に『凡兵不攻無過之城、不殺無罪之人。夫殺人之父兄、利人之貨財、臣妾人之子女、此皆盗也。故兵者所以誅暴亂禁不義也。兵之所加者、農不離其田業、賣不離其肆宅、士夫不離其官府。由其武議在於一人。故兵不血刄而天下親。』(武講第八)とあるが、之を簡易の言葉で云へば、凡そ兵は咎の無い城を攻めず、罪の無い人を殺すべきでない。徒らに人の父兄を殺し、人の貨財を奪ひ、人の子女を奴隸にするが如きは、これ則ち盗賊行爲である。用兵の目的は暴亂を除き不義を禁ずるにある。兵

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が敵を攻むるに方りては農夫はその田畑にて、商賣はその店舗にて、官吏はその役所にて、各その業務に從事して然るべきで、これは畢竟作戰計書が大將一人の心に出で、軍紀の下に全軍統一せらるるからである。
故に兵は刄に血ぬらないで何人も之に親むのである。といふ意味で、即ち疾く古代に於て今日の交戰法則の根本義を説ける眞箇不磨の箴言と謂ふべきである。
 然しながら往古稀には斯かる人道主義の戰律が一代の兵家に依りて唱へらるるありしにもせよ、實際の交戰慣例は概して敵の個人をも悉く敵とするにあつた。故に往昔にありては、戰時とならば啻に對手の國家そのものを敵としたるのみならず、敵國所屬の個人をも悉く敵とし、戰鬪員同樣に之を殺戮して憚らないのが一般の慣例であつた。昔はフアッテルの『國の元首が他の元首に宣戰するときは、その全國民が他の全國民に對し宣戰するを意味する。他なし、元首は國民を代表し、全社會の名に於て行動する者たるからである。
一國民が他國民に對するは、ただ一國として、一單位としてに於てのみ。故に交戰國の一方の臣民は他方の總ての臣民の敵となる。』(Vattel,Ⅲ S 70)と云へるは、軍に戰は國家全般の關する所たるを高調するの意なりしか、將た國家を構成する國民各個にも敵性あるを示すの意なりしか明晰を缺くも、兎に角古にありては、交戰國の個人相互間の敵對關係の認められしは事實であつた。隨つてこの觀念及び慣行の下にありては、交戰者は啻に武器を手にする戰鬪員及び非戰鬪員のみならず、全然戰鬪に與らざる老幼婦女までをも敵に擬し、暴掠殺戮を之に加へて憚らなかつたのは怪むに足らない。

ルウソウの個人非敵説の是非
 三四一 然るに一は人道主義の反映と、又一は國家の公兵と私兵とが漸次裁別せられ、兵は國家の統制の

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下に立つものとの思想が發達すると共に、敵の戰鬪員と非戰鬪者はその取扱を異にすべく、後者は殺害すべからざるものとの觀念が次第に萠芽した。而してその發育を特に助長せしめたものは、ルウソウがその『社會契約』に於て高調したる『戰は人と人との關係に非ずして國家間の關係のみ。個人は偶然敵となるに過ぎず。その敵となるのも、個人としてに非ず又國民としてにも非ずして、兵士としてのみ。國家の一員としてに非ずして、國家の防護者としてのみ。國家の敵者は他の國家にして、人に非ず。』との個人非敵説である。
この説はホール、ウェストレーク、ターリントン等の非議せる如く(Hall, S 18, pp. 85-7; Westlake,"Note on Belligerent Pights at Sea,".Latifi,pp.194-150;dgar Turlington,"Treatment of EnemyPrivate Property in the U.S. before the World War," Amer.Jour.of Int.Law,Vol.22,1928,p.270)、英米にては餘り受入れられなかつた。尤も英米の觀念の下にありても、戰鬪員と非戰鬪員との區別を全然認めざりしと見るは當らない。殊に曩に記せる米國のリーバーの『陸戰訓令』--現行陸戰法規慣例規則の當初の典型となりしもの--には、第二十一條乃至第二十五條に於て非戰鬪者不侵害の主義を高調してあるに顧み、非戰鬪者を戰鬪者と同樣に加害の目的物として可なりと爲すの意に非ざることは知るべきである。
 ただ然しながら大陸諸國にありては、戰は單に國家間の爭鬪のみとの見は【ママ】ルウソウ以來急に且根強く勢力を得、ブルンチュリの如きも一八六八年の公刊の著書に於て『戰は國家間のことにして、個人間に起れるものに非ず。正しき意義に於ける敵は交戰の國家にして、交戰國の市民はその相互間に於ても、將た敵の國家

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から見ても、共に敵に非ず。』と説いた(Bluntschli, ss 530-531, p.308)。然しながらルウソウの個人非敵説を極端に押詰めれば、凡そ戰は國家と國家と相戰ふといふよりも、國家の戰闘力の代表機關が相戰ふもので、即ち國家の戰鬪機關、若くは戰鬪機關に直接關係ある限られたる部面の對抗關係といふことになる。隨つて戰は軍隊と軍艦とに任せて置けば可いといふ論になる。又隨つて加害の目的物も、砲撃は城砦要塞のみに對し、封鎖は軍港のみに限り之を行ふを適法とすべしといふことにもなる。さりながら更に他の一方より之を觀れば、既に戰を以て國家と國家との對抗關係なりと説く以上は、軍に敵國の戰闘機關そのもののみを破壞するのでは足らず、併せてその戰鬪機關の動力たる敵の國家及び國民そのものを破壞することを標的に置かねば論理徹底しない。故に戰鬪機闘破壞説は戰の國家對抗説から到達する一種の結論であるけれども、同時に却つて國家全體破壞説を生み出す所の背馳的論理を構成する。

敵人としての非戰鬪者の性質
 三四二 殊に今日に於ては、戰は國民の總動員を以て當らざる可らずと説かれる。即ち國家は開戰と同時に國民全體の戰鬪機能を擧げて發揮せしめざる可らずといふのである。既に然らば、交戰國は軍に敵國の戰鬪機關を破壞するのみには足らず、進んで敵國民全體の動員能力を悉く粉碎するに非ずんば交戰の目的は達し得られない。隨つて國家の對抗闘係は延いて國家の總ての機關及び構成部分の對抗關係となり、個人も直接間接に戰鬪に關係あり將た關係あるべしと推定せらるる限り、悉く敵として之を取扱ふことが輓近の慣例となつて來た。勿論個人の相互に敵たるは兩國間の交戰關係から來る謂ゆる公敵のことで、個人關係の上に於ける私敵のことではないが、法律的には均しくこれ敵と見ざるを得ない。ただ均しく敵であつても、交戰

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國の兵力を構成する謂ゆる交戰者即ち戰鬪員及び非戰鬪員をば能動的の敵性者とし、非交戰者即ち一般常人は之を受動的敵性者としてその間に區別を立つべく、海牙法規も亦この精神より離れてない。

近代戰に於ける非戰鬪者の地位
 三四三 第一次大戰に於ては、事實に於て戰鬪員と非戰鬪者の區別が全然若くは殆ど認められず、その共に加害の目的物となれるに於て、時代は昔日に逆轉するの概があつた。一は帝政時代の獨逸の『陸戰慣例』に於て高調されてある戰の觀念、即ち戰は獨り敵國の兵馬要塞等に對して行ふに止まらず、併せて敵國の精神的及び物質的の全資源の破壞を意味し、隨つて敵國の個人の生命財産を破壞するも妨げず、との思想に基けるものであるが、聯合國側にありても同樣の觀念の下に敵國の非戰鬪者を取扱つた。英國は第一次大戰當時、禁制品の絶對的と條件附の區別を廢止したること別に述ぶる如くであるが、その理由として同國外相は一九一五年二月十日の對米覺書に於て『敵國の軍隊又は政府に仕向けられたる糧食と常人に仕向けられたるそれとを區別するの根據は、軍隊と常人との區別そのものが消滅したる今日に於ては既に無意味となれり。』と記し、即ち少なくも糧食の關する限り、全國皆兵の理論よりして戰鬪員と非戰鬪者の區別を非認したものである。更に英國捕獲審検所にては、これも追て述ぶる The Kim 亊件の檢定に於て『國民の壯丁は總て武器を手にして軍役に從事し、非戰鬪者も戰場の兵士を後援する任務に服する全國皆兵の戰にありては、條件附禁制品の場合にても、その輩に敵國を仕向地とするを以て捕獲理由と爲すに充分なりと交戰諸國は認むるに至るべく、殊に敵國政府にしてその臣民の財産を陸海軍用として沒收又は徴用するの權利を有し且行使する國にありては尚ほさらである。』と論じ、事實に於て戰鬪員と非戰鬪者との區別を非認した。右は禁制品の

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上に現はれたる例に過ぎぬが、他にも同樣の意見は隨所に唱へられ、且實行せられた。而してその根本の觀念たりしものは、右にもある如く要するに國家總動員の戰時にありては、一切の工業は軍國の須要の下に立ち、非戰鬪者としても作戰遂行の任務に當るのであるから、その性質上戰鬪員と殆ど逕庭なく、隨つて兩者の匿別は之を認むるに理由が無くなつたといふにある。この論は今日とても必然肯定せらるべきであらう。
啻に軍需工業の關係許りではない。國家總動員は軍に一般常人が銃後の軍需品製作その他軍國の事に當るの故に於て爾く稱するに止まらず、敵機の來襲に際し丈夫は街路の巡邏警備に任し、婦女はモンペを袴しバケツを提げて消防のことに當り、全市民擧つて防空に從事するの事實に鑑み、均しく之を戰鬪員に準ぜしむるに理由あるべく、斯くして國家總動員は最早や軍なる形容詞ではなく、現實の意義に於てその然るを認むべきである。

直接の加害の目的物でない
 三四四 開戰は敵國民を學げて之に敵性を認むること英米古來の學説であり、今日は大體に於て世界の普遍的通則となつてある。けれども敵國民の全體に敵性を認むることは、その總てを加害の目的物と認のて可なりといふのとは意味が大に違ふ。第一次大戰以來、向後の戰時には戰鬪員と非戰鬪者の區別は消滅し、常人とても生命財産の保護を期すべきに非ずとの説を往々聞くが、如何なる時代にありても平和的常人を戰鬪員同樣に直接の加害の目的物として差支なしとの論は立たない。兩者の區別は世人の往々論ずるが如くに消滅したのでは斷じてなく、依然儼として存在する。ただ武器の進歩に伴ふ戰術の變化は加害の範圍を著しく擴大せしむるに至つた結果として、非戰鬪者の生命財産は從來の法則が要求する如くに保護することが六ケ

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しくなつた。この事實は肯定せざるを得ないが、その保護を能ふ限り期することの根本の原則は、今日とても以前と少しも變る所ない。加害の直接の目的物は專ら戰鬪員及び準戰鬪員であり、全然戰鬪に關係なき平和的常人は、その敵性あるにもせよ、身體及び財産の安全は能ふ限り考慮し、ただ適法の交戰行爲に不可避的に附屬する場合を例外とするに止まる。故を以て敵人は之を前述の如くに三種に類別し、戰鬪員及び準戰鬪員は共に加害の適法の目的物と爲し(且準戰鬪員にして現業從事中敵の權内に陷つた場合には戰鬪員同樣に俘虜たるものと爲し)、純乎たる非戰鬪者は依然且當然生命財産の保護を少なくも理論上には享有するものと爲すべく、この理は近代戰に於ても動かぬのである。

近代戰が個人非敵設を許さざる理由
 三四五 想ふに戰は國家間の關係で、交戰國の國民相互間の武力的對抗關係に非ざることは、理論としては間然する所ない。この理論が概念的に認識せらるるに至つたのは、戰時國際法の一進歩なりと云へる。けれども之を實際に徴すれば、現代及び將來の戰にはこの理論を一貫し能はざる事情がある。今日及び今後の戰には、國家の戰鬪機關と否らざるものとの間に確たる分界を立つることの不可能となつて來たことは、事實として肯定せざらんとするも得ない。
 その理由の第一は、現代の戰鬪機能は啻に銃を手にして戰線に立つ所の兵員のみならず、國内の壯丁といふ壯丁は勿論、婦女子と雛も力役に堪ゆるものは軍需品製造その他の戰鬪關係勞働に從事し、將た戰場の各種後方勤務に當り、殆ど國民全體を擧げて直接間接作戰のことに與からしむるので、交戰者の性質及び範圍が實際に於て著しく變つて來たといふ事實にある。

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 第二には、現代の交戰手段は啻に直接に敵の戰鬪力を破壞するを以て足れりとせず、同時に敵の糧道を絶ち、物資の供給を妨げ、敵國人を飢渇に陷らしめてその降伏を促すに力を餘さず、隨つて之がため艱苦疲弊を感ずる點に於ては、戰線の交戰者と後方の非戰鬪者との間に區別は無い。故に戰は戰鬪機關の對抗なりとの見方は、謂ゆる經濟戰の同時に若くはヨリ以上に激烈に行はるるに至れる今日、殆ど意味を成さなくなつたのである。
 第三は近代に於ける空戰の偉大なる發達である。航空機に依る爆彈投下は追て述ぶる軍事的目標なるものに常に正確に命中すべしとは限らず、その目標を常に正確に判知することも難く、殊に夜間にありては尚ほさらであるから、非戰鬪者も時には犠牲となること已むを得ない。故に空下爆撃にして適法と認められ、それが盛に活用せらるる限り、今日及び今後の戰にありては、戰は戰鬪員のみを對手とするものといふことは事實の到底肯定せざる所である。一九二三年の空戰法規案には、交戰者權と人道主義とを調和せしむるに於て苦心の跡が明かに認めらるるも、同案はその後條約としての效力を發するに至らず、假に條約となつたとした所で、人道主義に柳か偏重する同案の規定が實際に臨んて果して如何程までに遵守せらるべきや、何とも保し難いのである。
 第四には、將來の戰に於ては謂ゆる化學戰が重要なる、或は最重要の、役割を演ずべきは疑を容れない。
即ち各種毒瓦斯の利用である。而して毒瓦斯の浸滲する所は獨り敵の陣地のみならず、被害の範圍は附近の都市村落にも及び、一般常人もその犠牲となるを覺悟せねばならぬ。殊に上空よりの毒瓦斯散布は、空下の

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都市村落の全地域を擧げて荒壞に歸せしむるの目的を以て行はるべきであるから、化學戰の前には戰鬪員も非戰鬪者も區別の立てやうが無い。毒瓦斯の使用が絶對禁止とならば兎に角--そは到底期し難いことである--その然らざる限り、非戰鬪者の加害の絶對禁止もこれ亦出來な【ママ】相談である。而して第五には、現代の戰は最早や國君宰臣の道樂でなく、職業的軍人の擅斷でなく、一に國論に依りて遂行せられ、政府は國民を代表し、國民全體はその責に任ずべきものと推定せらるべきであるから、即ち國民全體は敵國民全體に對し交戰者である譯で、隨つて國民の一部たる非戰鬪者獨り被害の免除を要求するを得ずとの理論も立つ。
 以上の諸理由は戰の從前の觀念を一變せしめ、戰は文字通りの國家間、寧ろ交戰國兩國人間の戰たることを立證せしめる。即ち現代及び將來の戰は、軍に戰鬪員のみが之に當るのでは足らず、國民戰に應ずるには國民戰を以てせざる可らざる實際の必要に鑑み、交戰上必要なる範圍に於て敵國の個人にも均しくその敵性を認め、陸上及び海上に於て個人の或行動を禁止若くは強要し、將た加害を巳むなしとする。而して國際法は之を適法の措置として承認するに非ずんば事の實際に適さない。國際法も國際現象の實際的推移に伴ふてその原則に伸縮を加ふるは、猶ほ國内法律が社會の變遷に連れて隨時更正を見るのと理は異らざるに於て、之を以て交戰法則の退歩と見るは當らない。

人道上の要求は將來とても依然存す
 三四六 然しながらこの見解は、その故を以て無辜の老弱婦女は戰場の將兵と同樣に遠慮なく加害の對象として可なりとの結論を伴生するのではない。兩者の區別は淵源を人道主義に發したる人類自然の要求で、如何に現代の戰は事實に於て、敵性を擴大し、事實に於て敵國全體の破壞を交戰の目的と爲さしむるものなる

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にもせよ、將た如何に新武器が現はれ如何に戰闘方法が一變するに至ればとて、交戰者以外の純乎たる非戰鬪者に封し加害に容赦を須ひずとの論は立たない。事實苟も世に人道の存する限り、又人道を戰時國際法の一支柱と爲す限り、兩者の區別が今日全然消滅したと見るのは正鵠を失する。害敵手段は專ら敵の交戰者に封して之を行ひ、非戰鬪者に對しては能ふ限り之を避け、故意に之を行はず、行ふは特別の事情の下に於ける場合に限らる、といふことは依然現代の交戰法則の嚴粛に命ずる所で、これは既往と將來とに論なく、戰時國際法上の牢乎として動かすべからざる一大鐵則である。第一次大戰後の華盛頓會議に於て成立したる潜水艦及び毒瓦斯に關する五國條約及びその議事録に於ても、將た一九二三年の空戰法規案の上にも、非戰鬪者を保護するの精神は依然随所に謳はれてある。
 想ふに現代の作戰方術の下に於て、純乎たる非戰鬪者の保護に關し比較的可能性ある方案として考へ得べきは、追て述ぶる如く例へば第一には空爆に於ける軍事的目標主義を專一に勵行すること、第二には、軍事的目標を非戰鬪者の居住地域内に介在せしむるを原則として嚴禁し、その禁令を相當監督の下に勵行すること、第三には、敵の加害に因る災禍の下に飢餓を訴ふる非戰鬪者の給養方に就ては軍に於て(國家に於てといふも可い)戰鬪員同樣に措置すること、第四には、非戰鬪者の傷病の救護に關しても同樣の方針に出づべく、之がためには準赤十字的の施設を用意し、民間醫師を總動員して軍の指揮監督の下にその運用に當らしむべく平時より之が訓練に怠るなからしむること、尚ほ他にも妙案あらんが、これ等は少なくもその重なるものに屬せすやと信ずる。執れにしても戰鬪員と非戰闘者との區別は最早や無しと漫に論ずるだけで足らな

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い。無ければ無いで、非戰闘者の受けたる災禍を能ふ限り戰鬪者並みに軍の力で手當する。これが現代の戰鬪に件ふ當然の要求である。戰は先づ敵の資源を絶つに力を注ぐを要すとせば、敵の糧食の依つて生する本源の卒和的農夫を先づ鏖殺し、又將兵を産み出す所の婦女を悉く殺戮するのが捷径であり、又それを適法と云ふべきことにもなるが、如何に人道無視論者とても、勿論然りとは答へまい。現代及び將來の戰に於ては戰鬪員と非戰鬪者の相互の範疇は從前と異なりて前者に益々廣くなると共に、その區別を明確に立つるの從前に比し甚しく困難となるは論なきも、その困難なるの故を以て全然區別するに及ばずと爲すは論理の許さざる所で、或程度の分界の存在は依然之を認むべく、隨つて非戰鬪者に對する人道上の要求の將來とても能ふ限り尊重すべきは言を侯たない。

敵國元首は交戰者を以て遇すべきか
 三四七 凡そ交戰者(戰鬪員及び狭義の非戰鬪員)は、その將校たると下士卒たるとに論なく、加害の適法の目的者たること論を侯たない。直接戰場にて軍を指揮せざるも、作戰の要路に立つ敵國の軍人は、これ亦交戰當事者の廣義の兵力を構成する一員として 之を殺傷するも違法と云へまい(但し背信行爲に依る殺傷の第二十三條ロ號の禁止に屬することは追て述べる)。然らば敵國の元首はどうであるか。別言すれば、敵國の元首は目するに交戰者を以てし、隨つて加害の適法の目的者として之を殺傷し得るか。
 この問題に關しては、多くの國際法教科書には之に論及せるものあるを見ず、僅にオッペンハイム外一二の少しく之に觸るる位のものである。オッペンハイムの所説は、要するに元首及び皇王族も戰鬪員とならば殺傷の目的者と爲すを得るも、軍隊に屬せざる以上は殺傷の關する限り常人として取扱ひ、その生命を尊重

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すべく、ただ俘虜と爲すは妨げない、といふにある(Oppenheim,Ⅱ,s108,p.169;s 117,p.176)。想ふに元首とても交戰國を代表する交戰當事者たるに相違ない。隨つて敵國元首にして親しく戰場に臨み又は本營に在りて軍を指揮せば、普通の將官と同じく適法に殺傷の見的者とし、將た俘虜と爲すこと妨げあるまいが、さもない限りは、敵たりと雖も一國の元首たるに相當する尊敬を之に拂ふのが至當であらう。戰陣の間にも禮ありで、武士はその禮を守ることにしたい。況してそれが交戰慣例なりとせば尚ほさらである。
         第二款 正規兵及び不正規兵

          第一項 その資格の異同

交戰者の資格
 三四八 交戰上に於て一定の資格を有するもの、即ち正當の戰闘者としての權利を有し、その待遇を敵より受くるを得る所のものとしては、往昔にありては、苟も武器を操りて敵に對抗することを國君より許されたる者は皆交戰者であつた。歐洲君主國の古い宣戰の布告文を見ると、己れの総ての臣民に許すに武器を手にして敵を撃攘すべきことを以てす、といふやうたことを書いたのが往々ある。斯く國君に於て戰時その國民の何人にも交戰者たるの資格を與へ、敵も之を交戰者として取扱へる風習は十八世紀の後半まで往々ありたるが、作戰の組織化すると共に戰鬪には專門の人々をして之に當てるらしむること時代の要求となり、漸次

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交戰者を一定の資格に制限するやうになつた。勿論その間に於ても、如何なる資格者を以て交戰者と爲すかに就てに議論慣例共に區々で、徴兵制を有する國は自然之を正規の兵種に限らしめんとする傾向であつた。
然るに斯く適法の交戰者を制限することは、平時徴兵制に依る強大の陸軍を有する國に利益が偏重する嫌ありとて、他の歐洲諸國は之に賛しない。されば同役後三年にして開かれたるブルッセル會議に於ては、交戰者は獨り正規兵に限らず、特定の條件を具備する民兵及び義勇兵、竝に謂ゆる民衆軍をも亦交戰者と認めるといふことにした(第九條)。その規定を第一囘海牙平和會議に於ては踏襲し、更に第二囘同會議に於て些少の修正(民衆軍に『公然兵器ヲ携帯シ』の條件を附加)が加はり、現行陸戰法規慣例規則の左記第一條の規定となつたのである。
 第一條 戰爭ノ法規及權利義務ハ單ニ之ヲ軍ニ遍用スルノミナラズ、左ノ條件ヲ具備スル民兵及義勇兵團  ニモ亦之ヲ適用ス。
   一。部下ノ爲ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト。
   二。 遠方ヨリ認識シ得ベキ固着ノ特殊徽章ヲ有スルコト。
   三。公然兵器ヲ携帶スルコト。
   四。其ノ動作ニ付戰爭ノ法規慣例ヲ遵守スルコト。
  民兵又ハ義勇兵團ヲ以テ軍ノ全部又ハ一部ヲ組織スル國ニ在リテハ之ヲ軍ノ名稱中ニ包含ス。

特定の民兵及び義勇兵も交戰者
 三四九 戰事の法規及び權利義務の何たるかは別に説く如くであるが、その之を適用する軍(armies)と

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は、交戰上の訓練且装備を有する正規の團隊及びその構成分子を総稱するもので、簡單に云へば正規兵である。正規兵に戰爭の法規及び權利義務を適用するの理は説明を要しないが、特定條件を具備する民兵及び義勇兵團にも之を適用すること、別言すれば特定の民兵及び義勇兵團を正規兵と同樣に取扱ふことに就ては多少の解説を要する。

 民兵(Militia)とは平時特定の軍事訓練を受くるも常備の軍隊を編成せず、ただ戰時とならば召集を受け、兵役に服して交戰に從事するといふ不正規兵である。又義勇兵團(Volunteer corps)とは、戰時有志者の志願して交戰に從事する不正規兵の集團で、その民兵と異なる要鮎は強制召集に非ざることにある。國家の兵制を當備の正規兵に採るべきか將た民兵制又は義勇兵制に依らしむべきかは、各その國内法の定むる所に屬し、國際法の干與する所でなく、國際法は軍にそれ等兵種の交戰者としての交戰法規上の特定資格の具備如何を問ふに止まる。

その資格を認める四條件
 三五〇 民兵及び義勇兵團の戰爭法規及び權利義務の適用を受くるに必要なる第一條所規の四條件の第一は『部下ノ爲ニ頁任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト』である。こは民兵又は義勇兵の動作をして亂雜ならしめず且能く交戰法規を遵守せしむるには、之を統卒すべき責任者その頭に在るを必要とするからである。ブルッセル會議の露國原案には、該責任者は本國の本營よりの指揮命令の下に立つものたるを要すとの條件もあつたが、これは不採用となつた。故に指揮命令の系統關係は必しも問はざるものと解せられてある。ウェストレークは『此に謂ふ責任とは單に有效的取締を行ふの能力(a capacity of exercising effective control)

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を意味するのみ。』と説く(Westlake, Ⅱ,p.65)。 第二は『遠方ヨリ認識シ得ベキ固着ノ特殊徽章ヲ有スルコト』である。遠方とは要するに敵に向つて加害行爲を爲し得る距離を意味し、即ち大體の標準を小銃の彈丸の大凡有效的に到達すべき距離と解するのが立法當時の定説であつた。けれども輓近銃器の偉大なる進歩に伴ひ射程は著しく増大し、到底肉眼にて見究めのつかぬ遠距離に達するから、射程を以て特殊徽章を認識し得べき遠方と解することは常識の許さざる所である。固着の徽章は一定の制服に於て最も善く表示せらるるが、必しも制服に限らるるのではなく、要は身體又は衣服に固着する徽章ならば可なりで、直ぐ取外れるやうなものでなければ可いのである。且その徽章は當に表面に露出せしめ置くことが必要で、ポケットその他に隠蔽し置くのでは『認識シ得ベキ』にならない。特殊徽章は豫め之を各國に通知し置くべしと第二囘海牙平和會議に於て獨逸代表は提議したが、これは否決となつた。故に特殊徽章はその時々之を定めても可い譯で、つまり常人の尋常の帽その他と殊別せらるる徽章たるを要するのである。
 第三の條件は『公然兵器ヲ携帯スルコト』である。この一句は一八九九年の舊陸戰法規慣例規則には無かつたが、一九〇七年の第二囘海牙平和會議に於て獨逸代表の提議に依り、更正の同規則に於て挿加せられたものである。即ち兵器たることを外部より明知し得べき種類のそれをば隱蔽することなく携帶するを要する。ピストルや短刀を懐中に忍ばせ、本式の刀劍に代ゆるに仕込杖を以てし、又は敵の近寄るに及んでその兵器を隱蔽するが如きは右の條件に副はない。

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 第四は『其ノ動作ニ付戰争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト』である。例へば以下追々述ぶる所の陸戰法規慣例規則第二十三條各號列擧の諸事項、その他掠奪を行ふが如き、俘虜を虐待する如き、諸般の禁止規定に違反するなきの要求である。この要求は民兵又は義勇兵の集團の全體に封するもので、その中の個々の兵が多少法規慣例に違反する行爲ありたればとて、それにて該集團の交戰者たるの特權が失はるるといふ譯ではない(Westlake, Ⅱ,p.65 参照)。

 以上述べたる交戰者の諸條件は、陸戰にありて專ら平面戰の交戰者に係るもので、立體戰即ち空戰の交戰者にはその儘適用せんとしても得ない。航空機、航空船等を操縦し又は之に搭乗する交戰者のことは、海牙平和會議の當年にありては全然豫想しなかつた所で、隨つて陸戰法規慣例規則に謂ふ所の交戰者の條件とは離れ、別に空戰法規の規定する所に譲らねばならぬこと論を俟たぬのである。

陸上の軍事行動に從亊する海軍兵
 三五一 海軍兵にして陸上の軍事行動に從事する者も、これ亦陸上に於ける正規兵たること論を侯たない。陸上を攻撃する艦隊は、その攻撃に依りて敵の軍事施設を破壞したる上、或は陸戰隊を上陸せしめて一時若干の地點を占領せしむることもあらう。元來敵地の占領は專ら陸兵の任務で、海軍(及び空軍)の任務ではない。追て述ぶるが如く、陸戰に於ける砲撃は、その終局の目的とする所は單に敵の軍事施設を破壞するのみには在らずして、先づ破壞して而して後に之ま占領するに在る。陸軍の行ふ砲撃は占領の目的を達威するに就ての一手段に過ぎない。然るに海軍力(及び空軍力)に依る砲爆撃は、主として軍事的目標の破壞そのものが目的である。即ち或目的物を破壞し了ればそれにて使命は達威せられたので、要は之を破壞して陸戰

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の便を計るといふに止まる。故を以て海軍力に依る砲撃は、その目的物を破壞すれば足り、破壞と共に陸戰隊を上陸せしむることは、必ずしも常に見る所とは限らず、且必須的の順序となつてある譯ではない。
 けれども攻撃地の清況その他作戰上の必要に鑑み、艦隊は砲爆撃を行へる後陸戰隊を上陸せしめ、之をして暫行的に特定任務に就かしむることは往々ある。將た戰時事變の最初期に於て陸戰隊が對手國の沿岸に上陸し、臨時に陸上の警備その他の軍事行動に從事することも屡次見る所の例である。海軍兵が陸上に於て斯かる軍事行動に從事する場合には、戰闘に關しては陸戰法規慣例の條約及び規則、傷病兵の救譲に關しては陸上赤十字條約の當該規定に遵由すべきで、帝國海戰法規にも第十七條に『陸上ニ於テ軍事行爲ヲ爲ス場合ニ於テハ明治四十五年條約第四號陸戰ノ法規慣例二關スル條約及同條約附屬書、竝明治四十一年條約第一號戰地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ開スル條約ノ規定ニ依ルベシ。』と規定してある0陸職法規慣例條約の附屬書たる同規則は、既に述べたが如く軍に各締約國に於て編成すべき典型的の訓令案を示したものに止まり、該附屬書それ自身に法的拘束力のあるのではないが、しかも帝國海戰法規が陸戰隊の陸上軍事行動をその規定に依るべしと明規したことは、亦以て帝國海軍の國際法規慣例の遵由に忠實なることを證する一端と見るべきである。

野蠻兵にて編制する軍隊の使用
 三五二 交戰國はその領有する未開半開の屬領地の土民にて編成する言はば野蠻兵を文明國對手の戰鬪に使用するに妨げなきや。これは近代の累次の戰に於て、交戰國の一方又は双方の使用せる訓練なき土民兵がその手に落ちたる白人の敵に封し無益の殺戮を行ひ、過度の蠻行を演じ、時に見るに忍びざる惨酷のことな

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どある毎に、幾たびか起つた問題である。
 例へば一八五九年の佛墺及び一八七〇年の普佛の兩戰役に於て佛軍の使用したるTurcosと稱するアルゼリーの土民兵の如き、又一八七七年の霧軍側に屬せる哥薩克及び勃牙利土民兵、及び土軍側の使用したる土民のCircassians兵及びBashi-Bazouks兵の如き、孰れも恕すべからざる蠻行を演じて憚らざりしとの非難を受けた。普佛の役にビスマルクが在伯林各國代表者に向つて發したる通牒(一八七一年一月九日付)には、『ツルコス兵及びアラビア兵の中には死傷者の頸を刎ね鼻耳を切取るが如き惨行を敢てし、將た獸姦をだに行へる者あり。その責任は彼等自身よりも、その文明程度や慣習を充分承知しながら之を歐洲の戰場に齎し來れる佛國政府の上に重しとす。』と記せりとある(Garner,Int.Law&theW.W.,I,p.295)。當年の普佛戰役に於ける佛軍の土民兵の行動には、かなり議すべきものがあつたやうである。然しながらトライチケの如きは野蠻兵の使用を肯認し、『凡そ交戰國に向つて、それが野蠻兵であらうと文明兵であらうと、その凡ゆる軍隊を戰場に使用するの權を非認するは到底不可能である。我が獨逸は普佛の役に佛國がツルコス兵を文明國民に向つて使用したことに封して痛く抗議したが、これは當時我が國民の激情の然らしめた所で、冷静に考ふるに於ては、佛國の爲せる所に何等非違あるを見出し得ない。凡そ交戰國はその有する一切の有形的資源を戰闘に傾倒し得るし、又せざる可らざること確たる原則である。』と、論ずる(Treitschke,Politics,Du;dales Eng.trans,Ⅱ,p.609-610)。言辭聊か激調の嫌はあるも、帝政時代の獨逸の觀念から割出せる意見を率直に云はしむれば、まさに斯く論斷すべきことにならう。

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 第一次大戰に於て獨逸政府は、英佛兩國が印度及び阿弗利加の有色兵を歐洲の戰場に繰出し、その獰悪なる害敵手段を文明國の軍隊に向つて行はしめ、仆れたる敵兵の四肢を斷ち鼻耳を切り、眼球を抉取り、將た戰利品として頸を刎ねて持去るが如き蠻行を憚からず演ぜしめたが、こは原代の交戰法則に悖り、文明及び人道を無視するの甚しきもので、まさしく國際法違反なりと爲し、一九二五年七月、特に之に抗議する陳述書を公にし、英佛諸國は人道及び文明のために向後斷じて有色兵を歐洲の戰場に使用する勿れと最も強硬に要求する所あつた。前掲のトライチケをして假にその際にあらしめたならば(彼は一八九六年、齢六十二で他界した)、彼は何の辮を以て自國の右要求を支持したであらうか。
 佛國には今日でも植民地、屬領地等の徴募兵にて編成する“Legion Etramgere”と稱する特別部隊がある。この部隊は原則として專ら植民地の戰鬪に使用するものなるも、時には第一次大戰に於ける如く、歐洲の戰場にも繰出すことがある。この部隊は、敵として砲火を向くべき對手が己れの同胞であつて、之に敵抗するのが嫌だといふ場合には、政府はその、敵抗を強制するを得ざるものとしてある由である。

その當否
 三五三 想ふに交戰國がその正規兵中に有色兵を繰入れて戰場に使用することは、陸戰法規慣例規則の上には何等禁ずる所ではないが、民兵及び義勇兵を交戰者として認むる條件の一たる『其ノ動作ニ付戰事ノ法規慣例ヲ遵守スルコト』は、獨り民兵及び義勇兵のみに限つたことではなく、正規兵に就ても亦當然要求せらるべきものたること論を俟たない。未開半開の屬領地の土民兵にしてその動作の上に交戰法則を遵守するの能力なきものたるに於ては、之を正規兵として使用する能はざること敢て本規則の條文を特に俟つまでもな

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く、文明國間のの交戰條理に於て當然のことに屬する。反對に、土民兵とても責任ある指揮官の下に立ち、且能く交戰法則を遵守するものたるに於ては、特に有色人たるの故を以て之を排斥せねばならぬ理由はあるまい。問題はその訓練如何にありて、色の黒白にはない。第一次大戰に於ても、佛獨兩國は共に阿弗利加兵を、英國は印度兵を、米國も黒人聯隊を、孰れも戰線に立たせた。獨軍の使用せる東阿弗利加土民兵には兇暴の動作ありしとて非難を受けたが(Garner, Int. Law&the W,W., Ⅰ,s 194, p.297)、兇暴の動作の戒むべきは獨り土民兵に限らず、總ての兵を通じてのことであり、畢寛は之を指揮する將校の責任に屬する。

遊撃隊
 三五四 交戰軍は攻城野戰の用兵以外に特殊の隊伍を以て敵の背後に出沒せしめ、多くは夜間を利用して或は鐵道道路橋梁等の交通線の破壞、或は敵の占領地の小部隊に對する襲撃、その他諸般の奇襲的行動に當らしむることは往々ある。之を遊撃隊(Gnerilla)と稱する。ハレックは遊撃隊を『自ら編成し、自ら統御し、國家の直接の區處の下に立つに非ずして公敵に向つて對抗する所の徒團なり。彼等は徴募も任命も受けず、將た國家の軍隊の構威分子に編入せられたるに非ず。隨つてその行動に就て國家は單に間接的にその責任を負ふに止まる。』と定義する(Hallec,Ⅰ,p.559)。大體さういふ性質のものである。遊撃隊は決死して敵と鬪ふよりも、迅速に行動して迅速に遁走し、努めて敵に捕獲せられざるを本務とするもので、殊に敵の占領地が廣域に亙り、しかも占領地守備兵の各所に分散して比較的稀薄となり、別して交通線守備の疎なる方面にありては、相應に效果を擧げ得る所から、敵の後方攪亂のために之を利用することは古來珍しからぬ所で、近代の戰に於ても南北戰、普佛戰、米西戰、南阿戰の各役、孰れも相當の程度に遊撃隊の出沒を見ざ

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るはなかつた。最近の支那事變に於ても、支那は盛に之を使用しつつある。

適法の交戰者たるや否や
 三五五 遊撃隊は之を適法の交戰者と認むるを得るや。ハレックの所説に『遊撃隊にして國家に依り任用せらるるに於ては、彼等は自ら統御するのでなく國家の指揮命令の下に交戰に從事する者で、隨つて最早や本來の字義に於ける遊撃隊ではない。然るに本國政府の任命又は允許なしに行ふ個々又は徒團の敵對行爲にありては、それは適法の交戰行爲でないから、犯行の性質を按じて處罰し得べきである。斯かる徒輩にして敵の財産に加害すれば盗賊であり、人命に加害すれば交戰行爲に非ざる殺人である。該犯行者は交戰法則の下に辯護を爲し得る適法武装の敵でない。故に之を捕へたる場合には俘虜として取扱はず、その犯行に應じ盗賊、殺人者、匪賊に擬して處罰するを妨げず。』 (Ilid.,p.560)とある所、大體は爾く論じ得べきであるが、要するに遊撃隊を適法の交戰者と認むるを得るや否やの問題に對しては、彼等は或場合には適法の交戰者たることもあり、たらざることもありて、要はその系統、その行動の方法、場所、及び時期の如何に依り肯否孰れにも答へ得べきである。遊撃隊にして正規軍の一部として又は特定の法的條件を具備したる民兵又は義勇兵として行動し、將た或は次項に述ぶるが如き適法の民衆軍たるの資格に於て行動する限りは、そは明かに適法の交戰者と謂ひ得られる。然るに遊撃隊にして國家の主權者の軍系に屬せず、さりとて民間有志者として武器を手にするにしても、その行動は交戰の法規慣例に遵由せず、行動の場所も敵國の未占領地に非ずして既占領地であるが如きに於ては、之に交戰者たるの資格を認むるを得ざるものである。
 殊に問題は時期である。解り易く實例に就て云へば、支那事變に於ける支那國民政府(蒋政權)の遊撃隊に

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して同政府の直接間接の指揮の下に行動するものたるに於ては、他の條件に缺くる所なき限り適法の交戰者である。然しながら直接間接に指揮を爲す所の國民政府にして全然土崩瓦解したる後、即ち蒋に依り代表せられたる支那の正當政府-よしんば僅に形式的なるにもせよ-が消滅して了つた後に於て、尚ほ且遊撃隊として行動するに於ては、既に正常の戰が終了した後のことであるから、彼等は最早や匪賊と擇ばざるもので、之に交戰者たるの資格を認めんとするも得ない。(尤も正當政府に顛覆しても之を繼承する所の交戰國政府が新に出來たこと例へば普佛の役にナポレオン三世帝の政府は顛覆しても之に代りて國防政府が現はれて引縛き交戰に當るが如き場合は別である)。昔は南北戰役の末期に於て南軍の領將相次で降り、その軍勢の崩潰せる後敗殘の將士中には遊撃戰術にて依然抵抗を繼績せんと試むる者もあつたが、北軍では斯かる遊撃隊に交戰者たるの資絡を認むるを拒んだとある(Spaigh,Land War,P.61)。そは當然のことなりしと謂ふべく、要するに遊撃隊を適法の交戰者として取扱ふのは、それが主のある遊撃隊たる間のことで、主家亡びて浪人となれる遊撃隊は最早や目するに適法の交戰者を以てするを得ず、一の匪賊團を以て取扱ふに妨げなきものである。

          第二項 民 衆 軍

民衆軍の語
 三五六 特定條件の下に交戰者の資格を認むるものには、民兵及び義勇兵團の外に謂ゆる民衆軍(Leveeen masse)なるものがある。卸ち陸戰法規慣例規則の第二條に『占領セラレザル地方ノ、人民ニシテ敵ノ接近

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スルニ當り第一條ニ依リテ編成ヲ爲スノ遑ナク、侵入軍隊ニ抗敵スル爲自ラ兵器ヲ操ル者ガ公然兵器ヲ携帯シ且戰爭ノ法規慣例ヲ遵守スルトキハ之ヲ交戰者ト認ム。』とあるのがそれである。Levee en masseの歐語は、先師有賀博士は陸軍大學校にて日清戰役前に國際法を講ぜられし頃には『土民防闘』の譯語を用ひ、日露戰役の直前には『群民起闘』と改められた。立博士の大正二年初版(大正九年再版)の『戰時國際法』には『群民敵對』、昭和六年の『戰時國際法論』には『群民蜂起(或は地方防禦兵又は擧國兵の名構を與ふることがある)』とある。稿者は『民衆軍』が然るベしと見、この語を慣用する。

ブルッセル會議に於ける民衆軍問題
 三五七 民衆軍は古來何れの戰にありても、多くはゲリラの名に於て、大小の程度に之を見ざるはないが(ゲリラも統制あり且公然の動作を取らば民衆軍となり、否らざれば次に述ぶる便衣隊となる)、最も大規模に之を使用したのは普佛戰役に於ける佛國側であつた。されば同戰役終つてから三年のブルッセル會議に於ては、民衆軍の地位如何は自然重要なる一問題となつた。元來民衆軍に關しては、徴兵制を有する大陸軍國は交戰者を正規兵に限らしめ、敵國の民衆軍を交戰者と認めざらんと欲するが、之に反し徴兵制を有せざる國は民衆軍に依りて國土を防護せんと欲する所から、自然その利害を相異にする。この利害の相異は、一方には主として獨露、他方は英、西、白、蘭、瑞西等の對立に於て現はれた。その討議の経過は煩を避けて今略し、その際佛國代表は別に『敵軍の侵入掠奪に對し各人その家を防護するは當然の權利で、之を非交戰者として遇するは當らず。』と論じ、『自國の防護のために武器を執り、交戰の法規慣例を遵守して行動するものは之を交戰者と認め、捕へたる場合には俘虜として取扱ふべし。』との案を提出したが、妥協を得ず、結局民

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衆軍に關しては、同會議の宣言第十條として『未だ占領せられざる地方の住民にして敵の來襲に際し第九條[これは海牙陸戰法規慣例規則第一條の「部下ノ爲ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト」の一節を除く外大體同條と同一である]に依り軍の編成を爲すに遑なく、自然に兵器を取りて侵入軍に抗敵する者にして交戰の法規慣例を遵守するに於ては之を交戰者と看做すべし。』の案文が採擇せられた。それにしても、之を獨り未占領地に限らしめ、一たび占領地となつた以上は民衆軍を目するに交戰上の無資格者を以てするの規定は、強大國の不當の侵入を誘ふに利あらしむるものなりとの感が小國側に強く存した。ブルッセル宣言案の遂に高閣に束ねられたのは、一はこの理由にあつたのである。

第一囘海牙會議に於ける妥結
 三五八 然しながら第一囘海牙平和會議に於ては、右のブルッセル宣言案第十條に多少の修正を加へたる上之を再採した。尤も同會議に於ては、ブルッセル會議に於て小國側の提起したる上述の反對論が再び繰返へされたので、之を調和せんがため本規則第一條に於て大陸軍國側の思想を代表せしめ、第二條に於て小陸軍國側の希望を容れ、兩條併立に依りて双方の思潮を妥協せしめたる外、別に露國の專門委員マルテンス博士の發議にて、本規則の親元たる陸戰法規慣例條約の前文中に『締盟國は一層完備したる戰鬪法典の編纂に至る迄は、其の採用したる條規に漏れたる場合に於ては、人民及交戰者が從來文明國民の間に存立する慣習、人情の原理、竝に公共良心の要求より生する國際法の原則に依り保護せられ且之に服從すべきものと宣言するを以て適當と認む。締盟國は其の採用したる規則中殊に第一條及第二條は右の趣旨を以て解すべきものなること宣言す。』の字句を挿入することにし、之に依りて反對論者を慰撫したといふ始末である。然しなが

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ら、これは『其の採用したる條規に漏れたる場合』に係るもので、隨つて右の調和的の字句あるにしても、以て民衆軍に關する既定の條文を左右するの效力なきは論を俟たない。

民衆軍に要する條件
 三五九 民衆軍には民兵又は義勇兵團の交戰者として認めらるるに必要なる四條件中の(一)部下のために責任を負ふ者がその頭に在ること、及び(二)遠方より認識し得べき固着の特殊徽章を有することの條件は之を要せず、ただ(三)の公然兵器を攜帶すること、及び(四)の交戰法規慣例を遵守することの二條件さへ具備すれば、以て之に交戰者たるの資格を認むるのである。蓋し敵兵が眼前に近寄る場合に於て、その土地の民衆が自發的に兵器を執りて防戰するのは、畢竟自國のため將た自郷のための人情自然の發露であるから、民兵及び義勇兵團に必要なる第一及び第二の條件を併せて具備せざるの故を以て、交戰者として遇せずして之を戰律犯に問ふのは、人惰に戻るや大なりといふ思想に出でたものである。第一次大戰の初め、獨軍の白耳義に侵入するや、獨逸司令官は『住民[未だ獨軍の占領權力の下に置れざる地方の住民をも含むものと解せられた]の無節制の激情に對し獨逸軍隊を保護するため、凡そ識認し得べき或徽章固着の制服を着せすして戰闘に参加し叉は獨逸の通信線に妨害を與ふる者は之を自由組撃隊として取扱ひ、即坐に銃殺すべし。』と布告して民衆軍の蜂起を戒めた。この布告は、未占領地にありては右の(三)及び(四)の條件を具備する限り適法の交戰者と認むべき民衆軍をも非認したもので、即ち海牙規則に悖戻する違法の布告たるを免れなかつた。けれども白耳義官憲は、強て逆らへば獨軍より報復を受け、捕へらるれば戰律犯に問はるべきを慮り、乃ち獨軍の未占領地に於ける適法の民衆軍の編成を許さざることにし、既に編成したるものは之を解隊せし

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めたとある。
 尚ほ第二條にある『自ら』(spentanement;spontaneously)は自發的で、即ち敢て特に政府の命令あるを挨たずの義である。又『占領セラレザル地方』の『地方』は原語territoire(territory)で、Iccaliteではない。即ち或都市とか村落とかを別箇に見ず、都市村落等を包括的に見たる當該地方である。若し都、市、村落等を別箇的に見ると、その各場所は各その敵の接近するまで兵器を採つて起つこと能はざることになるが、本條に於て特にlocaliteの文字を用ひないで territoireとしたのは、要するに或都邑に敵が接近し來つたならば、同じ地方に屬する附近の市なり村落なりの人民が民衆軍を組織し、而してそれが公然兵器を携帯し且交職法規慣例を遵守するに於ては、通じて之を交戰者と看做すの意である。『公然兵器ヲ携帯シ』の『公然』は、ブルッセル宣言案(第十條)にも第一囘海牙平和會議議定の舊陸戰法規慣例規則にも無かつた語であるが、ピストルや仕込杖の携帯位では以てその資格を認め難しとの意を明かにするため、第二囘の同會議に於て獨逸代表の主張に由り新にこの語を加へたのである。

未占領地人民の單獨抵抗
 三六〇 然しながら當年のブルッセル會議に於ても、將たその後の二囘の海牙平和會議に於ても、尚ほ取殘されたる二つの重要なる未決問題がある。 一は未占領地の人民にして單獨に侵入軍隊に抗敵するものの地位如何で、他の一は既占領地の民衆が干戈を手にし、起つて占領軍に敵抗する塲合でである。海牙平和會議の第二から云へば。        、
 陸戰法規慣例規則(現)第二條にある『人民』は、原佛文にては"La population"で、英譯文にては"The

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inhabitants"であり、孰れにしても普通に"levee en masse"と稱せらるるが如く、抗敵者の複數の民衆たるを意味すること言を侯たない。故に規定の條件を具備する隊伍を成す相當數の民衆軍に就ては第二條の規定する所に依りて論なしとし、然らば隊伍を成さざる個人が個々に兵器を手にして侵入軍隊に抗敵する場合は如何といふに、これには交戰者たるの資格を認めずといふのが定解のやうである。獨逸の『陸戰慣例』には『軍事的見地よりすれば、民衆軍にして組織的隊伍を成すものたる限り、政府の編成に係るを要すとの資格要件は之を捨つるに格別異議ありとは云はざるも、抗敵者が個々の人々たる場合にありては、之を匪賊とせずして適法の交戰者として取扱はんとするには、彼等が一の組織的團體に屬することの立證あるを要すべく、この要件を抛棄するは不可能なり。』とある(Morgan's Eng.trans.,p.60)。南阿の役にも、ボア側には組織的隊伍を成さざる個人の抗敵者が相應に活躍した。而して英軍にては、これ等の輩を捕へると俘虜としないで"Marauder"として死刑に處した。"Marauding"とは、當年の英軍の軍律に於て『公認の政府に依りて認められたる組織的團體に屬するに非ざる人々に依りて行はるる敵對行爲を云ふ。』"Maraudingconsists of acts of hostility committed by persons not belonging to an orgaised body authorisedby arecognised Goverment.")と定義してある。中には英軍に於て懲戒的に犯人の家宅田畑を破壞したなどもあつた。要するに個々の抗敵者にして適法の民衆軍に隷屬することの立證なき場合に於ては、之を捕へたる敵軍より適法の交戰者たる資格を認められず、戰律犯を以て問はるるも己むを得まい。故にこの問題は未決とは云ひながら、實際問題に當らば大體一定の見解の下に裁断せらるべしと思ふ。

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既占領地に於ける民衆軍
 三六一 第二は既占領地に於ける民衆軍の蜂起である。
 民衆軍は未占領地に於てもそうであらうが、殊に既占領地に於ては、起つて占領軍を撃攘し得れば謂ゆる勝てば官軍で、敵軍の占領も自然終焉となる譯であるが、負くれば占領軍に於て容赦する筈なく、目するに適法の交戰者を以てせずして、之を戰律犯に問ふは必然なるべく、又それが當然でもあらう。第一囘海牙平和會議に於て交戰者の資格問題の討議の際、英國專門委員(Gen.Ardagh)は第一條及び第二條の補足として『本章中の何等規定と雛も、之を以て被侵入國の人民が侵入者に對し一切の適法手段に依りて最有力なる愛國的抵抗を爲すの義務を蓋すの權利を制限せられ又は廃棄せられたるものと看做すことを得す。』の一條項を加へんと提議したるに、獨逸專門委員(Col.de Gross de Schwarzhoff)は『防衛上の絶對自由性を宣言する本案の如きに向つては予は一歩も譲歩するを欲せず。』と強硬に反對したので、英國側にては、前に記したる陸戰法規慣例條約の前文中に於ける宣言、即ち本協定洩れの事項は國際法の原則に依りて保護せらるべきこと、竝に第一條及び第二條は殊に右の趣旨にて解釋すべきことの聲明ある以上は、自分の趣旨は或程度に達成せらるべしと云ひ、右の提案を撤囘した。随つて既占領地に於ける民衆軍の資格に關しては、陸戰法規慣例規則の條文と離れ、別に國際法の一般原則に照して是非を批制すべきこととなつたのである。けれども、然らば國際法の原則に照しその當否如何といふことになると、現に第一囘海牙會議の討議に於て英獨の見解に逕庭ありしこと右の如くでありしに顧み、一定の原則を立つることは依然困難であらう。(この問題は一九一一年の伊土戰役の際、伊軍に反抗せるトリポリ民衆軍に封し伊軍の執りたる手嚴しき彈壓振りに就

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ても當否の論が起つた-Ga ner,Rec. Devcl.mInt. Law, p.269以下参照)。然しながら占領軍は、自軍の安全と管下地方の安寧を保持するに必要なる措置を執るの權能を有するし。又占領地住民は占領軍の節度に服從すべき義務あるものであるから、占領地内に於ける敵對行爲者には交戰者たるの特權を認むべき理由は無く、随つて斯かる輩は不逞の徒として之を戰律犯に問ふに妨げなかるべきに鑑み、既占領地に於ては民衆軍なるものを認めざるのが合理的であらう。
 斯の如く民衆軍は既に敵軍の占領地となれる所に於ては適法の交戰者と認められざるのみならず、條文に『敵ノ接近スルニ當リ』とある所から推し、未だ完全に占領地となるに至らずして單に敵軍の侵入地たる所にありても、民衆軍は認めちれず、その認めらるるのは敵軍の接近するといふ程度の所に於てのみに限らるるのである。随つて占領地に於ては勿論、敵軍の既に侵入したる所に於ては、彼等の敵對行動は當然戰律犯に問はれ、敵手に落つれば俘虜とせられずして直ちに殺害せらるべきものとなる。

         第三項 私服狙撃者(便衣隊)

常人は敵對行為を行う權利を有せず
 三六二 交戰に從事するを得るものは交戰者たるの資格ある者、即ち前述の正規兵、及び特定條件を具備する民兵、義勇兵團、竝に民衆軍に限らるるのであるから、その資格を有せざる常人は敵兵殺傷その他敵對行爲を行ふの權なく、その權なくして之を行へば、敵軍に捕へられた場合には俘虜として取扱はれず、戰律犯として重刑に處せらるべく、自國法廷の審理の下に立つ場合には當該法律に依り慮断せられる。米國の一

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八六三年の陸戰訓令には、第八十二條に『職權を有するに非ず、組織ある敵軍の一部を成すに非ず、又繼續的に從事するに非ずして間隔的に自家に戻り家業に從事し、兵たるの性質又は外形を脱して平和的業務者の態樣を時に装ふが如き、凡そ斯かる人又は隊伍にして、その戰闘たると破壊又は掠奪のためにする侵害たると、その他何等種類の寇擾たるとを問はず、敵對行爲に出つる者は公敵と認めず、随つで之を捕へたるときは俘虜の特權を享有せしめずして、一括的に山賊又は海賊を以て之に擬すべし。』とあるが、他の諸國の國内法規にも同樣の規定を有するものが二三ある。

便衣隊とは何ぞ
 三六三 交戰者たるの資格を認められざる常人にして自發的に、又は他の示唆を受け、敵兵殺害又は敵物破壊の任に當る者を近時多くは便衣隊と稱する。彼等は専ら私服を着し(便衣は制服に對する私服を意味する)、兇器は深く之をポケット内に藏し、一見無害の常人を装ふて出沒し、機を狙つて主として敵兵を狙撃するもので、その行動には多くは隊伍を組まず、概ね個々に潜行的に蠢動するものであるから、隊の字聊か妥當を缺くの嫌あり、私服狙撃者と稱するを當れりとすべきが、便衣隊の語は簡であり、且昭和七年の上海事攣當時より邦人の耳に慣れても居るし、且彼等の仲間には自ら一系脈の連絡ありて、自ら一種の隊伍を組めるものと見れば見られぬでもない。故にこの點からして、便衣隊と稱すること必しも不當ではあるまい。
以下便且この語を襲用する。

普佛戰役に於ける便衣隊
 三六四 便衣隊の活躍は、近代にありては普佛、南阿、米西の各戰役、執れもその例があつた。殊に之を最も盛に活躍せしめたのは普佛戰役に於ける佛軍であつた。その便衣隊は前線にも多少は出沒したが、主た

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る活動は獨軍占領地にありて電線鐵道等を破壊し、守備兵を狙撃し、兵站連絡を妨ぐる等、專ら後方攪亂にあつた。獨軍の占領地域といへば、普佛兩軍の間に休戰の成れる頃には、佛國領土の約三分の二に亙り、そこに屯せる獨軍は歩兵約四十六萬五干、騎兵約五萬六千を算したるも、多くは前線に在りて、その中の歩兵約十萬、騎兵約五千七百が專ら占領地守備兵として兵站線その他後方の警備に當つたものである。佛國領土の三分の一といへば約十八萬四干平方粁となるが、この廣域に對し歩騎兵合して約十五萬では、一平方粁を守備するに平均一名弱の割合であるから、便衣隊が後方を攪亂するは格別六ケしくなかつたであらう。故に便衣隊に依る獨逸占領軍の被害の相當に大なりしは想像すべく、ただ占領軍は之に臨むに最重刑を以てし、殊に犯人を出したる都市村落には連坐的に苛重の罰金を課し、又は之を燒拂ひ、住民には一切武器の所有を禁じ、武器を手にする常人を見れば直ちに容赦なく銃殺する高壓手設に出でたので、都邑自身も管内より便衣隊を出しては大損といふことに氣付き、自然進んで之を抑止するやうになり、是と共に便衣隊の出沒も漸次衰ふるに至つた。

日露戰役に於ける同上
 三六五 日露戰役に於ても、その末期に皇軍が薩哈嗹を占領したる折、ウラヂミロフカ邑には制服を纏はず、指揮者もなく、普通の村民と識別し難き輩が村民の間に伍し、或は獵銃やピストルにて我兵を狙撃し、或は鎗や斧を手にして山野に待伏せするなど、まさに露國式の應揚な便衣隊があつた。我軍の之を捕へたるもの百六十を算し、中にありて情状の重きもの約百二十名は、交戰法則の許さざる、即ち交戰者たるの資格なきに敢て交戰行動を執りて我軍に敵抗てたとの理由の下に、軍事法廷に於て之を銃殺の刑に處した。

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しかも日露戰役の初期に於て露軍に捕へられて壮烈な最後を遂げたる我が横川、沖の兩志士も、その性質に於ては、やはり便衣隊であつたのである。勿論兩志士の行動は憂國の至情赤誠に出でたる眞に敬服すべきもので、專ら金錢で働く日傭の支那式便衣隊とは發端に於て雲泥の差あること論を俟たぬが、法的性質に於ては均しくこれ便衣隊たるを失はない。露軍の兩志士を銃殺に處したのは闇諜と認めたが故と記せる文書もあるが、これは誤つた見方である。當時露軍にして果して爾く判斷したものとせば、そは誤斷である。間謀の一條件-最も主要の條件-は情報蒐集、敵情偵察にある。然るに兩志士の目的は鐵道破壞にあつた。
敵情をも偵察する考も或は有つたであらうが、そは副たる任務で、主たる使命ではなかつた。鐵道破壞は敵對行爲の一種で、それを交戰者たる資格なき者が行へば便衣隊を以て、論じ、戰律犯に問ふて概ね銃殺に處する。兩志士の千古に傳はる忠烈義勇は別とし、その行動を法的に観れば、間諜ではなくして便衣隊たるものである。

支那軍の便衣隊
 三六六 近代にありて最もうるさい便衣隊の出沒を見たのは、昭和七年の上海事變の際であつた。この事變の勃發したる當時、我が海軍陸戰隊の歩哨兵、通行兵、その他在留邦人にして支那便衣隊のために不測の危害を受けた者は少たからずあつた。彼等の中には學生あり、勞働者あり、將た正規兵の變装せる者もありて、その或者は當時主として皇軍に對抗せる支那十九路軍の指揮を直接に受け、或はその傍系に屬し、或は軍外の特定團體の使嗾の下に行動するが如く、その系統は一樣でなかつた。降つて支那事變にありても、上海方面には當初は便衣隊の出沒は相當にあつたが、前囘の事變の時ほど甚しくはなかつたやうである。然る

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に支那軍の敗績に敗績を重ぬるに及び、蒋政權は潜に、いや寧ろ公々然と、ゲリラ戰術に依りて後方攪亂に大に努力すべき命を下した。されば我が占領地域内殊に中支各地にありては、晝は尋常の農夫や勞働者を装ふ輩が夜は銃を手にして皇軍の比較的手薄の方面に襲撃を試むること屡々あり、その一部は上海の租界内に巣を構へ、我が軍人及び常人、將た支那新政權の要人に或は短銃を放ち、或は手榴彈を投ずるの兇擧を演じたること頻々報道せられた所である。

西班牙内亂戰に於ける同上
 三六七 支那事變と略々時を同うし、西班牙の内亂戰に於ても便衣隊の活動は相應に傳へられた。殊に同内亂の二週年を迎へたる一九三八年の七月、共和軍の政治委員長ヘルナンデス(Gen. Jesus Hernandez)は、ヴァレンシアより管下の民衆に訴へたるラジオ放迭に於て『フランコ軍の當市への進軍は重大なる脅威を當市に與へつつある。我が民衆は、その鋤を田野に操る者たると工場に働く者たるとを問はず、悉く兵たるの心得を有すべし。今日は最早や從來の意義に於ける常人たるものは存在しない。男女老幼共に悉く銃を手にして護國の任に當るを要す。』と力説した。これは管下に謂ゆる民衆軍の蜂起を促す勸告であつたか、將た民衆を擧げて便衣隊たらしむる命令であつたか詳ならざるも、蓋し後者の意味であつたかと讀まれる。この命令が如何なる程度に實現せられたかは承知せぬが、要するに何れの國も戰局不利とならば、兎角に力を便衣隊に求むるやうになるものと見える。

便衣隊は間諜よりも性質が悪い
 三六八 要するに便衣隊の出沒は、古來累次の戰を通じ戰場附近又は後方地域に殆ど之を見ざるはなく、別して都市その他重要地方が侵入軍に奪はれ、戰局非運を告げ、殊に正當政府が敗竄し事實的に崩潰するに

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至ると、殘兵は侵入軍の後方に出沒して餘喘を謂ゆるゲリラ戰術の上に示すこと珍しくない。必しも正當政府が崩潰した後とは限らず、優勢の侵入軍に對し劣勢の國防軍は便衣隊を使蔟して橋梁鐵道等の破壊、兵站線の襲撃、その他凡ゆる後方攪亂の擧に出でしむること屡々ある。便衣隊なるものは大體斯の如きもので、概言するに、即ち前に述べた横川沖兩志士の如き眞箇に憂國の至情に出でたるものは別とし、その性質に於ては間諜よりも遙に悪い(勿論中には間諜兼業のもある)。間諜は戰時國際法の毫も禁ずるものではなく、その容認する所の適法行爲である。ただ間諜は被探國の作戰上に有害の影響を與ふるものであるから、作戰上の利益の防衛手段として戰律犯を以て之を論するの權を逮捕國に認めてあるといふに止まる。然るに便衣隊は、交戰者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戰法則違反である。その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正當防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戰律犯に問ふこと固より妨げない。

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 交戰者が第三者を傭ふて敵將を暗殺せしむるは、獨逸の『陸戰慣例』にては之を許してあるも(Morgan'sEng.trans.,p.65,n.2)、學説は概ね之を違法と論ずる(例へば Bluntschli,s 562 p.327;Westlake, Ⅱ,p.81)。必しも第三者を傭ふとは限らず輩下の兵にしても、指揮官が命令を似て又は承認の下に之をして暗殺を行はしむるのでは本號に抵觸する。將た命令又は承認の下に於て爲すのでないにしても、兵としてではなく、己れの身分を佯り敵將に近づいてその寝首を打取るが如きは、やはり背信的殺傷たるを免れない。
ロウレソスの『近代國際法は、公然の敵として單獨に又は隊を組んで國君又は司令官に加ふる襲撃と、その敵たることを隱して同樣の企圖を行ふ者とを區別する。夜陰に乗じて密かに敵陣に忍入り、制服にて己れ一人又は同志と共に突如國王又は將軍の寝室に斬込むのは忠勇の兵である。然るに人あり、身を行商人に擬し許可を得て同じ牙營に近づき、油断を見澄ませていきなり之を弑害するありとせば、そは卑劣の暗殺者である。』(Lawrence, Princ. of Int. Law, s 208,p.451)と云へるは、右の區別を説いたものである。

           第三目 乞降兵の殺傷及び不助命の宣言

窮鳥懐に入らば獵夫も之を助ける
 五〇九 ハ號の禁止は『兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段盡キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト』で、これは人道上當然の要求であり、又武士の屑しとせざる所である。窮鳥懐に入らば獵夫も之を助ける。況して力盡きたる敵兵に對しては尚ほさらである。
 乞降の敵を殺傷すべからざることは、必しも仁慈主義からのみではなく、法理も亦爾く之を命ずるのであ

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る。抑も人が權利として他人を殺すを得るのは、兵が戰場に於て敵に對抗する場合と、獄吏が法に從ひ死刑を執行する場合とのみである。自衛行爲にて加害者を殺すことも法律は之を認むるが、これは殺人の灌利といふよりも、ただ法律が之を寛恕する迄のものと見るを當れりとする。兎に角兵が戰場に於て敵を殺害するのは何故に適法であるかと云へば、我方の國家意思の遂行に對し彼れ兵器を手にして抵抗するの意思あるものと推定するからである。故に敵兵とても既に兵器を棄て、抵抗の意思を抛つた以上は、我れ彼を殺すの權利も竝に終絶したものと謂ふべく、隨つて乞降の敵兵は我れ啻に之を殺傷すべからざるのみならず、之を殺4傷するを得ざるものとの法理も立つ譯である。

乞降の時まで頑強に抵抗する敵
 五一〇 さりながら敵にして降を乞ふ最後の瞬間まで頑強に抵抗し、最後の一發を打終つて已むなく乞降したる敵に對してはどうであるか。これは南阿の役に屡々見たる所で(第一次大戰中も獨逸兵の中には往々そういふのがあつた由である)、斯かる乞降は助くべきものか否かが當時問題となつた。ベイチ博士は『敵が乞降の最後の瞬間まで銃を發射するは敢て問ふ所でない。兵としてはそれが義務で、敵は當然之を期待せねばならぬ。敵が乞降の直前まで銃を有效に發射せりとの故を以て之を銃殺するは當らず。』と説く(Baty,Int.Law in S.A,p.84)。これ・ぱ理に於ては當然過ぎるほど當然である。さりながら實際問題としては、敵が乞降の最後の瞬間まで頑強に抵抗し、味方の戰友にして之がために戰場に倒れたるもの數知れずといふ場合に、その乞降兵の處分に斟酌を加ふるが如きは事實可能であらうか。又その必要があるであらうか。頑強の抵抗者は當然助命の要求權を抛棄せるものとも云へるではあるまいか。又事實最後まで頑強に抵抗する

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敵に對しては勿論のこと、會々その中に若干の乞降者ありとしても、一々之を識別して助命の斟酌を之に加ふるなどは、戰場の實情が之を許すまい。例へば敵が塹壕に據りて頑強に抵杭し、我方之を撃破すべくそこに突入し、或は手榴弾を投し、或は銃劍にて敵を縦横に斬捲くる際にありては、敵の兵器を捨て降を乞ふ者と否とを識別するの餘裕ある筈は無い。最後の瞬間に於て乞降者の助命に氣を取られたり、俘虜として收容することに力を殺いだのでは、急ぎ抵抗者に止めを刺すに機を逸し、作戰上の迅速なる秦效を狂はすことにもなるから、獅子猛進の突撃兵としてそれを顧慮などの遑なく、必然壕内の敵兵を十把一束的に殺傷するは勢の到底避け難き所で、それは作戰上の絶對必要が命ずるのであるから、之を違法視するは當らない。

助命は部隊の全員乞降の塲合のみ
 五一一 勿論敵陣の一部隊が全員擧つて明確に乞降の合圖をしたならば、攻撃隊は之を助命すべきのが原則である。けれども塹壕襲撃の場合の如きには総てをこの例に求めしむるは難く、又敵兵の大部分が乞降するにしても、仆れて已むまで依然抵抗する勇敢の小部分もあるべく、その場合には乞降者も勇敢の戰友のために犧牲となるは勢の避け難き所であらう。乞降は多くは白旗を擧げて合圖するが、その白旗は之を擧げたる軍隊に限り、且その隊所屬の各兵が悉く抵抗を止めたる場合に限り保護の效あるもので、たとひ之を擧ぐるにしても、スペイトが云へる如く、『戰闘の酣なる際に敵兵中の小部分が白旗を擧ぐるも、大部分が尚ほ依然抵抗する間は、攻撃側の指揮官は何等之を顧念するを要せずと爲すのを最安全の法則』(Spn ght,Land War,p.93)と見るべきである。いや反對に、大部分が自旗を擧ぐるも、小部分とはいへ尚ほ抵抗する敵兵ある限りは、乞降の意思の不統制に由る責は我方之を負ふベき筋合でないとして、その白旗に我方亦敢て顧

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慮するの要なしと解したい。この見解聊か酷に失するの嫌あらんが、苟も一人にても抵抗者ある限りは、我兵の安全を犠牲にしてまで攻撃を中止すべき理由あるを知らない。勿論敵の乞降者と抵抗者とを判明に識別、し得るの餘力が我方に綽々として存せば別論である。

退卻する敵の殺傷
 五一二 更に敵軍の退却兵を殺傷することは如何。それ既に兵器を捨て又は自衛の手段盡きて乞降する敵兵を殺傷するを得ずとすれば、戰場に利を失つて退却する敵兵を殺傷するのも無慈悲と云へよう。殊に逃ぐるを追て殺傷するなどは、卑怯なことと云へば云へるであらう。
 然しながら他の一面から見れば、敗績の敵軍をして捲土重來の機會なからしむるには、退却の敵兵を迅速に追蹟して迅速に止めを之を刺し、之を殲滅せしめて禍根を戰場に絶つといふことは、蓋し作戰上の須要たるに相違ない。故を以て近代の戰術に於ては、退却兵に對しては或は騎兵を駆つて之に追撃を加へ、或は砲彈を背後より、爆彈を上空より、洩れなく浴せかけて彌が上に退却兵の潰滅を計るのが、殆どその定石となつてある。退却兵中乞降を欲する者はその欲せざる者と隊伍を別にし、能ふべくんば退路をも別にし、白旗を褐げつつ逃走すれば 或は何程か助命の機會を得られんも、退却の混雑中にありてはそは至難なるべく、殊に萬一身が追撃の敵手に落ちて殺され、又は運好くして俘虜とならんよりも、逃げ得る限りは逃ぐるに若かずと考ふるのは自然の情であらうから、逃走中に白旗を掲ぐるなどは稀に有らんも常に無く、會々助かりて俘虜となるは落伍の負傷者位のものに過ぎまい。それすら砲彈爆彈は猛威を揮ふに取捨識別を加へない。
要するに退却の敵の殺傷は、理論に於ては非人道なるにしても、強てこの理論を徹底せしめんとすれば、退

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却兵は再び戰鬪に參加するを得ずとでもいふ一新條規を立てた上のことにせねぼならぬが、そは到底能きぬ相談であつて見れば、右は謂ゆる作戰上の必要といふ見地に於て、明かに之を適法と認むるの外ないことになる。

乞降の合圖
五一三 序でながら、敵に對する乞降の合圖として最も普通の方式は兵が白旗を掲ぐることであるが、豫め乞降のことを考へて常に白旗を用意して居る譯でもないから、必しも白旗を掲ぐるに限つた譯ではない。或は手巾その他有合せの白の切地を高く吊すもあり、白シヤツを脱いで掲ぐるなどもある。白布を乞降の合圖に用ゆるのは如何なる理由から來たか詳でないが、かなり古來よりの慣例のやうである。蓋し純白は古來平和の象徴に用ひらるるに加へ、純なる誠意を示すの意に出でたものか。けれども乞降は必しも白布の掲揚に限らず、或は銃を棄てて双手を擧げ、或は銃尻を上にして高く擧ぐるなどの例もある。日露戰役に於て、露兵中には乞降の意思表示として、銃を葉てていきなり我兵に抱きっいたなどもあつた。乞降の方式は斯く區々であり、隨つてその識別に困難の場合もあらうから、國際的に交戰法規の上に於て一定すべしとの説もある。けれども乞降は多くは咄嗟の間に起るもので、一々所定の方式を用意するは難く、且特定の方式に合はざる乞降は認められずとならば、徒らに方式に拘泥するの結果として乞降を欲する者をも無益に殺傷することにならう。要は乞降の意思が對手に通じさへすれば可なりと爲し置くのが實際的である。

不助命の宣言も禁止
 五一四 次の(ニ)の禁止は『助命セザルコトヲ宣言スルトコト』で、これも前の(ハ)號と同じく人道上の要求に出づるものである。往昔にありては、戰場の敗兵は敵に對して助ゴ命を望むことを得なかつた。勝者はそ

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の補へたる敗者をば殺すも活すも勝手次第と公認せられてあつた。負傷者の如きは尚ほさらで、醫療の手不足から寧ろ之を手取り早く片付けて了ふといふのが常であつた。敗兵の助命が稍々行はるるに至つたのは、十四世紀の頃『慈悲を祈る者は慈慈を受くべし。』("He who prays for mercy ought to have mercy.")の格言が稍々奉ぜらるるやうになつた以來で、しかも眞に降者は之を殺害すべからずとの観念が洽く萠したのは、漸く十八九世紀の交以來のことである。

不助命宣言を是認する例外の場合
 五一五 本兩號に該當する條項を一八七四年のブルッセル會議にて討議せる際の原案は『交戰者は敵を助命せざることを宣言するの權なきものとす。但し敵の執りし苛酷の行爲に對する報復として、若くは味方の敗滅を防ぐ不可避約手段として、の場合に限り之を爲すことを得。敵を助命せざる軍隊は己れの助命を要求するの灌なきものとす。』といふのであつたが、この例外的許容の字句は削られて大體現行の本兩號となつたものである。然しながら現行規定の下にありても、或場合には不助命の宣言に例外を認めぬではない。その例外の場合としてオッペンハイムは(一)敵軍隊にして白旗を掲げて降伏の意を表したる後尚ほ且射撃を續行するあらばその兵に對し、(二)敵の交戰法規違反の行爲に對する報復手段として、(三)助命に伴ふ俘虜のため累を我軍に與へ、ために軍の安全を致命的に危うせしむるといふが如き絶對必要の場台、以上の三種を擧げる(Oppenheim,Ⅱ,s 109,169-170) 。ホールも『自身交戰法規を破れる敵に對し、又助命するを拒むことの意思を表白したる敵に封し、將た所屬の政府又は指揮官の行爲にして報復を正當視せしむるが如きものありたる場合に於てその敵に對しては、助命の一般原則は之を保護するものに非す。』と説く(Hall, s 129,

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p.473)。

その各場合の實際的取捨
 五一六 然しながら右の例外に關しても、實際の適用となると大に取捨を要する場合もあらう。先づ以て敵部隊にして白旗を掲げて降伏の意を表したる後尚ほ射撃を續行する場合であるが、軍隊の降伏は軍艦のそれの如くに包括的に行はるるものとは限らず、寧ろ局部的に行はるるを多しとすべく、隨つて一部隊は降伏の意を表しても數町を隔つる他の一部隊は尚ほ射撃を續行することもあらう。斯かる場合に於て、敵軍隊の一部に射撃績行者あるの故を以て既に白旗を掲ぐる他の一部を助命せずと爲すは妥當であるまい。然しながら同一部隊にして白旗を掲げながら尚ほ且射撃を續行するに於ては、そは敵が背信行爲に出でたものであるから、助命の要求を自ら抛棄したと同じで、隨つて敢て助命を爲すに及ぼざること論を俟たない。況して敵が白旗を佯用するに於ては尚ほさらである。第一次大戰中、英軍は獨兵が時に白旗を佯用して依然射撃を續行すること屡々ありしを實驗し、遂には白旗を掲ぐる降伏方法を容認せざるに至つた由である。
 第二は報復手段であるが、敵の軍隊指揮官の交戰法則違反の責任を個々の兵に負はしむるのは理に於て妥當を缺くのみならず、暴を以て暴に酬ゆる報復それ自身理論として議すべきの餘地なきに非ざるも、現代の國際法は報復を是認するのであるから已むを得ない。ただ然しながら、報復は既に説きたるが如く、對手の交戰法則違反の程度に能ふ限り比例せしむべく、報復の名に於て漫に過度の蠻的暴擧を無辜の敵兵個々に加ふるなきの斟酌はあつて然るべきである。
 第三は軍の安全のために絶對必要といふ場合であるが、これは事毎に是非を判斷すべきで、原則的に汎論

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するを得ない。(原則論で推し行けば、大概の場合は名を軍の安全に籍りて敵を一切助命せざらしむることにならう)。然しながら例へば戰鬪酣にして勝敗の運命豫斷し難く、敵兵の生命を斟酌して居つたのでは味方が危殆に陥り、遂に敗潰を招くといふやうな間髪を容れざる場合には、之を斟酌するに及ばぬこと言を俟たない。獨逸の『陸戰慣例』に『如何なる場合にも人道主義にて一貫せんとするのは、人道を誇大且不正當に感得することに基く所の交戰の意義、重大性、及び權利の誤解を表現するものである。作戰上の必要及び國家の安全は第一要義で、俘虜の無條件的自由の考量は次位に屬するものたることを看却してはならぬ。』(Morgan's Eng.yrans.,p.74)とあるは當然肯定せざるを得ない。要するに絶對必要なるものは、敵を助命すれば到底自軍が助からずといふ眞箇の絶對必要の場合と挾く解すべきである。

収容困難な俘虜は解放を要す
 五一七 さりながら軍の絶對必要なるものは、之を濫用することなきの注意の下に取捨するを要する。オッペンハイムは右の所説に次で『俘虜捕獲者が多数の俘虜をば安全に警護する能はず將た給養する能はずとか、叉は敵が聞もなく形勢を盛返して俘虜を奪囘するやも知れずとかの單なる事實は、捕獲者側に眞箇の死活的危險があるに非ざる限り、未だ以て助命の拒絶を正當視せしむるに足らざることを銘記するを要する。』(Oppenhim,Ibid.)と云へるが、敵兵の俘虜牧容に力を割くことに依り戰局が不利に陥ること歴然たる場合には、その収容に齷齪するに及ぼざるべきも、収容するの餘力ありて之を収容し、しかも安全の収容覺支なしと爲して之を片付けて了ふβ如きは妥當でない。昔は一七九九年、ナポレオンはパレスタインの役に於て大に土耳其軍をJaffa(Joppa)に敗り、敵を捕虜にすること約三千。然るに佛軍は糧食缺乏して之を給

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養する能はずと稱し、悉く之を殺害した。斯かるは今日の交戰法則の許さざる所で、その收容到底不可能といふ場合には、ホールが『解放すべき俘虜なり將たその奪囘に成功すべき敵軍が、轉じて我方に虐殺又は虐遇を加ふるものと認むべき理由ある場合は別なるも、然らざる限りは、俘虜にして之を安全に收容し置く能はざる場合には之を解放すべきである。敵の兵力を増大することの不利は人道の掟則を破るの不利に比すればヨリ小である。』(Hall,Ibid.)と云へる如く、之を解放するのが現代の國際法の要求する所で、實例としては南阿の役に、ボア軍にてはその俘虜とせる多數の英兵をば給養困難の理由にて解放したること數囘あつた。(ホールの右の所論はウェストレークも之を賛し、安全に收容するを得ざる俘虜は之を解放せざる可らずと説く-Westlake,Ⅱ,p.82)。
 以上の外、例へば戰場混亂し、乞降者と不乞降者の識別の判明し兼ぬるが如き場合にありては、乞降者あるも之を助命することは事寳不可能てあり、既に不可能てあらば、之を殺傷するも固より違法を以て論ずる限りでない。要するに上叙の特別なる場合は別とし、尋常の場合に於て豫め敵兵は一切助命せず、俘虜は一切收容せずと脅すことの違法を戒むるのが本號の主眼である。

不助命宣言を軍紀違反に問へる例
 五一八 軍の指揮官が敵兵不助命その他殘虐の戰鬪手段を部下に命令するが如き交戰の法規慣例違反のことをするあらば、而して本國政府にして軍紀の嚴肅を保持するものであらば、該指揮官は軍法會議に附せられ慮罰を受くることもある。近代の置戰史に於てその著しき一例は、米西戰役に於ける米軍の旅團長スミス(Brigadier-General Jacob H.Smith)にあった。彼は囘戰役中の或時、比律賓のサマル地方の土民兵が米

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國の一小部隊を全滅せしめたことに對する膺懲戰を指揮せる際、部下の一大隊長に『俘虜は一人も取らず、敵は悉く殺し且家も悉く燒拂ふべし、殺燒多ければ多いほど結構なり、サマルは屠つて之を一荒野に化せしむべく、現に米軍に敵對する者は勿論、苟も武器を手にするを得る者は悉く之を殺すを望ましとす。』と命令した。而して大隊長の『何歳位の上の者とすべきか。』との尋伺に封して『十歳以上の者は悉く。』と答へた。
この命令は實際はその儘に行はれず、女小供その他非戰鬪者は勿論、俘虜の殺害も事實無かつたとあるが、兎に角彼は善良なる秩序及び軍紀に背馳すとの理由にて、大統領の命令に依り軍法會議に附せられ、審理の末に義務違反に由る有罪の宣告を受けた。尤も大統領は之を栽可するに方り、彼に情状の酌量すべき點あるを認め、殊に彼は既に六十二歳の老齢であり、旦その過去に於ける功績と從來大體に於て志操善良なりしとの理由の下に、陸軍長官の意見上申に基き、特に彼を現役退職の比較的寛容處分に止むべきの指令を下したとある(Moore,Digest,Ⅶ,s 1114,p.187-190)。交戰法則を重んずる國はまさに爾く爲すべきである。
戰鬪の現に進行中、敵兵を殺害するは交戰法則の當然是認する所で、何れの戰鬪に於ても常に行はるることであるが、右のスミスの鏖殺命令の如きは到底是認すベきでない。

        第四目 不必要の苦痛を與ふる兵器類の使用

必要以上の苦痛を與えるは禁止
五一九 ホ號は『不必要の苦痛(des maux superflus;unnecessary suffering)ヲ輿フベキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト』の禁止である。