見出し画像

「自分の塊」から離れた隙間にあるもの




上記の記事にて、わかりやすい解説をありがとうございました。

原文だったら、間違いなく読むのをあきらめています。解説本当にありがたい。

>一つ、「これ」と決めつけると、それで迷いが生まれる。わからなくなる。

全くその通りで、光が闇を産むといわれますが、仏教の教えでは、「己が強くあるほど他者も浮き上がる」と言いますね。

「背が高い人」という表現だけでは、その人が身長何センチかわからない。「高い・低い」という言葉は、或る何かと比較するときにしか使えない言葉です。日本では、その辺がものすごくあいまいで、身長180センチくらいなら、誰と比較するとかいう前提の説明なしで、「背が高い人」と言われてしまう。でも、これってボンヤリとした「日本人の平均的な身長」という「見えないモノサシ」が存在していることの証拠だと思います。そして、脳内に「見えないモノサシ」を持っている人は、そのモノサシはあって当然と決めつけているし、さらに、「そのモノサシは身長165センチだ」とかいう風にモノサシの中身まで決めつけている。そういう人が「背が高い人」などというよくわからない言葉を安易に使うと思います。もしかすると隣の人は「身長168センチ」とかいた「見えないモノサシ」を持っているかもしれないのに、そういう可能性は見ない。つまりそういう人は、自分にしか通用しない「マイ・見えないモノサシ」を周りに対して適用して勝手に文句言うようなマイルール野郎ってことです。

そしてそういう「見えないモノサシ」のなかの一つが「定型」という「モノサシ」であり、その物差しで測った結果、定型から外れたモノや人に対しては、病名とかのレッテルを貼って、「マイノリティ」の箱の中に突っ込まれるという感じですね。

「見えないモノサシ」を持っている人は、無意識に、何かを見た時いつも当たり前のように何らかの「モノサシ」に当てます。それが「我執」だと思います。

つまりその原文で書かれた聖人は、そういう、モノサシにこだわらず、たくさんのものたちの色の違いや音の高さの違いを、ちょっと引いたところから楽しめる人ということかなあと思います。

OSHOのカードで、ここで言う聖人にピッタリなカードがありました。

豊かさ、と書いてあり、自ら常に満ちあふれて、あらゆるものをあふれるに任せている姿。何かを止めようとか得ようとかしないし、結果にも固執しない、そうして人生を楽しむ人。

ちょっと「ひとごと」みたく、引いていないとハーモニーを楽しめないんですよね。自分の音を出すことに必死でいると、綺麗なハーモニーが生まれないし、結局その人の頭の中は自分の音階だけでいっぱいいっぱいで、せっかくのハーモニーが頭に入ってこない。勿体ないことです。

マウントをとるっていうことも、この「モノサシ」をあて、他者に勝つことで自分の「強さ」を証明しようとするもので、これは本当の強さではないですね。弱い相手がいないと自分の「力」を存在させられないというのは非常に情けないことです。

こういう情けない、力のない人が世の中を仕切っていて、嫌になりますね…

サポートは励みになります。よりよい魔女活動のために使わせていただきます。よろしくお願いいたします。