【読書感想文】新潮文庫『塩狩峠』三浦綾子 feat.カルテット
「義人はいない ひとりもいない」 (ローマ人への手紙 3:10)
おそらく世界中探しても他にしている人はいないだろうw
TBSドラマ『カルテット 』のセリフを交えつつ、『塩狩峠 』を振り返る。
『カルテット』を見たことがない人はぜひ見てほしい。
(聖書は『塩狩峠』の本文中の訳ではなく新改訳聖書より引用している。)
「人間関係って、どれもズボン履いてるけどノーパンみたいなことじゃないですか。私はズボンを履いてれば、ノーパンでいいと思います。」(5話 来杉有朱)
そう、義人はいない。この世に一人もいないのである。
自分の心の中を覗けば白くないことはすぐわかる。ただ真っ黒でもないだろう。みんなグレーだ。
白い部分と黒い部分がまだらにあって、遠くから見ればグレーなんだろうと思う。
そして、ズボンを履いて、黒い部分を隠して生きている。
罪なき者は石を投げてもかまわない。
しかし、それはつまり誰かに石を投げられる人はいないということだ。
「人を査定しに来たの?どういう資格で?」(8話 別府司)
仕事の上で人を査定しなければならない場合は出てしまう。しかし、そんな時でも謙虚さは失ってはいけないし、誰かを軽蔑するような態度になってはいけない。
ましてや、あいつは罪人だと言って、社会から排除してはいけない。
施設から出てきた人を積極的に雇用するガソリンスタンドがあるというのを見たことがある。
そういう寛容な姿勢こそが今の世に求められるはたらきだと思う。
愛でもって包み込み、人の居場所を作ってあげるのだ。
「そこ、白黒はっきりさせちゃダメですよ。したら、裏返るもん。オセロみたいに。大好き、大好き、大好き、大好き、大好き、大好き、殺したい!って。」(5話 来杉有朱)
給料袋を盗んだ三堀も許されていい。受け入れられる場所があっていい。
三堀と他の人たちの違いはほんのわずかなものにすぎない。
白黒つけるよりも、自分の汚さを認めた上で他人を許す寛容さを持つことが大事だと思う。
誰かを黒だと非難するのは、それと比べて自分は白いと思い込みたいからだと思う。
本当はみんな黒い部分も、白い部分も持ち合わせている。
そして結果的に誰かに冷たい仕打ちをすればするほど、自分のグレーが黒に近づく。
つまり誰かを非難するのは、自分をどんどん罪深き者にする行為だ。
何か言いたければ、その人のためにと、愛をもって直接言えばいい。
まず石を投げるのを止めよう。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネの福音書 8:7)
そして「白くない自分を否定する」ということも止めたほうがいい。
「みんなのおもしろいところを、みんながおもしろがって、欠点でつながってるの。」(7話 巻真紀)
話の中に出てくる小説『無花果』の牧師が許せないのではいけない。
ただ、自分のよくない部分を許してほしいというわけではない。
とにかく許したい。許してもらえなくても、許せる自分になりたいということだ。
「 こんなおもしろくないものおもしろいって言うなんて、おもしろい人だなーって。よく分かんなくて、楽しかったの。」(7話 早乙女真紀)
他人の欠点を認め、面白がれる環境はとても居心地がよい。
仕事をしていて最もやりやすかった時はそういう場所だった。
そこに欠点を許せない人が入ってきて、どんどん窮屈になっていった。
欠点を許せていた人が、許せない人に同調して誰かを非難し始めたのは、とても悲しいことであった。
そして、そういう環境では、ありのままに動くとよく思われなかったりする。
誰かに非難ではなく、指摘してもらえるというのは幸せなことである。
指摘されるということは、周りからできているように思われていないからで、足りないと思われているからである。
指摘されたのに、それに対して「しているよ」と言い張って、できてない自分を認められないのもいけない。
かたくなな心が砕かれて、言いにくいことを言ってくれるという中にある愛が理解できるようになって、お互いに受け入れあえるのがいい。
もちろん指摘を認められないダメさがあれば、それも許せるようにしていきたい。
「僕達の名前は…『カルテットドーナッツホール』ですよ。穴がなかったらドーナッツじゃありません。僕は皆さんのちゃんとしてないところが好きなんです。」(9話 別府司)
ドーナツは穴があるからドーナツ。人間は欠点があるから人間。
「音楽っていうのは、ドーナツの穴のようなもんだ。何かが欠けている奴が奏でるから、音楽になるんだよね。 」(1話 ベンジャミン瀧田)
欠点のある人間が奏でるから人間味のある美しい音楽になる。
もし欠点のない人間がいれば、その人生は無味乾燥なものになるだろう。
欠点のある人間だからこそ、その人生は美しい。
「私の好きな人には好きな人がいて、その好きな人も私は好きな人で、うまくいくといいなって。」(8話 世吹すずめ)
自分を第一におかずにいたい。
永野の最後のようなことが自分にできるだろうか。
同じ状況にあれば必ず動く。手は尽くす。いや、尽くしたいとは思うだろう。だが、ここまでできるだろうかと思う。
それでも自分はこうありたいと願っている。こういうことができる人間でありたい。
人を救って死んだのなら本望であるし、死ぬまでいかずとも多少自分が傷つくづらいで誰かが助けられるなら全然かまわない。喜んでそうしよう。
残されたふじ子はどうだろう。
自分が死ぬことで、計り知れぬ悲しみを与えてしまう。それは望むことではない。
しかし、誰かが救われるのならば、信仰を持ったのならば、生き方としてはそちらが求められるものなのだと思っている。
ただ、実際に何かに直面した時に、やはりいろいろよぎって、怖くなって、動けずに、白なのか黒なのかわからない自分に出会うだろう。
全てを一度にかなえることはできない。
だから、表に現れる行動と、そうでありたいと思う気持ちも同じではなく、他人が単純に判断することもできない。
白黒つけることはできないし、そうする必要もない。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 (ヨハネの福音書 12:24)
最愛のふじ子を思っても、それでも自分を投げ出した。
誰かが信仰を持ったのなら、それが一粒の麦として地に落ちて死に、もっと大きな命を生み出したことになる。
信仰をもった者は、残された者は、常にそのことに対する感謝を忘れずに生きることが求められる。
今いる環境に対する感謝は、すぐ周りにいる人にできても、今いない人は忘れられてしまう。
かつて関わった全ての人々に、先人に、感謝できる気持ちを持ちたいものだ。
今あるのは、かつて様々な働きをしてくれた人のおかげである。
「2種類いるんだよね、人生やり直すスイッチがあったら押す人間と、押さない人間。僕はね、もう押しません。なんで押さないと思う?みんなと出会ったから。」(9話 家森諭高)
一瞬前に戻れるなら戻りたいと思うこともあるだろう。でも、人生をやり直すスイッチは、その後に出会った人たちのことを思えば、やはり押せない。
永野の立場で、自分が死んだ後のふじ子を見れば、やり直したいと思うかもしれない。
しかし、そのあとに多くの人が信仰をもった姿を見たら、やはりスイッチは押せなくなる。
「もしあの時…」と思っても、救われた三堀を見れば、やり直すべきではないと思うだろう。
三堀が信仰をもったこと、これはとても大きな意味をもつ。
だから、自分の影響で信仰をもった人が、自分が教えていた相手が、その後に充実した生活を送っているかどうかが、やり直したいと思うかどうかに大きく関わる。
逆に言えば、自分が充実した生活を送らないことで、他人に後悔の気持ちを持たせることにもなる。
全て人と人との関わりから生まれるのだから、人とよい関わりをもつということが何よりも求められることだろう。
他人を許せる寛容さをもちたい。
「人生ってまさかなことが起きるし、起きたことはもう元には戻らないんです。レモンかけちゃった唐揚げみたいに。」(1話 巻真紀)
人生は不可逆だから、前を向くことが大事だし、今の我々にとっては、自分がそういう様々な犠牲の上に生かされていることを忘れずに、常に感謝をもって生きていくことが大切だ。
2017.3.13
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