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星野源と諦観

「今朝、キッチンで星野源の新曲「創造」を聴いていたら、ポロリと涙がこぼれた。

そしてさっき、家族がいなくなったガランとした部屋でもう一度聴き直したら、おいおい泣いてしまった。

朝から情緒がぶっ壊れている。」

ここまで書いて放置していたnote。

昨晩は原稿に追われ、ひとりホテルにこもって仕事をしていた。

まぁ、正直ただただひとりになりたかっただけなんどけどね。

そして仕事が一段落してテレビをつけたらマツコ会議に星野源が出ていて、会いたかった人に会えたような気分。

そういえば、ひとりでニュージーランドを旅していた時もYouTubeで星野源のオールナイトニッポンを夜中から明け方までずっと聴いていたっけ。

彼の声を聴いていると、私のなかの孤独を、もう誰とも共有なんてしなくていいんだと、ある意味強い気持ちになれる。

いわゆるパズルのピースになる相手なんて、この世にきっといないんだと、最近ようやく気づいた。

本当の意味で心にフィットする、寄り添える相手など、私にはいないんだなと。

だからといって、悲しいとは全く思わない。

だよなぁと、ようやく諦めがついた。

私はずっと孤独が好きだから、誰にも侵されない大切な物事を重視し、侵されない空間というものがどうしても必要なのだ。

だけど若い頃はその部分も含めて理解してくれる誰かがいると思っていた。けど、現実は全然違った。

あー、いないんだと思うと同時に私自身もそんな相手をもう求めていないことに気がついた。

だから肩肘触れるくらいの距離感で誰かと一瞬でも繋がり合えるとうれしい。

だけど、裏を返せばそれ以上を求めていない私がいるということでもある。

※※

.......で、なぜ私は朝から星野源の新曲を聴いて泣いてしまったのだろうと考えていた。

正直今でもよくわからないけど、そこにはなんだかもったりと柔らかな希望があふれているような気がした。

同世代でもある彼の"頑張り方"が、私にとってすごく希望に思えたというのは大いにある。

現実のなかで向き合う問題は、ハッピーエンドで終わることは少なく、100%の解決などほとんどない。

そんなギリギリで頑張っている感じになんだかとても身につまされながらも、創造すること、私の中のクリエイティビティを肯定してもらえたような気がしたんだった。

そして前向きとか自分らしくとか、一見つるっと無責任に使ってしまう言葉を、動のある言葉として、伝えてくれる彼の言葉に、なんだか励まされるのだ。

諦めることは絶望ではなく、諦めることから踏み出せる希望があるんだと。

今年に入って、面倒なことにはなるべく関わらないと決めた。まぁ、すでに決まっていることは置いといて。

無責任でテキトーなヤツだと思われても、多分それも私自身だし、多分それはそれでいい。

私の中にあるものしか出せないし、それ以上でも以下でもない。

笑顔で中指突き立てているような、そんな感じでずっと生きていけばいい。

許せること、許せないことがあるから、人は人間らしく生きていけるんだから。





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