クリスマス

闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

イザヤ書9章1節(新共同訳)

クリスマスは、キリストの生誕を祝う行事だが、実際にイエスが生まれたのは冬ではないと言われている。
その日付がこの冬至直後に与えられたのは、(ミトラ教の祝祭日がそうだったから、という理由もあるが)なによりも、日暮れが早くなって行く冬至の直後、日の長さが長くなり始めたその瞬間を、闇から光への復活に捉えたからだ、と言われている。

イザヤ書は、キリストが生まれる500-700年ほど前に書かれた預言書で、バビロン捕囚により祖国を失ったユダヤ民族を救う救世主の生誕が預言されている。

ーーこの書き方は、キリスト教の信徒を激怒させるだろうがーー しかし現実として、イエスはそのユダヤ人ら自らに殺され、ユダヤ人は世界に離散することとなった。救世主は何もしてくれなかった。

一世紀の人々は、これをユダヤ民族の救世主としてではなく、世界の救い主として捉えた。イエスは磔に処されたが、人々はそれを、キリストが人々を救うために代わりに犠牲になったと考えた。そして、キリストは「復活」し、イエスは主キリストとなった。新約聖書には、主キリストは「私はすぐに帰ってくる」と言い残し天に消え、信徒は「主よ、来たりませ」と何十年も待ち続けたが、主は帰ってこなかった。そのうちの信徒たちは、来世での救済に話を読み換え始めた。そして、もう2000年も経ってしまった。


…そんなおとぎ話を信じることは、できない。それならなぜ、救いがこれほどにまでないのか。世界にも、私にも。
私の人生に、光は見えない。先の見えない闇だけが広がっている。私は死ぬまで、苦しむことがもう決まっているのだ。なぜなら、そのような存在がいるのだとすれば、神が、そういう運命を私に背負わせたからだ。
救い主は、私を助けてはくれない。それが来世での救済だとしたら、そんな救済は要らない。私は、来世など信じない。だから、死は救済なのだ。
神がおられるのだとしたら、それはこの世界で最も残酷な存在だ。

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