inequality

※これは男女平等の思想をベースにした文章なのでそんなこと考えたこともない人は根本からズレます


先日、時折Xの投稿に登場する成熟したISFP女性と2人で話をしていて、その中で「俺はかなり男女差別的な思想をしているのかもしれない」という話をした。昔から性差については他人の何手先も考えてきた自負がありつつだ。

「本人の性別を逆にしたツイフェミみたいなとこはあるかもね」と言われたときには流石にカチンときたがまぁ表には出していないだろう。

けれど、的外れとも言えない。「男性性への嫌悪が歪みきったが故の哀れな姿」と言われれば納得せざるを得ない。“男性に対する許容範囲”と“女性に対する許容範囲”に違いがありすぎるんだ。

ある男性に対して言動の根本に醜悪さを感じるときに「もし女性だったら」と考えると寛容になれるであろうことって沢山ある。(男性性への嫌悪はこの話では置いておく)

これは“女性には優しい”と言ってしまえば聴こえはいいが裏を返せば、“寛容”とは見下していることに近いものがある。

思想はそうではないと言い切れる。

ただ、事実としてそうなってしまうという話。


ただね、これも事実としての話だが圧倒的に不利なのよ、女性性、全てに於いて。

物理的な力が劣るので男性性から身を守るために過剰なほどの防衛意識が必要で、個体差はあるが周期的に生理があるために1月のうちの半分は心身が安定せず、一般家庭を選択すれば“少なくとも”妊娠するのは女性で出産するのも女性

もうすでに生物として平等じゃないじゃない。
悔しいだろうけど。誰も悪くない。


例えばさ、いつか惚れた女性が男女平等主義だったとしても、「そうだね平等だね」なんて上っ面で話を合わせたりなんか俺は出来ない。

「だから守るべき存在だ」なんて安っぽい感覚は無い。ただベースとして弱い存在であるというのは直接口には出さずとも無意識に思想に表れてしまっていると思う。

“同じ人間としての敬愛”の次にくるのは“女性性に対しての可能な限りの配慮”であるべきだと思ってしまうんだ。



社会全体の話をするとさ、

“男女平等”なんてのはただ単語として浸透しているだけの理想の表層であって、現実に社会が目指している(そうしなくてはいけない)ことの実態は“男女公平”なんだよね。平等は思想だけでこねくり回せるけれど、公平にするのには現実としてコストが掛かる。

今は世の中がジェンダー問題に敏感であることを利用して世間へのアピールとしての“男女平等”の為に社会が進んでコストを出している節は少なからずあると思っている。

まだまだ問題視される中で社会全体としては今が既に歪なバフの掛かった状況なのかなって。それくらい難しい問題だと思っている。

これも(これ自体は)誰も悪くないんだよな。





でもね、ここまで考えた上で言うとね、

平等が不可能な部分を受け止めると平等であって然るべきものが何故か平等ではない現実が見えてくるのよ。

僕達それぞれに出来るのはそこに目を向けて変わっていくことじゃないかなと思うんだよ。







おしまい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?