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元彼にすべてを委ねて

15年ぶりに、君と唇を重ねた。

まさか自分が不倫する日が来るなんて思ってもみなかったけど、でも、もし今日抱かれなかったら、ずっと後悔する気がする。

不器用な手つきで、ブラウスのボタンを外していく君。神妙な面持ちで一生懸命にボタンと外す姿が、なんだかかわいい。

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20代の頃、君のすべてが好きだった。でも、高卒で建設作業員の君との結婚は許されなかった。プロポーズしてくれる君と、頑なに反対する両親。板挟みになった私は、君を振ることで決着をつけた。別れを匂わせたら、君は狂乱して会社を辞めてしまった。そんな君を見て、私は困惑したよ。なぜ私を困らせるの? ただでさえ反対されているのに、そんなことされたら、もうどうにもならないんだよ? 私は君に幻滅していった。

でも考えてみれば、原因は私だったよね。

別れた直後は、君が命を断つのではないかと心配だった。深く深く傷つけたこと、自分でもわかっていたんだ。女は上書き保存っていうけど、私はただ君のことを記憶から消したかった。だから、好きだと言ってくれた人との結婚を急いだ。大手商社勤務の彼との結婚は両親も両手を上げて祝福してくれ、スピード結婚で周囲を驚かせた。こんなことをしたからと言って、君の傷が癒えるわけじゃないのにね。私は、ただ周りを丸く納めたかった。そして、自分がした酷いことを忘れたかった。

それから17年の時が流れた。

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「ねえ……。シャワーを浴びさせて」

腕の中からスルリと抜け出して浴室へと滑り込み、ホッとため息をつく。スカートを落とし、下着を外すと、40女の裸体が鏡に映し出される。

蛇口を捻り、熱いシャワーを浴びる。ボディソープをたっぷりと手に取って体を念入りに洗う。もはや若くない体が恨めしかった。まさか、今日こんな展開になるなんて。

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君の近況には驚いたよ。

私と別れてから、再び建設作業員として働き始めた君は、数年後に現場監督を任された。独学で2級建築士の資格を取得。そして、奥さんと出会って結婚し、2人の子の父となった。その後はマンションのリフォーム会社を設立し、いまでは数千万円の年収とのこと。自宅は都内の一等地。成功者になった今の君は凄みが増したけど、相変わらずやさしげな目をしている。

「ほら。学歴なんか関係なかったじゃない!」

父と母にそう言ってやりたい。でも、君が学歴のない肉体労働者であることに一番引け目を感じていたのは、私自身だったのかもね。だから私は、君よりも親の意向を優先したのだ。

そして、親が喜んでくれる相手と結婚した。そしたら、モラハラとDVの毎日で、遺書を認めるまでに追い詰められた。もしもあの日、偶然駅のホームで君と会わなかったら、そのまま電車に飛び込んでしまうところだった。

君に引きずられて心療内科にかかり、薬を処方された。DV相談機関にも繋げてもらった。その上、弁護士まで紹介してもらい、この1年で、夫のDVの証拠もすべて押さえた。あとは弁護士を通して離婚協議を進めればいいだけのところに来ているのに、その一歩が怖くて踏み出せない。

いけないとは思いつつも、ただひたすら君に頼り続けた。そして今、再び君のことを愛してしまっている。

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タオルを巻いて浴室のドアを開けると、君が入れ違いに浴室に入ってくる。

少し迷った末にタオルを巻いたままベッドに体を滑り込ませ、照明を落とす。暗くなった部屋に、壁を隔てたシャワーの水音が聞こえてくる。

あの頃、よく一緒にお風呂に入ったよね。浴槽の中でのおしゃべりが楽しかった。恥ずかしかったけど、一緒にいたい気持ちが勝って、だからいつも君と入った。背中の洗いっこ、楽しかったな。君の広い背中を流すの、好きだったよ。

やがて出てきた君はベッドへと体を滑り込ませ、私のタオルを剥ぎ取る。

「あんまり見ないで……。」

「ヤダ。見る。」

いたずらっ子のような顔をした君が唇を重ねてくる。私の首の下に回される、昔と変わらない君の腕。

君の左手が私の肩を撫で、背中へ回され、ゆっくりと降りていく。それだけで、体がのけ仰け反ってしまう。胸の丘がやさしく包まれ、キスが首筋から鎖骨へと降りてきて、やがて、胸の中心を捉える。

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夫が最後に私の胸を愛撫したのは、一体いつのことだろう? 結婚するまでは優しかったのに、長男を妊娠した頃から扱いがぞんざいになり、やがて罵声を浴びされたり、小突かれるようになった。愛撫なんていつの間にかなくなり、いつも唾をつけて強引に入ってくると、勝手に腰を振って果てるだけ。

そして、出産直後に長男を連れて帰省中に最初の浮気が発覚。でも、謝るでもなく開き直る夫。時間の経過と共に夫の暴力はエスカレートし、私だけではなく、子供にもその手が及んだ。すると子供も次第に荒れ出し、不登校になり、やがて暴力を振るうようになった。夫と子供の両方に殴られ、肋骨にヒビが入ったり、顔がアザで真っ青になったこともあった。ここからの脱出は、死しかないと悟って遺書を書き、ふらふらと駅のフォームで電車を待っているときに、ふと、声をかけられたのだ。

「すいません。矢口さん…… ですよね?」

声がした方に顔を向けると、君が立っていたんだ。昔と少しも変わらない君が。

「彩耶、お前、一体どうしたんだ?」

「えっ?」

「どうしたんだその顔は? なんかおかしい表情をしてるぞ。一緒においで」

そのまま連れられた駅前のレストランで、私は人目を憚らず泣き出した。涙が止まらず、どうにもならなかった。私は一体、どこでボタンを掛け違えてしまったのだろう? 彼は私にLINEのIDを共有するように言い渡すと、私の自宅までエスコートしてくれた。そしてその日から、彼の献身的なサポートが始まったのだ。

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君の背中に手を回す。昔のままの背中。

君の厚い手が腿へと伸び、ふくらはぎや膝の後ろにもやさしく触れてくる。体の上を何度か行き来した手が、ようやく渓谷にたどり着く。そして、ゆっくりと探検を始める。君の指先が結び目をゆっくりと丁寧にほぐしていく。ゴツゴツした労働者の手なのに、どこまでも優しく触れる君。

こんなに濡れるのはいつぶりだろう? 普段あまりにも濡れないので、夫との行為は痛かった。すっかり不感症になってしまったと思っていたのに、今日は恥ずかしいくらい濡れているのが自分でもわかる。

「綺麗だよ、彩耶」

耳元で囁いてくれる君。お世辞とわかっていても嬉しい。

「宏之もカッコいいよ」

勇気を出して、君の熱くなったところを握る。ゆっくりと手を動かすと、目を閉じてため息をつく君。

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心療内科から抗うつ剤が処方されてしばらくのち、ちょっと落ち着いたところで、ある日君は藪から棒にこう切り出した。

「彩耶には兄貴がいたよな?」

「うん。」

「じゃあまず、兄貴にDVのことを共有しな。」

「でも……」

「でもじゃない。DVの加害者は、自分のことが世間に知られていないからこそ、暴君でいられるんだよ。まずはその状況を壊す。多分、他の男性に知られることで脅威に感じると思うよ」

「……」

「ご両親は元気?」

「父は亡くなったけど、母は元気」

「じゃあお母さんにも共有」

「それは……」

「『それは…..』とか言っているじゃない。夫の会社の人に伝手はないの?」

「以前同じ会社だったから、今でも知り合いはいるわよ」

「なるほど。人事部に伝手はある?」

「ある。仲の良かった友達が人事部の課長になっている」

「じゃあ、その人とランチしたいって言って、まずは関係を再構築する」

「でも……」

「でもじゃない。こうやって少し明るみにするだけで、暴力がストップするよ。騙されたと思ってやってみな」

「うん……」

実際に兄と母に共有できたのは、この会話が交わされてから、半年以上も先のことだった。でも、これだけでも効果があった。ある日突然やってきた兄は夫に対して、

「先日妹の顔にあざがあったので気になっているんですけど、まさか暴力を振るってませんよね?」

と、ぶちかましたのだ。

夫は滑稽なくらい狼狽し、その日から少なくとも殴られることはなくなった。代わりに壁を叩いて穴を開けたり、大声をあげて恫喝はされたが、直接殴られるよりは幾分マシだった。

息子からの暴力も簡単なアドバイスで収束した。

「今度息子さんに暴力を振るわれたら、迷わず警察を呼びな」

「そんなこと、私にできない……。できないわ」

「どうせ未成年だから大した罪にはならない。でも、警察が来ることが抑止力になって、暴力は一発で止まるよ。騙されたと思ってやってみな」

それから、数日後、些細なことで息子が激昂し、したたかに殴られた。私は泣きながら謝りながらも、ふと、君のアドバイスを思い出した。そして、息子が部屋に戻るなり、すぐさま警察に電話をした。

数分後にサイレンの音が聞こえ始め、家の前で止まった。心臓がバクバクと鳴るのが自分でもわかった。玄関を開けると、制服を着た警察官が2名立っていた。事情を話すと、そのまま息子への部屋に行き、しばらくすると手錠をかけかれて萎れた息子がおとなしく連れ出され、そのまま警察署に連れて行かれた。

結局、私は自分の息子を起訴するなんてできなかったのだが、この日を境に息子の暴力がピタリと止んだ。

こんなふうに、どうにもならないと思っていたことが、一つずつ解決していった。少しずつ希望が見えてきた気がした。少なくとも、死にたいと思う日が減っていたんだ。

そしてこの頃から、もう一度だけでいいから、君に抱かれたいと思い始めた。そしてその願いは、今日叶うこととなった。

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私の中に君の指が入ってくる。私は溢れ続け、何度も背をのけぞらせた。やがて彼は枕元へと手を伸ばし、避妊具を手に取った。

「ねえ。付けなくていいよ」

「えっ?」

「私は大丈夫だから」

「うん……。わかった」

上になった君は、私の目をまっすぐに見つめる。目つめあったまま、ゆっくりと入ってくる。キスを交わす。2人はひとつになる。ため息をついて、私は君の背を抱きしめる。

今日のことだけは絶対の忘れるまい。

やがて律動が激しくなり、そしてすべてが止まった。

私の上に倒れ込んでガクガクと痙攣する君。私も震え、意識が遠のく。君の重みがずっしりと体にかかる。その重さが懐かしかった。ようやく体を剥がした君は、隣に倒れ込んだ。荒い息。私は腕にしがみついて、静かに目を閉じた。

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しばらく微睡んだ後、君がおもむろに口を開いた。

「なあ彩耶」

「なあに?」

「お前のことはオレが面倒見てやるから、先のことは心配するな」

ねえ、面倒を見るってどういうこと? あなたには、奥さんや子供もいるんだよ? 私にも夫と子供がいるの。そう言いかけて、言葉を飲み込む。

君の真意はわからない。でも、遊びじゃないみたいだし、仮に遊びだとしたって、私は今日だけ、あの頃に還れたのだ。

それだけで十分なんだ。

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帰宅すると、夫の革靴が玄関にあった。

「ただいま」

そう言いながらリビングに入ると、ムッとした表情の夫が私を睨みつける。

「おい、働いてきた夫より後からご帰宅とは、大層なご身分だな」

そう言いながら夫は立ち上がった。彼は細身だけど、180cmを超える大男だ。舐めるように私を見ながら、ゆっくりと近づいてくる。蛇が蛙を飲む前のように、細い目で睨みつける。でも今日の私は、夫をまっすぐに見返して、応答する勇気があった。

「どこに行ってたんだ」

「友達と会っていました」

「どこで誰とだ?」

「新宿でノリコとよ。私と同じ部署だった彼女、覚えているでしょ?」

普段だったら怖気付いて一言も言い返せないのに、今日は流れるようにウソが唇からこぼれる。

夫の顔から薄ら笑いが消えた。

「ノリコさんに何の用だ?」

「お互いの近況報告よ。あなたの暴力のことを相談してきたの」

ノリコは今でも夫と同じ会社で働いており、しかも今では人事部の課長だ。すべて口から出まかせだったが、夫を凍りつかせるには十分だったみたいだった。

「遅くなってすみません。すぐに夕飯の支度をしますね」

エプロンをして台所に向かうと、下ごしらえしてあったハンバーグに火を通し、シチューを温める。

20分足らずで食卓に夕飯が並ぶ。夫は膨れっ面のまま茶碗を手に取り、無言で頬張った。息子も黙ったまま食べていた。

夜遅くに息子の部屋をノックして、気まずい夕飯を謝ると、

「別に。それよりお母さん、凄いじゃん」

と息子は笑った。久しぶりに見た笑顔だった。

夫が眠ったのを確認してから、浴室へと向かう。LINEを立ち上げると、宏之からメッセージが来ていた。

「彩耶、今日はありがとう。本当にいい1日でした。トラブルになってないかな? 次に会った時に、これからのことを話し合おう。おやすみなさい」

携帯を置いて湯船に浸かると、今日抱かれたことを改めて思い出した。

これからのことって、一体何を話し合うの?

ねえ浩之、私たちのしたことはね、れっきとした不倫なんだよ。私たちにはね、幸せな未来なんてないんだよ?

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