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⑥メサイアコンプレックスへの対処

前回の記事↓

メサイアコンプレックスとどう向き合うか?

今回は、メサイアコンプレックス・シリーズの記事の最終回です。
気づかないうちに、実は様々な弊害を生んでいるメサイアコンプレックス。その対処法や、どうやってそれと向き合うか?について書いていきます。

ここでは、自己の内側にある”メサイアコンプレックス的要素”とどう向き合うか?という目線で書いています。我々のうちには誰しもメサイアコンプレックスに陥いる可能性を持っていると思っていますので、様々な角度で自分と向き合い、自分の中の”ソレ”の理解が深まることで、メサイアコンプレックス的な振る舞いをする他者に対してどのように対処するか?も自ずと見えてくると思っています。

ここでは自己への対処にとどめ、メサイアコンプレックス的な他者との付き合い方に関しては書きませんが強いて言うならば、メサイアコンプレックスを発揮しているように見える他者に対しては、この後に出てくる「課題の分離」を薦めてみることなどできると思います。


それでは早速われわれはどのようにしてメサイアコンプレックスと向き合えばよいのか見ていきましょう。


スキルに習熟する

まず最初にとれる方法は、人を支援することや人をリードすることが、それ自体目には見えませんが”専門的なスキル”であると認識して、意識的にトレーニングしていくことで、メサイアコンプレックスを防ぐという方法です。

人助けや人の相談に乗る、グループをまとめると聞くと、私たちはつい誰でもできる簡単なことと思ってしまいがちですが、実際はその状況によって難易度は大幅に変わるため、こうしたことは一定の専門的なスキルの求められることだと認識することが重要です。

そうした認識のもとで、

  • 相手が今本当には何に困っているのか?

  • 相手はどのような支援を求めているのか?その支援を自分は十分に行うことができるのか?

  • どの程度なら相手が自分の力で問題に対処することが可能なのか?

に関して注意深く観察し、対話を重ねていくこと。
そして相手の困っている事をしっかり把握した上で適切に助けていくこと。場合によっては自分の出る幕はないと判断できたら、潔く引き下がることも大事だと言われます。

メサイアコンプレックス的な人の助け方(またはリーダーシップ)は、どこか中途半端とも言われます。それは、そうした行為が専門的な知識を必要としているものだと認識しておらず(学んでおらず)、感情につき動かされるかのような 助け方やリードの仕方をしているからであると言われます。

メサイアコンプレックス的な救済は、他人の不幸に居場所を見出し、とてもひどい場合は自己満足のために他人の人生を消費します。
言葉の節々に「助けてあげる」「私の言う通りにすれば大丈夫」というニュアンスがあまりに強く込められていることは相手の立場や能力を過小評価し自分こそが正義であるとする、歪んだ認識によるものです。これにより、目の前の人に適切に手を差し伸べられていないどころか、不快にさせている可能性を自覚することが重要とされます。

結論、こうした現象を防ぐためには、自分の状態に自覚的でありながら、リーダーシップやマネジメント、人助け・人の支援も、プロフェッショナルになっていくように、日々研鑽を積むことがまず第一の予防策でしょう。


課題を分離する

スキルの習熟に関連して、本質的かつやりやすい方法として「課題の分離」というコンセプトも挙げられると思います。

これは「嫌われる勇気」で有名なアドラー心理学の中に出てきます。

課題の分離とは、「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を吞ませることはできない」ということわざに代表されます。相手の意思決定や相手の感情は私たちにとって直接コントロールの効かないものです。なので、相手がどうするか?に関しては究極的には自分と関係無いとして、自分は自分がやれるだけのことをして、あとは委ねる。というような考え方です。

”他者の課題には踏み込まない。それだけです。”
”およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと──あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること──によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。”

上記記事より

われわれは、ついつい他者と自分を同一視して相手の心に入り込んでしまいますが、自分が責任を負うわけではない課題には立ち入ることはよっぽど責任を負う覚悟が無ければ避けた方が賢明でしょう。これが対等な人間関係であれば成り立ちますが、地位(ランク)の差があるときはついついこの罠に陥りがちだと感じています。こうした関係性を結ぶことができれば、他者の問題に振り回されず、搾取の無い関わりになれそうです。
しかしここまでフラットで、人情味のあまり無い、プロフェッショナル的な関わりを常に意識して持続させることは、それはそれで現実味に薄いところもあると感じます。

そこで別のアプローチも考えてみます。


自分の痛みを受け入れる

メサイアコンプレックスは、自己を肯定できないほど心が傷ついていることで、そのSOSのサインとしてそうした行動に走るとも言われます。

自分はヒーローでは無いと認識すること。そして、ヒーローである必要もない、人生のどこかのタイミングでそうした役割(ロール)を”拾った”かもしれませんが、そのような自分は作られた(選択した)自己であり、必ずしもそうした自己にこだわる必要はないと捉えると良いでしょう。

「自分が”ヒーロー”ではなくただ”自分”であり、そこには(イメージで膨れ上がった)特殊な能力があるわけではなく、ただ自分が現実として存在するだけである」と認識する必要がありますが、こうしたことを受け入れることがそれまでの自己イメージと大きく変わる場合、強い葛藤・抵抗感を覚えます。

その場合、ヒーローという立場にこだわる自分の考えの奥にどのような傷や欲求、願いが存在しているのか?そうして心の奥の”声”に自覚的であることで、そうした自己の”影”の側面を暴発させて他者を支配することが避けられます。

自分の奥に眠る、”感じてはいけない”欲求(例えば「人を支配して自分のコントロール下に置きたい」など)は、それに蓋をして、自分の欲求をかき消すのではなく、(行動に移さずとも)欲求に気づくことが重要とされます。我々が自分の奥の欲求に無自覚であったり否定していたりするとき、実はその奥の欲求が自己の問題を起こす側面(激しい  怒り・悲しみ)として日常に現れます。しかし自分の”影”の側面に光を当て(=関心・注意を向け)、忘れていた自己の側面を”見る・発見する”だけで、そうした欲求・欲望は制御不能なものではなく、自分の中の1つの大事な側面として、取り入れられていくと言われます。

ちなみに補足しますと、影(シャドー)とは心理学の用語です。”影”は端的に言うと、その個人の意識によって生きられなかった側面です。つまり文字通り人生の日の当っていない方=”影”です。影の内容は、たいていの場合、その人が許容できない自己の側面です。私たちの心はある種の価値体系(いわゆるメンタルモデル)をもっており、その価値体系に基づく判断により自分に必要無いと判断されたものは、無意識下に押し込められ抑圧されます。ただし、影は常に悪とは限りません。影は今後の人生において、表舞台に現れ、過去には生きられなかった自己を生きる道しるべとなることがあります。今まで否定してきた自己や世界の諸現象の中に肯定的な要素を認めて、それを自己の意識の中に取り込んでいくことが、精神の本質的な成長とも言われます。


自覚する

また上記の自分の奥の欲求に注意を向けるということに関連して、そもそも自分の状態を意識して自覚することも良いアプローチだと考えます。

自分の傷と向き合うだとか、”自己の肯定”などという言葉を聞くと、”ポジティブ思考になろう!”というようなメッセージと受け取る方もいると思います。しかし、”自己の肯定”、”自己肯定感を高める。”そしてそのために自分の心に向き合う、ということが必ずしも良い解決策とならない場合もあります。

その場合、心の奥に向き合うというよりも、シンプルにただ状況を”自覚”する。というだけで良いと思われるケースもあります。

そもそも”メサイアコンプレックス”的な振る舞いは、他人から指摘されるということは(大人になればなるほど)基本的に考えにくいです。自分がメサイアコンプレックス的になっている場面に対して、自分で気づかなければ永遠に分からない可能性が高いです。

そこで自分の中で何か違和感の残る瞬間や、何か違和感の残る反応を他者にされたときは、そうした可能性を考えてみて、自分の状況を客観的に”自覚”するように努めるのもいいでしょう。

そして、そうした違和感に自覚的になる、その違和感が自分に訴えかけてくる感覚に敏感になるということで、新しい気づきが生まれます。

自分が他者と比べて客観的に(理由もなく)違う行動をとっているときにも、違和感を持つと、自分がしたことを自分が同じようにされた場合、どういった気持ちにはなるのか考えてみるとメサイアコンプレックスのチェックになるかもしれません。

こういった捉え方を日ごろから意識し、自覚することに注意を向けることは、メサイアコンプレックスのみならず、他の心の癖(クセ)にも気づく習慣づけとなると思っています。


メサイアコンプレックスである自分を否定しない

また、一方でこうした”自覚する”・”痛みを受け入れる”アプローチは、やり方を間違えると、その行為自体を自罰的に行ってしまうケースもあります。つまり、こうした行為には「自分は”メサイアコンプレックス”と呼ばれるような”悪い”行いをしているかもしれない。もっと自分を律する必要がある!」と思い込んでしまい、自分の行動をどんどん制限していくことに繋がることがあり、そこには注意が必要です。

そもそも、メサイアコンプレックスと呼ばれる行為に陥ってしまうことは、根本的には自己を肯定できていない心理から発されるとされています。ということは、禅問答のようですが、メサイアコンプレックスを発揮している自分自身も受け入れゆるすことが、本当の意味で自己の存在の肯定でしょう。自分自身のコントロールの効かない部分も自分自身であると認めること、それが逆説的ですが自分の中のどうにもコントロールの効かないところを治めていくことにつながるとされます。

「メサイアコンプレックスなんじゃないか自分は?と」疑い、「だから自分はダメなんだ」「だから自分は生きる価値が無い…」となっていく必要は無いと思います。むしろそれでは本末転倒だと考えます。誰しも多かれ少なかれメサイアコンプレックス的な側面はあり、またここまで批判してきたメサイアコンプレックス的な”救済”が必ずしも全て悪い結果になったか?というと言うと、良い側面もあったと思います。自己の精神が他者の存在を喰らう場面には注意が必要であるものの、それもまたこれまでの自分のパーソナリティの1つの大事な要素だととらえられると良いのかもしれません。

結論、ここまであたかも”悪”として論じてきたメサイアコンプレックスもまた一つのパーソナリティであり、それ自体深く考える必要はあまり無いのかもしれません。

人間社会は助け合いで回っています。メサイアコンプレックスであることを過度に疑い、助け合う習慣まで消えてしまうと、人間が共同体を成り立たせている良い側面まで抑圧されてしまうと考えます。なので、こうした概念は忘れて、自分の心に従って、人として必要な人助けを行っていくことが重要かもしれませんね。

ここまでの話を全否定?するかのような結論ですが、とにもかくにも、「メサイアコンプレックス」のような概念に過度にとらわれる必要は無いと思います。しかし、「メサイアコンプレックス」という言葉の枠組み・スコープで世の中を見る/自分を考えることそのものは非常に有益だと思うので、ぜひご自分でもいろいろ考えたり調べたりしてみてください。

以上でメサイアコンプレックス・シリーズの連載を終わります。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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