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創造(Creation)の方法について、おぼえがき。

※どんどん追記したら1万4千字まで膨れ上がりました。長いのでご注意。普段はあまりオモテに出さない僕の仕事の仕方のような内容になってます。

・思い浮かぶことを順番に書いてます。

・知らない人のために一応説明しておくと、僕の本業は創造活動のお手伝いであり、このnoteに書いてるような内容です。
(ただし、僕にとっては創作にも真剣だし、哲学的な研究にも真剣で、すべてを一体にとらえてはいます。今回はその中でも、創造活動の方法に話をフォーカスして書きます。)

・ここで言う「創造活動」とは、芸術が絡む事業だけでなく、理念の体現を第一の目的とするビジネス等の事業を含みます。社会性のある活動のほとんどが、創造活動である(ないしは、その側面がある)と僕は解釈しています。


最近行っていた/行っている、複数のクライアントさん向けの創造支援(会社活動を組み立て直すお手伝い)を振り返っていま感じているのが、やはり抽象度の高いレベルで方針が定まると、具体的な制作物の判断が迅速かつ精確にくだせる感触があるなぁということ。という話を記事のきっかけにして、いろいろと普段から思っていることを書いていきます。
 

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まず、抽象度の高いレベルで方針が定まることで、具体的な制作物を作るときの判断が良くくだせるとはどういうことかと言うと、理念レベルの話や、その事業活動で実現したいことについてこれまで考えてきたことの膨大な思考の足跡や、その分野において必須となる専門的な情報があればあるほど、それらを整理し、方針化し、創造活動の末端までを良くデザインできる、ということになります。

方針とは、理念(大コンセプト)の言語化からはじまり、その理念を体現するための行動の"方向性"(理念そのものは力(パワー)であり、方向はまだついていないと思っています)、そしてやりたいことの総体である"構想"や、その活動のお客さん等関わる人がどのような体験を得ることを目的とするのか?という体験設計の指針、またその体験を実現するためのコンセプトの複数の軸(中コンセプト)、この活動をはじめた理由、背景から、今に至る歴史と、そこから紡ぎ出される未来への指針など、
その活動における、最も重要な話をまとめたものになります。ただし、それだけはかなり抽象的な言語表現であったりするので、それは実行計画に落とし込む形よりもまず、実行時にチェックリスト(理想の方向に向かっているか?をチェックする)として使うことが簡単な使い方でしょう。

言語化して整理しないよりは、方針を言葉で表現し、整理することの価値は絶大です。みんな口頭でこれらの会話は行いますが、抽象度の高い領域の話であるがゆえに、口頭だけだと全然話を忘れてるし、人によって解釈が全然違うということもあります。また、活動にはさまざまな側面があるため、会話の機会によって、注目される側面が毎回かわり、活動の代表以外、誰も全体像を把握していない状態にもすぐなります。人によって見ている面を揃えたり、解釈を揃えるためにも、プロジェクトのオーナーを中心に、この方針を言語化し、体系化しておくことが後々効いてきます。

この一番の効能は、今この目の前の行動によって、なぜこの莫大な構想と、価値あるこの理念が達成できるのか?なぜこれが達成されるのか?というロジックがそこで表されることです。むしろ、そういうロジックが表されているものにまとめることが、方針の言語化・整理の目的とも言えます。それによって、目の前の行動の価値が何百倍にも膨れ上がります(逆に言うと、小さく見える行動でも、本当は莫大な価値を持っているのに、それに自覚していないがゆえに、その効果が全然引き出されてないということも起こります。通常はそういうケースばかりです。)


よく起こるケースとしては、この方針の言語化と体系化をしていない場合、その創造活動のメンバーの間で、コンセプトの話をする場ではその話が盛り上がって意気投合するけど、具体的な実行の場では、そこで話した内容の大事だとおもっている点がズレていたり、資金をどうする/人員をどうするとか現実的な制約条件に引っ張られて、全然コンセプト関係ない行動目標に向けて(よかれとおもって)行動が始まったり、するものなのです。お金稼げるようにしてあげるよ、的な。(いやいや、そういうことじゃないんですよ…)


つまり、コンセプト等の抽象レイヤーと、行動計画と行動という具体レイヤーが、繋がらなくて、いくら頑張っても、何か思ってたのと違う平凡なことしか生み出せなかったり、仲間同士の溝を深めたり、という事態になるのです。
そのため、方針作成とは、かなり重要な仕事となります。ここさえできれば、1つのコンセプト、100の表現と言うように、統一感を持ちながら、あらゆる行動が1つの理念のもとで、それを表現する総花的な表現として、場の価値の体現に資することになるのです。 
この方針作成は、言語化不足のケースと、思考不足のケースとあります。言語化不足であるとは、整理ができていない/文書等の形に残していないだけなので、プランニングを手伝う私のような人間によってお手伝いすれば、すぐ解決することも全然あります。人間や、創造場の全体性を記述に落とし込むとは、その当事者には以外と難しかったりするので、その外部の者が、全体を把握しながら記述するという役割を負った方が早かったりもします。言語化不足とひとくちにいっても、整理ができないとは、その要因に思考不足を抱えていることもあります。

一方で、思考不足のケース(本当は思考の不足ではなく、感じることの不足や、感じたことをまとめ上げることの不足と言った方が正確ですが。)とは、理念や構想についてアイデアが無い/見えてない状態なわけですから、こちらの方がより難しいです。(言語化不足なだけだと思っていたら、実はこちらのケースであるということもあります。)
そして、これは本当に難しいです。特に創造活動の代表たる立場とは、常に暗中模索の状況であり、現実的な課題も多く、「言語化不足のケース」に対比して、「思考不足のケース」なんて簡単な言葉でまとめちゃいましたが、これほど根源的な課題はないし、これは生きることそのものの困難さとほとんど同列と言っていいほど難しいことであります。

この神秘的な行為を自然な時間の経過を待たずに、意識的に行っていくということは、「インスピレーションを待つ」「自分の心が向かう先を捉える」という、非常に繊細で微細なシグナルをキャッチし、これを自覚的に身体化・言語化するという高度な技となってきます。通常これは、自然と時間をかけて積み重なっていくことによってみなさん達成されているものなのですが、これに、さまざまな観点(問い)の導入と、創造活動の代表たちがじっくり考えをまとめていく時間を導入することによって、支援者がその方針が紡ぎ出されていく補助を行うことができます。

それには、一見全く事業とは何の関係も無いような話(幼少期どうだったとか、どんな親戚がいてとか、〇〇が趣味で好きで…とか)が、圧倒的に重要な役割を果たします。そのような背景を、人生とこの創造活動の膨大な物語を語ることでしか、自分の創造場と、自分の技術が、やろうとしていることの声とは中々聞けないものなのです。

また、そもそも、日常的な雑事を棚に上げて、こうした話題についてゆっくり考えられる、非日常的な時間(と空間)が設けられることも絶大な影響をもちます。舞台さえ整っていれば、演者は自然と自らのうごきを見出していくものだとも言えるのです。支援者とは、介入するのではなく、ただ注意(Attention)を向けながら、見守ることが本質的な仕事となり得ます。

そしてまたこの方針を紡ぎ出すプロセスに、われわれ支援者は介入ができるようで実は全く介入ができないと自覚することも重要です。われわれが勝手にクライアントの指針をつくるということは、クライアントの物語を自分の物語に書き換えてしまう(創造の源が変わる)ことになってしまうので、時として潜在的な害にすらなり得るのです。

その影響は、われわれが支援の手を辞めた時に顕在化する(創造活動のうち、われわれ支援者が担っていた特定の行動の効能が一気に無くなる)ため、中々気づきにくいですが、それに自覚的であることが重要です。そして、クライアント自身が方針を紡ぎ、われわれはあくまでも思考するための"観点"の提供と、アイデアの提供にとどめ、それを選ぶかどうかは、クライアント自身の納得に委ねるしかないと思うのです。
ただし、アイデアを(選択肢として)提供した時点で、それはこちらのインスピレーションでもあるため、創造の責任(流れ)が生まれていると解釈しておいた方が良いでしょう。クライアントの物語に片足を突っ込んだ以上、支援者もまたその物語の一キャラクターとして登場する側面が出てくるのです。人と人が関わるとは、必ずそのような側面を持つのです。われわれは生きているいかなる場面においても"傍観者"であることは、世界に認められていないのです。


そのため、人が人にきちんと関わるということは、少なからぬ影響を発揮するもので、私たちが補助的に関与していることで、暗黙的には"選ばせている"内容もあるかと思います。その行動内容等は、クライアントの中で自律駆動しているのではなく、われわれが命の息吹を吹き込んでいる内容なんだと自覚していないと、われわれの手を離れたときに、しぼんでしまうかもしれません。もちろん、クライアント自身の能力の拡張によって、行動内容の総体のすべてがその手中に収まるように(クライアントの魔法がかかるように)役割分担の微調整や、行動内容の微調整を加えることも重要な仕事であり、そうすることで、上記のような"しぼむ"事態を防げます。支援者の手を離れると無くなってしまうのであれば、その支援とは、クライアントにとって資産になるのではなく、あくまでも一時的な消費になってしまうので、クライアント(というか、その創造活動という生き物)の持つホメオスタシス(恒常性)の原理に対して、こちらから適応する/馴染ませるような働きかけをして、創造場からの免疫反応によって、剥がれ落ちないように最新の注意を払って、マージする(結合する)必要があるのです。

 

 

 

さて、話の本題は実はここからなのですが、ここまで語ってきたこのような「方針」とはどこから来ていて、真に意味のある方針はどこからやってくるのでしょうか?特に、自分が創造の主体であるとき(支援する立場ではない)、どのようにしてその方針をキャッチしていけば良いのでしょうか?
ここまで書いてきたような、方針を立てることの重要性と、そのアウトプットの形や、また方針策定の支援をどうやるか?という話は、まだ比較的語られている話ではありますが、

創造活動の主体であるこの"私"が、どうやって方針を紡ぎ出すのか?というテーマは、あまり語られていないように思います。そこは「皆さんよしなにやってください、、、!自分のことだし、できるよね、、!」みたいになってます。



まず、ここまでの話の総括としては、「方針部分」なく実行に実行を重ねて活動を展開しようとすると、結局は自分たちが作ろうとしている創造場*(Creative Field)がどのような姿で何を実現しようとしているのか?という、宿命じみた道筋を見つけることができず、手段のための手段におぼれて、結果的に随分と遠回りをすることになります。
*創造場(Creative Field)・・・創造活動の目的は、その活動の究極的な価値を体現する「場」の力を展開することに収斂していくと考えています。

日本の大企業の仕事とかもらうと、この空回りする実行のやり方の様子がよく分かります。方針がないので、定まっている方針さえあれば3ヶ月で終わる仕事を、1年くらいかけてじっくりコトコトやっていて、しかも質も中々上がらないのです。お金と時間が大量に投下されるわりに、結果は結構平凡ですが、それは普通なことなので誰も一応気に留めません。

反対に、この方針が定まれば、スムーズかつ精確に行動を取ることができそうですが、ではこの方針の正体とは一体なにで?それをどのように見出すのか?

いろいろと思考過程はありますが、それをすっ飛ばして最重要な気づきを先にお伝えすると、
この問いへの考えを深める中で気づく最も驚くべき事実とは、究極に抽象的な存在(すなわち、方針やビジョン)とは、翻って最も具体的な領域へと入っていくということです。すなわち、自らの身体性、ないしは意識の深まり、そのような領域から、感じ取るものを言語化したものが実はコンセプトなり、方向性となるだけであって、とにもかくにもその方針とやらの原型とは自らの身体が感知し醸し出すなんらかのシグナルであったと気づくのです。そのためビジョンとは、それが純正に身体性を起源に持つものである限り、言語になるまえの領域にその本体があり、それは身体の動きや、身体の動きの延長としての非言語的表現(=芸術等)によって伝えることすら可能なのです。

このような構造に気づくにつれて、自らの身体性を開くということの重要性に気づき出します。
開かれた身体性からは、思考的に情報を処理するのとは違ったレベルで、創造活動の指針を汲み上げることができます。情報の整理とは、過去に誰か(それは自分を含む)が生成したアイデアや概念(事実を示す数値等も概念である)を、整える作業であり、それはあくまでも過去と対話しているに過ぎません。つまり、思考的な情報の処理とは、今この時点から未来を生成する行為には、なり得ないのです。
ただし、概念と概念に対峙しながら、インスピレーションが湧くこと、このような概念の整理作業は、情報の処理とは質の違う行為だと思っており、インスピレーションを誘発する点で、未来生成の端緒になり得るということを追記しておきます。

現在において、新たなアイデアを生成し、インスピレーションを得る行為こそ、活動における未来の新しい次元を開きますが、これを司るものこそがクリエイティビティだとよべるでしょう。

ここを感知する感性の開かれがあれば、その後の工程は、再び思考的なプロセスに譲ることができると思います。まず感性が先手で、出現する未来を感知し、その後に思考が後手で、活動目標の整理と、行動計画までの落とし込みを行う。

創造活動の方針とは、それをより具体化し、その目的・目標がどんな構成要素でなりたっているのかをある程度概念的に整理し、さらにそれぞれの構成要素で実現したいことを描いていくことで、計画に落とし込むための下準備ができます。

その実現したいこと達に、時間軸という概念を加えて、4次元領域(抽象度の高い、実現したいことのイメージの総体)を、3次元領域(われわれが1年ずつ年をとっているらしい、この線形的な時間軸の世界。社会が回っている時間軸の世界)のプランへと落とし込みます。

このとき、長期的なプランをある程度立てつつ実行のフェーズを分けます。フェーズというある程度漠然とした単位での時間の分け方を用いることも重要です。
創造活動の未来について、われわれが感知している内容は、長期的な活動の究極形態(大規模な。)と、または数年以内に実現できそうななんらかの内容あるイメージと、そして本当に直近で実現できる具体的なアクションと、
それらに分類されると思います。
人間の主観的なクリエイティビティの発揮に着目すると、実はわれわれが計画をまともに立てられるのはせいぜい数年後までて、緻密な行動計画を立てる合理性があるのは1〜2年程度だと気づきます。
人数が増えるほど、緻密な行動計画を立てる合理性のある期間は伸びます。5年分立てても問題ないこともあるかもしれません。

しかしある程度少人数の活動であればあるほど、そこに計画のゆらぎをもたせることが重要で、計画のための計画、すなわち"視えて"なくて実感のない言葉でつくる嘘の計画は、逆に自分たちを縛るだけになるので、辞めた方が良いでしょう。
計画とは、思考的な産物であるため、必ず感性側で感じていることとのズレが生じますが、それを都度都度チューニングして、常に計画への"実感の反映されてる"度合いを高めることもまた、創造の担い手に求められる行動だと思います。

そこで、この実感となるべく合致している、直近の実行のフェーズを作るという行為が重要になります。これにより、インスピレーションの湧いてきた複数の行動目標に対しての実行の働きかけがやりやすくなります。まず直近の未来、すなわち自分のこの意識がまだ変容しきるまえの、"今の自己"が作るべき内容、達成するべき目標とは何か?を考え、それを第一フェーズとします。
そして他の実現したいことを、第二、第三と、つづくフェーズにうまく配置する(年単位・数年単位での目標に配置する)ことで、それらを考えなくても良い、という状態に持ち込むことで、まず第一フェーズの実行に集中することができます。遠い未来で何をするか?についてのフェーズ設定なり、目標を設定することの効能の1つは、それをいま考える必要性が薄れる(保留できる)ことにあると思います。

また、第一フェーズへの実行に集中するためのコツは、そのフェーズでの目標を達成することで、芋づる式に残りのフェーズの目標も達成することに近づけるようになっているか?を注視することです。
活動の段階が、芋虫がさなぎになり、さなぎが蝶に変態するように、このフェーズの目標を達成することで、第二フェーズ、第三フェーズの目標到達にジャンプアップして近づくか?われわれは芋虫からさなぎへと変容を遂げることができるか?を感じながら、直近のフェーズの目標が設定されていれば、
まず目の前の目標に対する納得感も出てきて、思考的にも身体的にも違和感なく行動に向かえるものです。やる気が出ないなどの身体的な拒否反応があるうちは、そもそもこのフェーズの組み立てで躓いていることが多いことでしょう。
もちろん、そもそものビジョンなど究極目標に納得していないというパターンも多いと思いますが。

さらに、この第一フェーズにおいて達成すべき目標とは、いまこの瞬間に実現したいことすべてを"最小単位"で実現できるか?という問いに答えるべく突き進むことになります。
大木も常に最初は種だったように、種という最小単位は、規模は違えど、大木がもつすべての構成要素を同時に持つことができます。 
どんなに小さな目標であっても、このように"種"としての性質をもつアクションになっているか?を常に振り返ることが重要です

未来に起こり得ると感知したそのインスピレーションも、実は"今"実現すべき/実現できる ことかもしれないのです。安易に、そのビジョンの視えた姿に引っ張られる必要はなく、3次元的な時間軸における"未来"に、それを配置する必要はないのです。感知したのは"今"なので、どれだけ実行不可能に見えても、感知した今できる最大の行動で、鉄を熱いうちに打って、なんらかの成果物を生む("種"性質をもつ状態の成果物を生む)ことが最重要であることだって、あるのです。
身体は、時間の無い時間(遠い未来をふくむ時間)を生きていると同時に、"今"を生きています。常に今です。
身体は、3次元的な未来(例えば数ヶ月後とか)は意外と分からないものなんだと僕は思っています。体に衝動が生じたなら、それは今やるということ、である可能性もあるのです。
体から生じるインスピレーションの中でも、壮大なものが、繰り返し繰り返し、時を超えても現れるなら、それはかなり長期的にとらえても不変な活動目標/目的だと言えると思います。
そのあたり、敏感になればなるほど、見極められると思います。

今、身体に起こる衝動は、
小規模な形で、本来やりたいほどには体裁も整っていなかったとしても、その実現したい価値という次元では、それは今すぐ、今日、実現できるものである可能性があるのです。体裁よりも、価値です。また、その価値とは、受け手の心と体に生じることによって、その存在が認められると考えています。そのため体裁の本質的な役割とは、受け手がその価値を受け取ることを促すデザインとなっているか?(そのような経験を生み出せているか?)であるとおもっているので、必ずしもすべての体裁がすべての人が納得する形に整う必要はないと捉えます。体裁を整えること自体を目的化すると、そこでいのちが死にます。(ということだってあります)。つまりそれは、命なき装飾として空虚なものになるのです。

最小単位であっても、その活動(その創造場)が体現しようとしている価値を、体現することが、本質的な場の成長となり、そこから生み出されるプロダクト/モノ/体験/サービスの質が、根本的にユニークかつ意味のあるものへと成長していくと考えています。水平的に、幅の広がりをもたせる成長なのではなくて、垂直的に、次元を超える、変容的な成長(発達)となるのです。

こうして、活動の全体性を保ちつつ、目の前の目標を、1つずつ達成していくような形での成長が、結局は取りこぼしの無い成長の軌跡を描くこととなり、見捨てられたパーツによる嘆きの逆襲を受けることなく、持続的に成長していくことに繋がるのです。
「見捨てられたパーツによる嘆きの逆襲」とは、往々にして妨害者(となる具体的な人物)の出現によって行われます。他の、もっと社会的・ないしは精神世界的な、妨害/Stopがかかる ということもあり得ます。

すなわち、この「活動の全体性が保たれた成長がどれくらい達成できているか?」が最重要指標であり、どれくらい金銭的な利益を生めているか?とか、名声を得ている、人望を集めている、などは副次的な指標です。そこは、前者の出来具合によって、時とともに簡単に移り変わるものなのです。前者の成長が継続的に発生していないのであれば、後者の副次的指標も栄枯盛衰のサイクルに従って簡単にしぼんでいくものです。
もしくは、副次的指標を追っていると、その活動を進めている人の心が死にはじめます。そうなる場合もまた持続しないですね。

この、ビジョンの実現を、最小単位であっても達成するにはどうしたら良いか?という問いの答えになるようなアクションプランを立てることが、まずプランニングの重要な仕事となります。これが、今からのスケジュールを、生活を、決めます。

最小単位であってもビジョンがその場で実現されることによって、その創造活動の真価は、未来のある時点で出現するナニカ(しばしば絵空事と思われるようなもの。)となるのではなくて、今この瞬間から体現される1つの創造場(Creative Field)として確立・展開され、たとえ少数であったとしても、その場を体験した人がその真価を感知することができるほどに、力を持ち得るのです。未来が、"今"に実現されるのです。


また実際のこの実行局面において、アクションプランを実行するとき、この活動の末端部分の「制作」において、そこで具体的な事物に判断を加えるセンス(感性)が重要であり、それを下支えする身体性が再び話に絡んできます。

実行部分とは必ず手など体を動かして実行するものです。
実行とは、以下のような基本的な単位に分解して考えることも可能です
・情報を得る(調査する)こと(情報=他人の過去のアイデア。もしくは他人がなんらかの現実の事象を抽象化して概念としたもの。過去の産物。とにかく、自己の内から湧いてきているアイデアではない。)
・情報を整理すること(情報・概念の整理。過去の産物の編み直し。アイデアの水平移動。)
・アイデア(概念)を生み出すこと(自己の内から起こる、アイデアの垂直的な生成)、
・情報やアイデアをコミュニケーションへ落とし込むこと(人へのメッセージへと意味内容を整形すること、ないしは人(未来の自分ふくむ)への行動指示にすること。他者に向けられたすべての言葉は、それはしばしば暗黙的・無自覚的であるが、なんらかの行動を促すようにデザインされるという点で、メッセージと行動指示の境い目は本質的にはかなり曖昧である。)


このようにある程度分解して考えると、実行局面においても、アイデアの生成はもちろんのこと、情報の整理の仕方をとっても、その整理の基準(というアイデア)を生むという場面もあったり、
また調査においても、数ある情報から中からナニカを選ぶという行為があったり、

「思いつく」という高度な行動はもちろん、そこに「選ぶ」という行為さえ1つでも存在するのであれば、確実にそこで発揮されるのが、決定基準となる非言語的な基準、すなわちセンス(感性)です。

ここで、このnoteの序盤の話に戻ります。note序盤の話とは、方針なりビジョンという、活動の企画レベルと言える抽象領域の源とは、創造の源泉となる人間の身体性から湧き出るものであるという話です。

実はこの具体的な制作局面においても、このビジョンの湧き出る身体性と同じ身体性で作れば、自ずとコンセプトに合致するものが浮かび上がってくると思っています。

「思いつく」ときにそれを下支えしている身体性はもちろんですが、「選ぶ」ときのセンス(感性)もこの身体性(コンセプトを体現する身体性)への自覚とチューニング(焦点を合わせること)によって、活動の本義に沿うものになると考えています。


身体性絶対主義者というわけではありませんが、結局は身体性に回帰するのです。途中で自我機能(思考機能と言っても良い)も介入し、身体性⇔自我は、循環していく関係性にありますが、起点は常に、身体性なのです。

この循環とは、身体性から湧き出た創造の源泉たる感覚を言語的なコンセプトに落とし込み、さらにそれを自我が解釈し、記憶することで、その言語的コンセプトを再度身体化する、と言えます。形式知⇔暗黙知の循環と言っても良いでしょう。身体性の訴えるメッセージは、われわれの日常的な意識(自我)がそれを捉え、認識すること(自覚すると言います)で、身体に定着します。

そのため、その自覚行為には意味があるのです。コンセプトを言語化とは、本質的にはこの自覚の行為です。溢れる身体性の感じるものは、一瞬しか、自我では感知できないことがあります。その神がかり的な自己を自分が認識する短い時間だけではなく、調子の悪い日をふくむすべての日常的な自己が、その感性を引き出し、体現できるようにするために、言語化と、コンセプトの再身体化を、行っていくのです。自身の状態に左右されず、感性の平均的な位置が、そうやって変化していくのです
 

実行局面において、こうした感性の存在を軽視して、言語化したコンセプトに固執するあまり、理論的・コンセプチュアルにものをつくろうとすると、これが思考的になりすぎて、逆にコンセプトを体現できないという事態に陥ります。これが、一見高尚なのに中身が無いと感じるいろいろな制作物の正体です。

また、中身が無いと感じるものは、必ずしも説明過多な制作物に限りません。業界や他人の常識に無自覚に従いまくっている状態も、それがコンセプト(概念)の世界に閉じ込められて、感性に開かれていないという意味で、同質です。一見して思考過多ではない場合、そもそも考え尽くそうとするほどの本気度がないか、もしくは素朴さを保とうとしている、ピュアであろうとしているのか、そのどちらかだと思います。ピュアであろうとして、それで言葉が弱いままでいるからと言って、本当にピュアでいられるとは限らないです。どうしても言葉の世界(常識)に押し流されてしまう人間の弱さには、言葉の武器をもって防波堤を築くということも重要なのです。言葉の世界をうまく泳げて、かつその力を踏み台にピュアで在るということが、僕は可能だと思うし、それは持続的にピュアで居られるという点で、強いピュアだと思います。「弱さ」を貫けるということです。

もちろん、言葉の世界を使わずにそのような行動ができるのであれば、それはもうできるに越したことはないのですが。つまり、常識をそもそも感知せず、もしくは感知したとしても自分の知覚世界にいれさせない、無言で跳ね除ける、というくらいのピュアさが元からあるならそれは貴重なことだし、変えない方が良いと思います。生粋のアーティスト性です。たとえ社会的には生き苦しさがあったり、社会との断絶を感じたりしたとしても、それはとにかく非常に貴重な才だと思います。



話を戻すと、コンセプトを体現するためには、
計画を立てるという、非常に思考的・言語的な活動も必要で、その力は絶大です。この計画を立てるという行為は、時間軸や現実のリソースという制約条件と向き合う必要のあるレベルでは機能します。すなわち、3次元世界との向き合いなのです。

一方で、本当に具体的に、人が触れる制作物をつくる局面においては、思考を離れて、センスで行くべきで、それは扱う対象が現実に触れられるものだからです。

コンセプトが言葉遊びで作られたものではなくて、溢れる身体性に正しく言葉を当てはめようと努力してつくったものであるのであれば、再度その身体性を宿した感性を基準に「選ぶ」ことで、つまりそのセンスに従うだけで、結果的にコンセプトを達成するこができるという状態が生まれるのです。

ここに、思考的なコンセプトを一旦忘れるという意味で、身を丸投げして事物に向かうような姿を人に見出す人もいます。なぜ身投げに見えるかと言うと、自我=思考とすると、自分の今の感情や思考をすべて一旦放棄し、記憶の断絶を自己に許し、自己を精神的に一度捨て去ることによって、身体=感性の領域へと、再び舞い降りることができるからです。これは、「練習」と「本番」の違いとも言えそうです。「本番」は、考えてもたもたしている暇なんて、ないのですから。

ここに、言語的な説明や計画から、急に具体的な事物の生成へと飛ぶ、という、クリエイティブ・ジャンプが発生します。

このときのクリエイティブ・ジャンプを起こすときの、創造の発揮の源となる身体性は、(本来は)コンセプトを打ち立てたときの身体性と同一であるため、思考的な手順がほとんど介在していなくても、全くもって、長期的なゴール、フェーズ、行動計画に沿った形で、コンセプトを体現する物が作れてきます。つまり、自我を放棄し、身体に任せるとは、飛ぶという意味では怖いですが、それが絶対に本来やろうとしていることを体現してくれるという意味で、信頼もできるのです。しかも、その成果は往々にして自分の予測範囲を超えてきます。

つまり、出来上がったものを見ることで、よりその言語的コンセプトの意味を理解することができ、その場の成員たちのコンセプト理解が深まり、言語に実感が宿り、ここで長期的なフェーズ設定や、直近の行動計画を省みて修正する契機とまでなります。そのようなレベルまで行けることが、具体的な事物を正しく生成することのパワーです。

具体的な物の生成が、抽象領域で構築してきたものに、跳ね返りを浴びせるわけです。物の制作は下流で、企画が上流で、企画の方が偉いみたいな偏見が、特にビジネスの世界ではあったりするわけですが、そんなのは欺瞞です。企画領域・計画領域は、物の制作による破壊的なインパクトを後追いすることしかできないのです。

そのようなインパクトを生み出せるほどの物や体験が作れているのであれば、そこでの物の生成はおそらく上手くいっていると言えると思います。反対にそれくらいのインパクトが生じないのであれば、それはどこかで物の生成の手順においてミスをしている可能性があります。その場合は、企画が上流で、そっちが偉いみたいな構図は言えるかもしれません。物に魅力がないので。ただし、良い物を生み出せていないという意味で、企画側の質も大変に疑われます。その場合、企画の質も低い可能性が非常に高いです。

とにかく、考えを実現する、物を生成するとは、この世界の不思議に真っ向から向かい合う魔術的行為なのです。物を創造するという人間の営みは、多分に魔法のようなものです。

具体的にすごい人を思い浮かべてみても、自分にはできない技を身につけていればいるほど、なんでそんなことがこの人はできるんだ!?というような"魔法遣い"じみた印象を受けます。人はだれしもが、時間をかけてなんらかのすごいことができるようになるという意味で、やっぱり魔法遣いなのだと思うのです。

そして実際、ものをつくることは魔法なのです。それは、超現実的であるという意味ではなくて、むしろあまりにも現実的で、リアルで、現実の深みを顕わにするという意味で魔法なのです。本当にうまくやれたら、の話ですが。
これが、言語による"嘘"を組み合わせて物をつくると、世界は(現実は)正しく応答しませんから、どうも微妙な物しかできないのです。それをみる人、使う人、体験する人が、何の感情も湧かない。
いかにもっともらしい言い訳を並べても、やはりその物を使う人、見る人、体験する人が、うまく物の価値を感じないのであれば、それもやはり生成の手順の中でなんらかのミス(おそらく、言語をこねくり回して"嘘"を生成し、その嘘言葉でコンセプトや計画を構築していった、ひいては実行時の選択基準を誤ったというミス)が生じていると思っていいでしょう。

もちろん、体験の設計とは、誰が?(どのような人が?)体験するのか?というWho?の要素の"文脈"の影響が強烈にあるため、すべての人が価値を感じ取れる必要は一切無いと思います。

そのため、ここで想定している"失敗"とは、
その体験を受ける想定をした人物から実際にもらったフィードバックとして、こちらが思っていたほどの体験価値が無かったのであれば、それはこちら側の構築に問題があった可能性があるという話です。相手に、価値が届くように、相手側の感性にこちらからチューニングを合わせて、コミュニケーションをとったり、物をつくったりすることも、体験デザイナーの責任範囲でしょう。

ただ、他者の体験のすべてがこちらのコントロール範囲内なんてことはありえないわけで、受け手側もまた自身や他人がつくった"嘘"・"常識"によって感性にフィルターをかけて体験をしにくる可能性があるので、そのあたりは、少し手のつけようのないところもあります。
ただ、それは環世界(その人が認知できる世界)が各々違うという点で、必ず発生するものですから、問題はそこで、相手の反応が思ったり全然だめだったときの、自分の予想の精度の低さでしょう。
そう考えると、"この受け手"がどのような目線で体験をしているか?を感知するこちら側の感性がにぶかったということですから、やはりこれもまた現実を正しく見る私の力が不足していたということになるのです。こちらが想定している、この受け手はこう体験するはずだという考えと、相手が感じていそうなことが合致しているか?予想と合っているか?を吟味することも、創造活動が多くの人を巻き込み続けるという性質を持つ以上、重要だと思われます。

これは、活動が、褒められて、売れるか?の話ではないです。その活動の真価が、人に(非言語的であっても)伝わっているか?の話です。根源的に、世界から自分に与えられた役割を、自分は達成できているのか?というチェックです。


また、人間による生成・創造とは、受け手によって受け止められて初めてそこに生成が認められます。
受け手の存在によって引き出されない限り、物は本当の意味では生成されないのです。
このことを念頭に、常に他者からのフィードバック(特に、ここぞというときの、ここぞという人からのフィードバック)には敏感になっておく必要があります。

そこが本当の生成の瞬間(この世に、存在が認められ、実体となる瞬間)とよべるからです。



以上、おぼえがき(?)ですが、これらをまとめると、あらゆる創造活動においては、
思考による情報や概念の整理と同等に、身体性と、それによる感性の発揮が重要であるということが伝えたいことでした。

感性と一口に言っても、いろいろなことを指しています。

A. 感覚世界に没入し、他者目線をもって、そのモノ/サービスの体験をシミュレーションする感性
B. 自己の深奥にDeep Diveし、コンセプトになる前の知覚領域における感覚を持ち、それをなんとか言葉にするときの感性
C. 制作時の選択肢を選ぶ基準として持ち出したりする感性
D. 自己の深奥での知覚領域における感覚を宿した手に、創造を任せる、ということを可能にする感性
など

これらを考えると、身体性が、全く現実的な意味で、世の中に価値を実現するための要(カナメ)になっていると思うのでした。

身体性の開発により、人が感動する体験が作れる。そこが無ければ、社会の嘘や、他人の情報(過去の産物)に惑わされる。

身体性と、自我(意識)の見事なコラボレーション、そして感性と思考の見事なコラボレーションにより、最小の労力で、最大の価値をこの世に出現させられる。そのような考えの確信が、より深まります。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。20240817

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