⓪ 記憶と記録は不可分【Coheeerence】
絵を描きながら書いたメモと、そのあと考えた内容を載せました。右脳・左脳 融合型の記録として残しておきます。
記憶はフィルムの連なりのように繋がっている。
映画を体験するときは過去から未来へとコマをたどるが、
フィルムは未来から過去に向けて創られている。
【記憶と記録は不可分】
「記録」するという行為。
それは経験を語るプロセスのことであり、
また技術技能を伝えていくプロセスであり、
アートを創るプロセスでもあり、
表現をありったけ行うプロセスでもある。
「記録」すると同時に人は体験の「記憶」を掘り起こす。
「記録」するために言語にし、また視覚化し、「記憶」を鮮明にする過程で、人は自らの内側の記憶に対して【潜る】プロセスを行うことがままある。
他者に記憶を語り、それを記録として残すときには特に。
この記憶に潜るプロセスが重要だ
自らの記憶に【潜る】とき、そのプロセスはまず自分の記憶に対する習慣的な解釈を超えるところから始まる。
固めている記憶への意味解釈を手放す。
そして、「あの時の本当の事実は何だったのか?」開かれた思考で考えなおす。
「あのとき自分は何を感じていたのだろうか?」開かれた心で感じなおす。
そして多角的に記憶を観察し、中核に横たわっていた感情にアクセスする。深い身体感覚が身体を覆う。そして衝撃と共に記憶に対するそれまでの凍った習慣的解釈が溶け出し、自らの記憶への「意味解釈」が温かみを持って変更される。
内側の記憶を開き、外側に記録を起こすプロセスは「結果として」意味変更までも起こす可能性がある。
「余白」のある状況とこころで「思い出す」だけで、解釈変更の内的なプロセスが描かれる。
【反転世界を出現させる】
ここで1つ考えてみる。
我々が他者の「記録」を聞き、「記憶」を見るとき、つまり完全に他者の表現に没入しきって、共に過去の体験を追いかけているとき、いったい何が起こっているのだろう。
仮説がある
そのとき我々には【意味】の【反転】が起きている。そのとき他者が自分となり、自分が他者になる。他者の記憶とは、見て、身を浸して、体感する。それが Authentic で純真な語りであればあるほど私たちの体感度合いは増す。開かれた心と、余白のある状況でしかそれは起こらないかもしれないが、意味に開かれることでそれは起きる。
他者が見る世界を体感する、深い共感と言っても良いかもしれない。他者の表現の中で、過去から続く時間の中で、自分の立っている位置が変わった感覚を浴びる。
この自他の反転体験は空間に浸されても感じられる。例えば奇抜な建築の中。創り込まれた店内。アーティストの展示会。特にアーティストの展示会はより純粋なものが多い気がする。たった1人の脳内から溢れ出したアート(記録)のそれは、まさに内面世界が空間の外側を形成し、他者が空間(脳)の内側に迎え入れられる。
そう考えていくと、アート(表現)の本質には、他者の脳内世界や内面世界という「幻想」を、「反転」してこの世界に出現させる(具現化させる)ことにあるのではないだろうか。
「幻想」の「反転」。私たちが他者の内面の中に【物理的に】入り込む。ひたされる。それまでの現実を構成していた物理世界は意味をなさなくなる。夢と現実が反転する。
その「反転世界」の出現にわれわれの身体感覚は何らかの反応を起こさざるを得ない。記憶的空間は身体感覚にシゲキをもたらす。
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Coheeerence(非一貫性まじりの一貫性)
非一貫性(Incoherence)が持つそのあざむきと驚嘆がまざった
一貫性(Coherence)のことを、
【 Coheeerence 】と呼ぶ
意味の一貫性=意味の流れ。文脈。
自分すらも溶け込んだ、この所与の世界のことも指す。
意味の非一貫性=意味の流れや文脈からの逸脱。
うまく取り込むことで、自分の世界が展開し、新しい意味に開かれる
世界から突き出た自分という存在のことも指す。
《人は意味に期待している》
つづき
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