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2010年代の20曲 _ ⑥いきものがかり 「風が吹いている」 (2012)


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音楽と政治の微妙な関係

2011年3月11日の東日本大震災と福島原発の事故は、日本のあり方を大きく変えた。

…という話がこの先「歴史」としてたくさん出てくるはずだが、震災直後の個人的な実感としては、「ここまでの出来事があっても世の中変わらないんだな」という気持ちの方が強かった記憶がある。当然その時置かれていた環境によって感じ方は違うはずだが、あの日東京の真ん中から調布方面まで約6時間かけて歩いて帰った自分にとって、震災から数ヶ月経った時の気分はそういうものだった。

一方で、事実として確実に変わったこともある。それは、多くのミュージシャンが「政治」に「当事者」としてメッセージを発するようになったこと。被災地に物資を運ぶといった草の根の取り組みから天下国家に関する問題提起までそのレベルは多種多様だったが、Jポップが産業として成立していった90年代以降どちらかというと忌避されがちだったテーマがタブーではなくなっていった。

新しい流れには当然賛否両論が起こる。象徴的な出来事が、自身のヒット曲「ずっと好きだった」の替え歌「ずっとウソだった」をYouTubeにアップして原発を取り巻く環境の欺瞞を告発しようとした斉藤和義の動きと、それに対していきものがかりの水野良樹がTwitterで発した疑義。マスメディアを介さずアーティストが瞬発的にアクションを起こしたこと、当時一気に普及し始めていたTwitterが舞台となったこと、震災直後の混乱ゆえ今思えばどうにもその表現に含まれる攻撃性が強かったこと。いずれも「2011年の春」の空気を表している。

水野が本件の総括として述懐していた言葉を借りると、アーティストの政治的なアクションは「専門家でも意見の分かれるような高度で複雑な因子が絡む問題を、単純化してしまう危険性」と常に隣り合わせである。この視座から考えると、2010年代はあらゆる局面において「単純化してでもまずは伝えるべき」「単純化を前に立ち止まるどっちもどっち論者は悪」という声が高まっていった時代でもあった。

本項の冒頭に戻る。2011年3月11日の東日本大震災と福島原発の事故は、日本のあり方をやはり大きく変えた。深刻な現実を前にして、人々は「単純化の欲望」から逃れられなくなっていった。


「時代」を歌うということ

震災の翌年である2012年の紅白歌合戦は、斉藤和義と水野良樹の一件の後日談でもあった。

初出場となった斉藤和義は「やさしくなりたい」を披露した際、ストラップに「NUKE IS OVER」(原子力は終わり)と記載されたギターを使用。改めてその主張をより大きな舞台で表明した。

対して水野の所属するいきものがかりは紅組のトリとして番組のクライマックスに登場。ここで披露された「風が吹いている」はNHKのロンドンオリンピック中継のテーマソングであり、「震災の傷が癒えない状態でオリンピックを迎える人々がいる風景」を描いた曲でもあった。大きな意味では「政治的なメッセージ」が込められた曲とも捉えられるが、そういった側面を前面には出さずにあくまでも状況を俯瞰した楽曲としてまとめているところに水野良樹というコンポーザーの作家性が色濃く滲み出ていた。

「2011年に震災があって、社会全体がのっぴきならないものになっていて、しかも世の中の人たちの意見がまあ一致しない状況が続いていて、そんな中で2012年にオリンピックが来てしまうと。「オリンピックを盛り上げよう」っていう人がいる一方で「そんなことをやっている場合じゃない」っていう人もいる、そんな中でオリンピックのテーマソングをどうやって作るべきか?って考えたときに・・・単なるタイアップソングではなくて、2011年や2012年の社会の空気感を10年後20年後にもちゃんと伝えられるものを作りたいと思ったんです。そういう意味で「時代を相手にする」っていう言葉を使ったんですけど、きっとこういう機会はこの先1回あるかないかだと思っていたのでかなり気負って作りました」

水野がこう語る通り、「風が吹いている」は「時代の中で響くポップソングとはどういうものか」を常に考えてきたいきものがかりにとっての一つの金字塔的作品である。

ゼロ年代の後半から10年代にかけてポップミュージックの世界がどんどん細分化されていく中で、いきものがかりは意識的に「ど真ん中」を目指した。彼らは「主義主張を前傾化させないことで浸透力を高める」という本来エゴイスティックな存在であるはずのミュージシャンにとってタフな取り組みを継続することで、その目的を完遂してきた。

2010年代が終わるタイミングで、いきものがかりが志向してきた「ど真ん中」のあり方は徐々に変わりつつある。星野源のような「ガラパゴス」といった概念とは遠く離れた存在がシーンの中心に鎮座し、Jポップ黄金期を支えた「自身の傷を表現してカリスマになる」といったアプローチはあくまでも手法の一つとして相対化された。

こういった中でいきものがかりにできることは何なのか。彼らは「放牧」と「集牧」、さらには水野のHIROBAとしての活動などを通じてグループのあり方に刺激を与えつつ、2020年代の「ど真ん中」を改めて模索している。



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