育ってきた環境が違うから

3月末にユニゾンとShiggy Jr.の対バンを見に高崎へ行ったのですが(いいライブでした)、ユニゾンのステージの最中に跪いて興奮している男の子がいました。

いわゆるピンチケ的な行動ともとれなくはないですが、なんとなくそこから醸し出されている空気に迫力というか切実なものを感じました。東京ではあまりお目にかかれない光景というか。目立ちたいからポーズでやっているというのでもなさそうだった。

高崎の駅前はいわゆる地方都市という感じのロータリーが広がっていて、ライブハウスまでの道は静かで繁華街というような雰囲気もあまりありませんでした。途中に楽器屋とかあったけど、この辺の人たちはどうやって遊んでるのかな。そんなことを思ってた矢先だったので、おらが町にやって来たロックスターに興奮する若者、というストーリーを勝手に読み込んでしまった。

いつも読んでるブログにちょうどこんな話があった。

何に価値をおいて何を選択して消費するかという点において、東京出身の人と話をすると結構な割合で「そんな違わないよ」と言うのですが、田舎出身の人間確信を持って言います。確実にあります。決定的に違います。端的に言えば「既にあって、そこにある中から選ぶ立場」と「あまりなくて、限られた選択肢から本意でないもの含めて選ぶか、選べないものに焦がれる立場」。

(WASTE OF POPS 80s-90s 2015年4月3日)http://d.hatena.ne.jp/wasteofpops/20150403

このエントリを読んだ時に、高崎FLEEZで跪いていた彼を思い出しました。

毎日いくつもの「注目バンド」のライブが行われている街で育つのと、街で一つのライブハウスに大好きなバンドが来てくれるのをずっと待ってるという環境にいるのとでは渇望感が全く違うんだと思う。

自分は千葉のベッドタウンで生まれて中学から都心の学校に通っていたので「消費行動をする環境」には恵まれている部類だったわけで、きっと高崎の彼の気持ちは本質的には理解できないんだろうなと思う。東京の学校における「千葉と埼玉どっちが田舎か」みたいな話は、東京にアクセスできない人からすれば嫌味以外の何物でもない。

とは言えベッドタウンにはベッドタウンの悩みもあり、無駄に人口だけ多いけど文化のない街で暮らすことにはそれはそれで思うところもあったり。隣町の柏がやれレイソルだギャルの街だライブハウスだと盛り上がっているのを指をくわえて眺めている(そしてその恩恵に預かる)松戸市民のむなしさ。アド街でどっかのキャバレーだかフィリピンパブだかが出てきたときはマジでがっかりした。まあ柏も「ナイトスポット」みたいな打ち出しでガールズもんじゃ焼き屋とかやってたけど。

この辺の微妙な対抗意識と憧れが混ざってぐちゃぐちゃになる感じは「月曜日から夜ふかし」で面白かしくやってるみたいで、柏松戸も以前特集したみたいだけど見てない。この前の調布狛江話は相当面白かった(結婚して狛江に4年住んで今は調布にいるので)。

常磐線の話だと『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』読みたいけどやっぱり松戸はスルーされてそうなのがなんとも。


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