2010年代の20曲ヘッダ

2010年代の20曲 _ ⑮欅坂46 「サイレントマジョリティー」 (2016)


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「大人たちに支配されるな」と秋元康は歌わせた

<君は君らしく生きて行く自由があるんだ 大人たちに支配されるな>

意地悪な見方をすれば陳腐だが、それゆえに普遍性を持つ蒼さを含んだ切実な叫び。いつの時代も若者は幾ばくかのフラストレーションを抱えて生きてきたし、そんな気持ちを代弁してくれるメッセージに心揺さぶられる。

ただ、この言葉を紡いだのが「フラストレーションを抱えた若者」ではなく、「フラストレーションを抱えた若者を描くのが巧い大人」だったら?

欅坂46のデビュー曲であると同時に「アイドル戦国時代」と呼ばれた百花繚乱のアイドルシーンを一気に統一フェーズに進めることとなった「サイレントマジョリティー」は、非常に厄介な曲である。

愁いのあるアコースティックギターから始まる、旧時代的なロック風サウンドとも清潔なだけの打ち込みとも違うオリジナルなトラック。「動きが揃っていなくても愛嬌があればOK」という価値観とは一線を画す、統率されたパフォーマンスとメンバーのクールな表情。そして歌詞のメッセージそのままに、そのフォーメーションをモーゼのごとく打ち破っていく平手友梨奈。これらの要素が渾然一体となったこの楽曲およびMVのクオリティに疑問を挟む余地はない。

一方で、「大人からの解放」を希求するメッセージがストレートに表現されたこの曲の歌詞およびこの楽曲のコンセプトは、2010年代における「大人=支配する側」の象徴と言っても過言ではないであろう秋元康によるものである。アウトプットへのメタ視点の埋め込みに高い価値を見出す彼にしてみれば、「大人の庇護下にあるアイドルが、大人からの解放を希求するメッセージを歌う」という構造にある種の美しさを感じているのかもしれない。

仮にその楽曲が歌い手の自作自演だったとしても、歌詞として書かれたメッセージがその表現者の「本心」とは限らない。そういうスタンスをとるのであれば、「サイレントマジョリティー」を「若き情熱の発露(の表現)」として楽しむことは可能である。だが、歌われるメッセージに「歌い手の実存」を読み込もうとした瞬間に、この曲の佇まいはとても歪なものになる。そして、おそらく多くのリスナーが、平手友梨奈の射抜くような視線とともにその歪な世界に巻き込まれていった。

ちなみに今から36年前の1983年、佐野元春がこんな言葉を残している(田家秀樹『読むJ‐POP』より)。「サイレントマジョリティー」の登場を予見していた、なんてデタラメを言いたくなる。

「"つまらない大人になりたくない"というコンセプトをコマーシャライズされた形で広めることは簡単なんだ。頭が良くてお金をたくさん持っていて力の強い職業作詞家ならばね」


坂道を駆け上がる代償

「大丈夫?」

カメラに音声は捉えられていなかったが、誰もがその言葉を認識することができただろう。大晦日の晴れ舞台とは思えない凄惨な光景が、ステージ上で展開されていた。

2017年12月31日、2度目の紅白歌合戦出場を果たした欅坂46は、自分たちの本来の出番の後に番組企画の一環として総合司会の内村光良とともに「不協和音」を披露。フラフラになりながらパフォーマンスを続ける平手友梨奈に対して、キメのシーンで隣り合った内村は2人のアップが映し出された状態で冒頭の言葉をかけた。

2010年代後半、48グループの人気が安定から停滞に傾いていく中で、天下を獲ったのは「坂道シリーズ」だった。清楚さと活発さを兼ね備えた乃木坂46が幅広い人気を得ていく一方で(とは言うものの結局「恋するフォーチュンクッキー」と比するような国民的楽曲が生まれなかったのはこの先彼女たちの歩みに影を落とすかもしれないが)、欅坂46は平手を中心とするエッジの効いた世界観で若者たちを虜にした。2019年には東京ドーム公演も実施し、2期生の加入も含めてグループとしての勢力を拡大している。

にもかかわらず、彼女たちの足跡にはどうにも不安定な空気が付きまとう。前述した紅白でのワンシーンは、それを象徴する出来事だろう。ステージで誰もが目を奪われる存在感を放つ平手友梨奈は、時としてそのエネルギーをコントロールしきれなくなる。通常のアイドルグループのセンターとしての活動と比べると明らかにケガの発生率が高いし、2018年には彼女の負傷をきっかけとして3日間の武道館公演が妹分のひらがなけやき(現日向坂46)にそっくりそのまま振り返られるというアクシデントも起きた。

爆発的なエネルギーを持つパフォーマーであってもひとりの人間、ましてや未成年である。「疲弊した平手友梨奈」を表現の核に据えようとしている人たちは、本当にいないのだろうか?「世界には愛しかない」「二人セゾン」のような少女が持つみずみずしさではなくカッコつきの「反抗」をキーコンセプトに展開されるシングル群にせよ、平手友梨奈を「孤高のカリスマ」として祭りあげるメディア(そこでは前項で触れた「平手が歌う言葉に平手の実存を見出す回路」が駆動している)にせよ、悪意はないだろうが結果としてそんな構造を加速させているように思えてならないのだが。

「痛めつけられた誰か」がいないと成立しないエンターテイメントは、できればもう終わりにしたい。


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