【レジーが見た90年代プロジェクト】2/2 エッセイ「部屋とYシャツと90年代  Welcome to my utopia」

【レジーが見た90年代プロジェクト】2/2 エッセイ「部屋とYシャツと90年代  Welcome to my utopia」

前段の前段(2021年9月)

この記事はもともと2016年の11月頃に有料記事として公開したものです。それからだいぶ時間が経ったのと、ちょうど最近改めて「90年代とは何だったのか」みたいな話が各所で出てきていることもあり、このタイミングで全40000字分無料公開することにしました。

5年前と今だと時代の空気も違いますし、単純に自分の筆力も今以上に未熟なので「今だったらもっとうまく書けるな…(もしくはこういう書き方はしないな…)」という部分も多数あるのですが、自分が体験した90年代についてはそれなりに偽りなく描写している文章だと思いますので、「記録」ということで改変なしで公開したいと思います。

後述の通りあくまでもn=1の話なので網羅性や客観性はありません(「90年代の名盤ランキング」で頻出するアルバムの一部も素通りしています)が、「こういう見え方もあった」というものとして楽しんでいただけると嬉しいです。

前段

※企画の趣旨はこちらでどうぞ

※このエッセイと関係する「90年代の私的50枚リスト」はこちらをどうぞ


目次

【エッセイ「部屋とYシャツと90年代  Welcome to my utopia」】

1. はじめに~バックグラウンド

●「自己防衛」「イメージ戦略」のために小5で音楽の道へ、そしてはまる

●初めて買ったCD

●小6のカセットテープ(一番偏見のなかった時代)

●「メジャー」「歌とメロディ」を重視する嗜好はいつ生まれたのか


2. 歌謡曲からJ-POPへ

●チャゲアスとサザンの明暗

●どかんとミスチル、じわじわスピッツ

●今(あえて)ビーイングを再評価した結果www

●プロデューサーに憧れて

●僕たちはいつの間にジュディマリを好きになったのか

●ビジュアル系との付き合い方

●『無罪モラトリアム』と『FIRST LOVE』、衝撃的だったのは・・・


3. メディア

●スタートはTOKYO FM

●HEY!HEY!HEY!とうたばん

●「メジャーじゃない音楽」を知る喜び ①ミュージックスクエア

●「メジャーじゃない音楽」を知る喜び ②ミュートマジャパン

●マイオリジナルVHSを作る

●ワッツイン→ミュージックマガジン→ロッキングオン

●偉大なるBUZZ

●J-ROCK magazineで勉強したジャンルの名前

●「アナログブーム」に上辺だけ突っ込む


4. 男子校と思春期

●インターネットと音楽と女の子を巡る思い出(16歳なりたて)

●ハイスタに教わった新しい「ポップ」の形とリア充カルチャー

●ゆずという存在のデカさ

●「アイドル」を一手に背負った広末涼子の歌


5. アイドル(的なもの)

●『R』『H』と『AmiGo』

●「アイドル」と「アーティスト」の狭間で ①SPEED

●「アイドル」と「アーティスト」の狭間で ②川本真琴

●マイルーツとしてのASAYAN(音楽の話)

●マイルーツとしてのASAYAN(音楽の話ではない)

●「SMAPの歌ってかっこよくない?」というスノッブの作法


6. 渋谷系など

●誰がどこでフリッパーズギター/フィッシュマンズを聴いていたんだろう?

●J-POPスターとしての小沢健二

●もう一つの「渋谷系」 -- シャ乱Qと鈴木蘭々

●「フォーキー」にかぶれる ①サニーデイからはっぴいえんどへ

●「フォーキー」にかぶれる ②かせきさいだぁとソウルセット


7. 日本のロックの夜明け

●1997年のSWEET LOVE SHOWER

●「俺たちがニッポンのミッシェルガンエレファントだ!」

●「洋楽ナイズ」された耳(と態度)に刺さった97/98世代

●「ポストミスチル」からの鮮やかな転身 GRAPEVINE

●「Raspberry」よりも「ロケットに乗って」 TRICERATOPS

●本当にスターだった Dragon Ash

●スーパーカー、くるり、ナンバーガールと高校3年生~大学生


8. おわりに

●わたしのゼロ年代 ①一足お先に「コンテンツよりコミュニケーション」を体験

●わたしのゼロ年代 ②ひたちなかエンドレス地獄

●90年代ブームと世代断絶


免責事項

・このエッセイは、あくまでも「超個人的視点で綴った超個人的体験に関する文章」です。90年代の音楽に対する網羅的な知識を手っ取り早く知りたい、というような方の要望には全く応えられませんのでご注意ください。

・ですので、「え、90年代について語っているのに○○が出てこないとかありえない!」というようなことを言われましても、「自分の思い出にそのアーティストが登場しなかった」というだけで他意はありません。あくまでもn=1の体験記としてお楽しみください。

・「音楽そのもの」だけでなく「その音楽を聴いていた自分の状況」というような話が多数出てきますので、その手の話に対してすぐ「自分語りかよ」みたいなことを言ってしまうタイプの方は迂闊に読むと蕁麻疹が出るかもしれませんのでご注意ください。


------------以下本文------------


1. はじめに~バックグラウンド

●「自己防衛」「イメージ戦略」のために小5で音楽の道へ、そしてはまる

「90年代振り返り」という趣旨のこのテキストについていきなりお詫びをしなければならないのは、カバーしている範囲が92年以降だということである。自分がいわゆるポップミュージックの世界に足を踏み入れたのは92年の夏ごろ。なのでそれ以前の話は伝聞でしかない。もしも90年、91年の話が聞きたくて仕方なかったという方がいらっしゃったら・・・ほんとに申し訳ない。

小さいころから歌や音楽が好きだったが、小5の時にポップミュージックを聴き始めた理由は「音楽が好きだった」というよりは「がり勉だと思われたくなかった」という今文字に起こすとよく意味の分からないものである。当時中学受験のための勉強真っ盛りで成績は良かったものの、そのために昔から通っていたサッカークラブをやめたり塾のせいで友達と遊べなくなったりと周囲との間に隙間風が吹き始めていた92年の夏ごろ。そんな折に学級会で「林間学校(泊りがけの遠足のようなもの)のときにバスで流すテープを作るのでそこに入れる曲を決める」という議題があり、全く話に入っていけない自分といろいろな曲名やアーティスト名を出して盛り上がるクラスメイトとの間に決定的な断絶を感じて、「これはやばい!」と本能的に思ったのが「音楽聴いてみるか」と思った最初のきっかけだった。

そこからラジオを聴いたりMステを見たり、受験生らしくランキングをノートにまとめて何が流行っているのか覚えたりということをしているうちに、いつの間にかクラスの誰よりも詳しくなってしまった。そのときは音楽というものが自分の人生にとってここまで重要な位置づけを占めるものになるとは想像もつかなかった。

●初めて買ったCD

当時売れていた曲ですごく気に入ってCDを買いに行ったのが、GAO「サヨナラ」とT-BOLAN「じれったい愛」。この2枚がシングルCDとして初めて買ったもの。どちらも少し世代がずれると知っている人が一気に減りそうなチョイスである。「サヨナラ」は先日柴咲コウがカバーしていた。ちょうど「歌謡曲」と「J-POP」の狭間の時期らしい、ニューミュージック調の楽曲。T-BOLANはビーイングシステムの申し子ということで、最初にこういうシステマティックに作られるポップスにひかれていたというのは今自分がアイドル音楽に興味を持っていることと何かしらつながりがあるのかもしれない。

ちなみにアルバムとして初めて買ったのは、「日本で初めて300万枚を売ったアルバム」ことドリカムの『The Swinging Star』。このアルバム、今聴いても意外と古い感じがしなくてさすがポップスの最前線にずっといる人たちは違うなあと感心する。

●小6のカセットテープ(一番偏見のなかった時代)

当時の録音媒体はカセットテープだったので、CDを近所のレンタル店で借りたり、あとはラジオ番組で流れる音源を拾ったりしながら(放送時間に合わせて録音ボタンを押すという古典的なやり方で)「オリジナルミックステープ」を作成していった。今考えてみると、この時期が最も「自意識から自由な状態で音楽を聴いていた時期」だと思う。「○○を聴いているからおしゃれ(orかっこ悪い)」みたいな感情が介在する余地はどこにもなくて、「何かいいな」と思った曲をとりあえずテープに放り込んでいっていた。もう何年かすると「あえて聴く」みたいなエクスキューズなしには聴けなくなっていたSMAP「ずっと忘れない」と「売れているだけの音楽」的な位置づけになっていくB’z「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」が同列に並んでいるようなプレイリスト(当時はこの言葉はなかったが)、今では絶対に作れない。

●「メジャー」「歌とメロディ」を重視する嗜好はいつ生まれたのか

「クラスのみんなが聴いている音楽を自分も聴きたい」みたいなきっかけで音楽を聴くようになったので、その時点ではJ-POP(この当時はJ-POPという言葉はそこまで一般的ではなかったような気もする)以外の音楽に触れることはほぼなかった。色々音楽を聴こうが「ポップで間口の広い音楽にこそ価値がある」という考え方が揺らがないのは、たぶんこのリスナー人生スタート時のメンタルが大きく関係しているような気がする。そしてそういう音楽は、サウンドのタイプ問わず「メロディ」と「歌(ボーカル)」が絶対良いので、結果的に「歌とメロディがいい音楽が至高」という価値観が形成されていった。この考え方は自分の音楽の聴き方を狭めている部分があるとも思うし、一方ではそれゆえにポップミュージックの一番根源的な部分に目を向けられているという側面もあるのかなと思っている。あとは自分自身が「わかる人にだけわかればいい」より「みんなに価値観を行きわたらせたい」みたいな信条で生きているというのも音楽の趣味に影響があるはず(学級委員とか部長とかやるタイプの人間だったので)。

そんなルーツなので、たまにいる「日本のポップスを素通りしていきなりビートルズやら何やらに行く人」のリスニング体験がほんとに理解できない。これはネガティブな意味ではなくて、単純に想像ができないということ。どうしてそういうことになるんだろ。

2. 歌謡曲からJ-POPへ

●チャゲアスとサザンの明暗

初めて意識的に好きになった音楽のグループはCHAGE&ASKAだったが、そういう同世代の人は結構多いような気がする。自分は「no no darlin’」から入ったが、出す曲出す曲売れていたしほんとに無敵感があった。あの当時はチャゲアス主体の音楽特番とかもあって、間違いなく時代の中心にいたグループ。最近のいろいろな出来事のおかげで、90年代の音楽シーンに対する彼らの貢献があまり触れられなくなってしまうのは損失としか言いようがない。アルバムとして最初にリアルタイムで聴いたのが『GUYS』で、音として一番興奮したのが『RED HILL』。「なぜに君は帰らない」「RED HILL」あたりの男らしさにはほんとに痺れたし、「Sons and Daughters 〜それより僕が伝えたいのは」のコーラスワークも最高。最近改めて聴き直したところ、次のアルバム『Code Name.1 Brother Sun』もかなりクオリティ高め。

チャゲアスが不運だったのは、ちょうど音楽シーンの在り様が変わっていく90年代半ばに一回活動を休止していることか。彼らが戻ってきたときには「98年ショック」のおかげで聴き手の物差しもだいぶ変わってしまっていたし、2人組デュオという場所に関してはゆずの天下が始まっていた。

「no no darlin’」と近い時期にいい曲だなと思ったのがサザンオールスターズの「涙のキッス」。社会現象にもなったドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌ということでテレビでもよく流れていた。サザンに関してもチャゲアスと同様にこの時期は無敵モードで、92年に「涙のキッス」「シュラバ☆ラ☆バンバ」、93年に「エロティカ・セブン」「素敵なバーディー」と2年連続で「同じ日にシングル2枚同時リリース」という結構な展開をかましていた。そしてチャゲアスと違って、激動の90年代後半も越えて「ロックレジェンド」としての地位を不動のものにしていった。この2グループの差がなんなのかははっきりわからないけど、少なくとも桑田佳祐の時代を読む力がずば抜けていたであろうことは想像できる。「涙のキッス」「シュラバ☆ラ☆バンバ」収録のアルバム『世に万葉の花が咲くなり』もかっこいいけど、個人的にはクラシカルなロックの雰囲気をまとった『Young Love』の方が好き。ビートルズ感溢れる表題曲は今でもふとしたときに聴きたくなる。

●どかんとミスチル、じわじわスピッツ

初めて好きになったグループがチャゲアスだったとすれば、その次に好きになったのがミスチルだった。「CROSS ROAD」が出たのが93年の年末。自分がシングルを購入したのは翌年の2月。ちょうど中学受験が終わった日(ほんとに試験を受け終わった日)にあのシングルを手に入れて聴いたわけだが、第一志望の学校落ちた直後に「つかの間の悲しみは やがて輝く未来へ」という歌詞が超沁みた。

今考えると、ミスチルにがつっとはまったのは前述のとおりサザンのことをいいなと思っていたのと関係しているのかもしれない。バンドの形でポップな音楽、それもビートルズ的海の向こうのサウンドと歌謡曲っぽい「うた(メロディと言葉)」が同居している、ビーイングの人たちよりアナログ感のある手触り、などなど当時の流行りもの音楽を聴いていた自分にとって目新しいものばかりだった。チャゲアス~サザン~ミスチルの流れで自分の音楽的嗜好の根底が形成されたんだと思う。

ミスチルは「CROSS ROAD」ではまり、「innocent world」でスーパーはまり、『Atomic Heart』で自分の心にぶっ刺さるバンドとなった。以来、思春期から大人になるまでずっと自分にとっての大事なバンドとして鎮座している。正直最近の活動にはあまりピンと来ていないが、またどこかのタイミングで自分の生理にドンピシャの作品を作ってくれるんじゃないかと期待している。

94年にはまってそのまま心の中に居座ったミスチルと並行する形で、95年にストライクだったのがスピッツ。「君が思い出になる前に」でMステに出たことがあったので何となく存在は知っていたけど、やはりがっつり好きになったのは「ロビンソン」から。あの曲がオリコンのトップ10にダラダラと残り続けていたのはすごく面白かったし、少しずつ歌が世間に広がっていく感じにとてもわくわくした。そのまま「涙がキラリ☆」、『ハチミツ』、そして今に至るまで好意的な感情が続いているわけだけど、ミスチルに対する感情が「一体化しすぎて愛憎入り混じったものになっている」みたいな感じなのに対して、スピッツは「もうちょっと客観的な視点で好き」というイメージ。

ミスチルとスピッツが日本のシーンを塗り替えていく様をリアルタイムで体験できたのはとても幸運だった。この2バンドのブレイクは「歌謡曲からJ-POPへ」という流れにおいて重要な役割を占めていた。「バンドもののポップス」という席がメインストリームにちゃんとできたことは、ジュディマリにもイエモンにもウルフルズにも、さらには97/98世代にも大きい意味ではつながっていたんだと思う。

また、『Atomic Heart』『ハチミツ』がともにデビュー作ではなくそこそこキャリアを経てからの作品だったというのも意義があった気がする。自分含めた音楽ビギナーは、たとえば『Kind of Love』『名前をつけてやる』に後追いで辿り着いて「新作じゃなくてもいい音楽が存在するんだ!」ということを知るようになった(この手の「時代をさかのぼる」的な話で一般的に思い出されるのは「渋谷系」のような気がするが、自分と同世代でそのジャンルにコミットしていたのは相当ハイリテラシーな人たちだったはず。何となく最近はそういうタイプの人の声が大きい気もするが)。過去作がオリコンチャートを駆け上がり、スピッツに至っては「空も飛べるはず」がリリースから2年経ってドラマ主題歌になる様子は「音楽バブル」っぽい雰囲気もあったけど、そうやってミスチルとスピッツが国民的音楽になったことは20年後の今のポップミュージックの在り様に大きく貢献している。

●今(あえて)ビーイングを再評価した結果wwww

90年代に大量にCDを売ったものの「2010年代半ばに書き換えられつつある90年代の歴史」には全く登場しないのがビーイング一派。確かに今聴くと大味な感じもするけど、MTV的産業感のあるサウンドにわかりやすいメロと歌詞の乗った作品が90年代初頭にはヒットチャートを占拠していた。坂井泉水が仲間に提供した楽曲を自分でカバーするなど、一派内での楽曲循環があったのも特徴。そういうつながりみたいなものが最大限発揮されたのが、「ZYYG,REV,ZARD & WANDS featuring 長嶋茂雄」名義で発売された「果てしない夢を」。各グループのボーカルが入れ替わりで登場する構成はなかなか上がる。世代じゃない人にとっては「なぜに長嶋茂雄?」という感じかもしれないが(この曲のリリース日は皇太子さまと雅子さまのご成婚の日。学校が休みになっていたのにかこつけてCDを買いに行った)、プロ野球中継のテーマソングということでこういう企画になった模様。たとえば今の時代にテレ朝がサッカー日本代表の中継テーマソングを作るとして、じゃあ岡ちゃんをボーカルに入れるかと言ったら絶対入れないはずだし入れたら間違いなく炎上していると思う。いろいろ牧歌的な時代だった。

ビーイングはそんなに通っていないけど、唯一好きだったのがDEEN。「このまま君だけを奪い去りたい」をCMで聴いていい歌だなと思いそれ以降の8cmシングルは大体買っていた。1stアルバムの『DEEN』は当時かなり聴いていたけど、最近久々に聴いたらブラックテイスト強めで意外と今時感がある。「FOR MY LIFE」のイントロの複雑なコーラスワークも良い。「Memories」はOrlandあたりにカバーしてもらいたい。「永遠をあずけてくれ」はいまだにクリスマスソングの中でかなり好きな方。次のアルバムの『I wish』に入っている曲くらいまでは興味を持って聴いていたけど、97年に出てきたロックバンドたちに興味が移ってから自分の中でのプレゼンスが大幅に下がった。おそらくそういう人が多かったようで、この辺からチャートアクションも低迷していく。「97年、98年あたりが日本のポップスの分水嶺だった」的な話で大体象徴として語られるのは小室ファミリーの停滞だけど、この時期ビーイングも苦しくなっていったというのは一つおさえておくべきポイントだと個人的には思う。ZARDもこのくらいの時期から日本全体に広がる曲は出せなくなっていったし、大黒摩季もこのタイミングで一気にダウントレンドになった。

その大黒摩季が今年のライジングに出たりONIGAWARAの作品やSugar's Campaignの新しいアルバムにビーイング感の強い楽曲が入っていたりと、最近はほんの少しだけ「ビーイング再評価」の兆しもある。あと「楽曲にこだわりのないアイドル」の楽曲は大半がビーイング調中途半端ロックだったりするわけで、「音楽的ではない空間」にビーイングの遺伝子は着実に息づいている。

●プロデューサーに憧れて

先ほどちらっと小室ファミリーの話に触れたが、曲単体でいいなと思ったものはいくつもあるがそこまで深くコミットしていたわけではなかった(後述するが、華原朋美はすごく好きだった。昔はほんとにかわいかった・・・)。小室ファミリーに関して自分にとって重要なのは、小室哲哉が果たしていた「プロデューサー」という役割。曲を作るだけではなくてアーティスト全体のあり方にまで関わって、時代の空気を反映させながら確実にヒットする仕組みを構築していく・・・何それ超かっこいいじゃん!小室哲哉の立ち振る舞いで「マーケティング」みたいな概念を知ったのが、後に大学でマーケティングを専攻してその領域が生業になっていく一番初めのきっかけになった。

小室哲哉=TKという呼称があるが、この時代のもう一人のTKこと小林武史のことを知ったのはミスチル経由。そこからサザンにも絡んでいることや大好きだった小泉今日子「My Sweet Home」の作曲と編曲をこの人がやっていることを知ったりして、すごく自分好みの音を作る人だなあという印象を持った。彼の匠の技が注ぎ込まれたMY LITTLE LOVER『evergreen』はとても好きな一枚。当時は「商業主義的な小室、音楽的要素の強い小林」みたいな色付けが何となくされていた記憶があるけど、今思えばほんとにそうだったのか?という感じはする。

そう言えばその昔やっていたテレビ番組「J-ROCK ARTIST COUNT DOWN 50」(アーティストの人気投票をやったり「似ている曲」みたいなものを並べてみたりとすごくごった煮で不思議な音楽番組が地方局で放送されていたのです。この番組と連動していた雑誌「J-ROCK magazine」については後述)のお便りコーナーで「プロデューサーってどうよ?」みたいなテーマがあって、「プロデューサーが入るのはロックじゃない。だからglobeもミスチルもロックじゃない」なんて意見が紹介されていた。すごく「ポップミュージック黎明期」的なエピソードである。ある意味90年代半ばごろは今以上に「自作自演信仰」の純潔主義が強かったのだと思う。

●僕たちはいつの間にジュディマリを好きになったのか

90年代を通じて好きだったバンドの一つにJUDY AND MARYがあるが、何となくこのバンドも「気がついたらお化けバンドになっていた」という印象。自分が最初に知ったのは「Hello! Orange Sunshine」でMステに出演したとき。YUKIの少女感がすごく強くて、気にはなったけどそこでは好きにはならなかった。HEY!HEY!HEY!でもちょっと不思議ちゃんっぽい立ち振る舞いをしていたし、そこまで「メジャー感」はなかった記憶が。そんな風向きが変わったのが「Over Drive」。自分もがっつりはまったのはその「Over Drive」が入った『MIRACLE DIVING』から。当時学校の試験の最終日に必ずCDを買いに行くというルーティンがあって、このアルバムは中2の2学期の期末試験最終日に南越谷OPAにあったタワレコで買った。このアルバムは自分にとっての90年代ベストアルバムの上位に来る作品。そこからあれよあれよという間にモンスター的な存在になってしまったわけだけど、結局ライブを見る機会が一度もなかったのが本当に残念。

ジュディマリに関しての個人的エピソードを二つ。「クリスマス」を家で流していたら、祖母から「何これ、みんなのうた?」と言われた。最近のポップスというよりは子ども向けの楽曲に聴こえた模様。あと家にあった『MIRACLE DIVING』を見て、叔父が「へーこんなバンド聴くんだ。俺昔一緒にライブやったことあるよ」とのこと。結構本格的にドラムをやっていた人なのでそういうつながりもあったらしい。

●ビジュアル系との付き合い方

「ビジュアル系」という言葉は自分世代の音楽好きにとっては何かしらの特別な意味合いを持っている言葉のはずで、これによって音楽の扉を開いた人もいるだろうし、流行ものとして貶す存在みたいに見ていた人もいるはずだし、何となく大っぴらに好きと言いづらい自意識と戦いながら「でもLUNA SEAも「ROSIER」はかっこいいよね」なんて言って何とかバランスを保ったり・・・といろいろな向き合い方があったと思われる(最近LUNA SEAがテレビに出ると30代半ばの人たちが「やっぱかっけー!!」みたいなリアクションをするけど、そういうことを言っている人の3割くらいは当時あのバンドのことを貶したりしていたはず)。

自分はどうなのかというと、まず中1の最後の方に突然黒夢にはまった。ちょうど彼らがメジャーデビューしてポップな路線に行っていた時だったので自分の好みにヒットして、『feminism』とかその辺のシングルはすごくよく聴いた。あとはラルク。これも同じくらいのタイミングで「Blurry Eyes」がすごく気に入って、「vivid colors」で大好きに。「vivid colors」が収録されている『heavenly』は発売日に楽しみにして買った。ラルクに至っては「人生で初めてコンサートを見たアーティスト」なので自分にとって思い入れは強い。「GLAY派」「ラルク派」みたいな切り分けもあった気がする(GLAYは何となく苦手だったけど、なぜか「Freeze My Love」だけシングルを買った)。他に好きだったのはSOPHIA。メジャーデビューして早々にビジュアル系かどうか微妙な立ち位置になっていたけど、「ヒマワリ」も「little cloud」もカラオケの鉄板だった。

こうやって好きなアーティストが複数あったので、「ビジュアル系」というムーブメント自体には基本的には好意的だった。メロディのいい曲がたくさんあったし、それに当時は「インディーズ」という言葉が指すシーンにおいてビジュアル系の占める割合が多かった印象がある。それゆえ、「みんなが知らない音楽を聴こうとしている」みたいなわくわく感もあった。ただ、自分がこういうスタンスだったのも97年頃までで、それ以降は日本に多数登場したいろんなかっこいいロックバンドを聴く中で「ビジュアル系とか聴かないでしょ(笑)」みたいな態度に変わっていった。あんなに好きだったラルクも99年の『ark』『ray』はリアルタイムでは聴かなかったわけで、あの当時の自分の価値観の変容はほんとにドラスティックだった。

●『無罪モラトリアム』と『FIRST LOVE』、衝撃的だったのは・・・

宇多田ヒカルと椎名林檎と言えば90年代後半を代表する女性アーティストで、奇しくも2016年は宇多田ヒカルが復活、椎名林檎がリオ五輪閉会式でのパフォーマンスを統括と両者が同時に節目を迎える年となった(しかもこの2人がデュエットする音源が聴けるとは!)。

この2人のデビューアルバム、『FIRST LOVE』と『無罪モラトリアム』は「90年代の名盤ランキング」の上位に常に入ってくる作品である。もちろん自分もリリース時からよく聴いていた作品だが、「時代が変わった!」と感じたのは『無罪モラトリアム』の方だった。1曲目「正しい街」のイントロのギターとシャウトを聴いたときに立った鳥肌は今でも印象に残っている。そもそも椎名林檎のことを知ったのはフジテレビの深夜番組(「ウゴウゴルーガ」とか「どぅんつくぱ」あたりの「シュール」を志向する番組だった気が)で「新宿系」みたいな惹句とともに「歌舞伎町の女王」を歌っているのを見たときで、最初は色物?とも思ったんだけど、そこから夢中になって「ここでキスして。」のMステ出演時に友達に宣伝したりNHK-FM「ライブビート」で放送されたスタジオライブを録音して何度も聴いたりしていた(このライブでは後にリリースされる「ギブス」がすでに披露されていた)。彼女のことはその後もずっと好きだったけど、実は2003年の『加爾基 精液 栗ノ花』がCCCDでリリースされたときに不信感を覚えて購入しなかった。そこで一瞬気持ちが冷めて、しかも「え、バンドやるの?意味わかんない」みたいにもなったけど、東京事変のデビュー曲「群青日和」一発で「参りました」という感じに。でもまさかオリンピックに関わるようなミュージシャンになるとは思わなかったな。ちなみに彼女のブレイク前後にともさかりえに提供していた「カプチーノ」は90年代J-POPの楽曲としては指折りの素晴らしさ。あとMVでのともさかりえの服装がエロかったのも男子高校生的にポイントが高かった。

宇多田ヒカルに関しては98年の年末にJ-WAVEで流れていた「Automatic」を聴いたときに「これはすごいの出てきたな・・・」と思ったけど、実はその年の最初か前の年の年末に同じくJ-WAVEで聴いたMISIA「つつみこむように・・・」の方が衝撃的ではあった(宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』への反応として「MISIAが入っていないのがおかしい」というのが割と多いのは、この辺の時代体験が背景にあるのではないかと思われる。「つつみこむように・・・」の「ものが違う感じ」はほんとすごかった)。彼女に関しては年齢であったり家柄であったりアメリカ育ちという出自であったり、プロフィールの部分も当時の持てはやされ方にはだいぶ効いていたものと思われる。あとは意外と当時の「歌番組文化」とうまくやっていたミュージシャンという印象。「HEY!HEY!HEY!」でも「うたばん」でもかなり楽しげに振舞っていたし、ともすれば「孤高の天才ミュージシャン」的な評価が固まりつつある気もするけど実際はそんなことはなくてCDの売上だけでなくて存在としてもちゃんと「マス」と接続していた。ああいうミュージシャンがテレビで松本人志とゲームで勝負したりおひなさまの着ぐるみみたいなものをV6の岡田君と一緒に着たりしていたわけで、音楽がエンタメの中心にあったという意味ではやはり幸福な時代だったんだなあと改めて思う(「音楽家に変なことをさせて・・・」という見方もあるかもしれないけど)。

3. メディア

●スタートはTOKYO FM

冒頭に書いた通り音楽との出会いは小5だったわけだが、最初に触れた音楽メディアはラジオだった。ミーハーの母(かつて沢田研二の追っかけをしていた)から「TOKYO FMで土曜日にカウントダウン番組をやっているはず」というアドバイスを受けて聴き始めたのが土曜13時からの番組。番組名を変えながら最近までずっとやっていたみたいだけど、当時は「コーセー カウントダウンジャパン」という名前だった。これを聴いて、テープにも録音して、「今どんな曲が流行っているのか」を知るというのが自分のリスナー人生のスタートだった。

この番組はリスナーからのリクエストで順位が決まるので、オリコンとは少し異なるチャートアクションをしていたのも今考えると面白かった。T-BOLAN「Bye For Now」が長期ランクインしていたのはなんだったんだろうか。

●HEY!HEY!HEY!とうたばん

ラジオから音楽と接するようになり、ほどなくテレビでも歌番組を見るようになった。最初はもちろん「ミュージックステーション」。番組の骨格が今とほぼ変わっていないのがすごい。あとは今の「カウントダウンTV」の前身でもある「カウントダウン100」が土曜日のゴールデンタイムで始まったのものこの頃。山田邦子と渡辺正行が司会だったけど、結局MVを刻んでランキング順に見せることがあの番組の肝だったわけで、今の形にするという判断をした人はなかなかすごい。あとはフジテレビでやっていた「MJ(ミュージックジャーナル)」もなかなか面白かった。「水曜歌謡際」が始まる際に「フジの生放送での音楽番組は「MJ以来」である」という情報が出ていて、強烈に懐かしくなった次第。古舘伊知郎、加山雄三、田中律子が司会で、「チャゲアスは演歌か?」「暗い歌特集(森田童子や山崎ハコなど)」などなかなかチャンレンジングな企画も多数。「ジャーナル」と言うだけあって、雑誌的な番組作りを志向していたのかも。

先ほど宇多田ヒカルの項でも触れたが、やはり90年代の音楽番組として重要な役割を果たしたのが「HEY!HEY!HEY!」と「うたばん」。歌番組でありながら歌唱シーンよりもトークパートの方が面白いという転倒した構図はミュージシャンの愛すべき人間味を表現するのに十分なもので、それが結果的に彼らの鳴らす音楽への愛着を高めることになっていたと思う。また、業界として余裕があったからか「実力はあるけどブレイクしていないアーティスト」を積極的に起用する姿勢もあって、ちゃんとオピニオンを発する機能も持っていた(「HEY!HEY!HEY!」の売れていないミュージシャンを発掘するコーナー「誰やねん?」が象徴的。ウルフルズの支持が一般層へ広がったのもここから)。2つとも最終的にはいろんな迷走を経て終わってしまったけど、もしもまだ全盛期の形で残っていれば音楽とお茶の間の距離感も違ったかもしれない。

宇多田ヒカルがこの2つの番組に適応していたという話に絡めると、そういう形で楽しくやっていたのがミスチル。「HEY!HEY!HEY!」ではギターの田原氏が「浜ちゃんに似てる」という理由でどつかれ、さらに「うたばん」では司会の貴さんと中居君と一緒に酒飲みまくって泥酔したり・・・といろいろやっていた。

●「メジャーじゃない音楽」を知る喜び ①ミュージックスクエア

テレビでやっている音楽番組をひとしきり見るようになって、もっと違う情報も欲しいと思い始めてきたのが中学2年生の半ばから中学3年生くらいにかけて。中高一貫校に通っていて受験もなかったので、そのあたりで新たな刺激を欲し始めたのかも。ちょうどその頃ギターを買い、今までやっていたゲームも突如としてやらなくなって、自分の興味が音楽にぎゅーっと集約されていったタイミングだった。

その時期に自分の中でまた再浮上したのがラジオ。最初に書いたTOKYO FMの番組は土曜日午後にサッカー部の活動があったこともありあまり聴かなくなっていたが、周りの友達が聴いていた流れで接するようになったのがNHK-FMの「ミュージックスクエア」。同世代の音楽好きにとっては避けて通れない番組で、この番組を介してヒットチャートに入っている楽曲にとどまらないいろいろな日本の音楽に触れることになった。基本的に「音源にトークをかぶせない」という方針が徹底していて、高校生になってからは「ここで流れた音源をMDに録音して繰り返し聴く」というのがその後の定番行動になったけどそういうことやってた人はかなり多いはず。97年・98年デビューのロックバンドたちが広まっていく過程でも重要な役割を果たしたプログラムだったと思う。「Raspberry」もよく流れていた記憶が。

ちなみに、自分のブログにて展開している「あの1023円で何が買えたか? 誰も顧みない90s J-POPを勝手に供養する」という企画はこの番組のオマージュである。

●「メジャーじゃない音楽」を知る喜び ②ミュートマジャパン

ラジオをまたいろいろ聴き始めるのと同時に自分が手を出したのが地方のテレビ局。MVをフルで流してくれる番組をいくつか見つけて、そこでも情報を仕入れた。千葉テレビ「テレジオ」、テレビ埼玉「HOT WAVE」(ランキングを流す「HIT WAVE」という番組もあった)などを見ていたけど、一番お世話になったのはTVK「ミュートマジャパン」。MVだけでなくライブ映像も結構やってくれていて、リアルな音楽の現場のあり方を感じることができた。この番組で出会った曲で最も印象に残っているのがTHE CHEWINGGUM WEEKEND「あの子をつかまえて」。「ビデオクリップダービー」というその月のおすすめ楽曲5つの中から投票で1位を決めるという企画で取り上げられていたが、メロディも歌詞もアレンジも歌も何から何までパーフェクト!発売前だったシングルを速攻予約して購入、その後のアルバムも発売当日にゲットした。結構売れ線な部分もあったしソニーも力入れていたのに(ファーストアルバムの価格が2000円で設定されていた。売る気のプロモーションだったと思われる)、世の中的には鳴かず飛ばずでそのまま解散してしまったのはほんとに残念。

ミュートマジャパンは今も放送されているようだけど、少し前にアーティストのトークみたいなものが主体の見るべき部分が全くない番組に成り下がってしまった(ここ最近は見ていないのでどうなっているか知らない)。また昔のような独特の磁場を持った番組に戻ってほしいものである。あとこの時代の地方テレビ局と言えば音楽だけじゃなくてエッチな番組も夜やっていて・・・というのはまた別の機会に。

●マイオリジナルVHSを作る

ラジオで流れる曲をテープやMDに録音してアーカイブを増やしていたのと同様、テレビについても好きなバンドの出演シーンやMVなどをVHSに録り貯めていた。ただ当時は編集などという気の利いたことができるはずもなく、テレビの前でスタンバイしてその部分だけ録画するというようなことの繰り返しで少しずつストックを作っていた。たまに慌てていると、間違えて全然関係ない番組をかぶせてしまうこともあり・・・今となってはデジタル環境が整う前の古き良き思い出って感じではあるが、当時はなかなかショックだった。見たいときにインターネットで何でも探せる時代とは隔世の感がある。

●ワッツイン→ミュージックマガジン→ロッキングオン

テレビやラジオだけでなくて活字でも音楽情報を仕入れるようになったのはたぶん中学2年生くらいから。当時はワッツインとCDデータがわりとポピュラーな、というかメジャーなJポップをおさえているニュートラルな雑誌として存在していて、自分の周りではゆるやかにどっち派かみたいな雰囲気もあった。自分は何となくの好みでワッツインを買うようになり、そこでアーティストへのインタビューなどを定期的に読むようになった。記憶に残っているのは年末にやっていたいろんなアーティストがその年の作品のベスト5(だったかな)を選ぶ企画と、レギュラーで載っていたセルフライナーノーツコーナー。後者ではサニーデイ・サービス『愛と笑いの夜』について、メンバーがそれぞれの曲の元ネタを紹介するということをやっていた(当時は「なんてスリリングなことを・・・」と思ったけど、何のことはない、いわゆる渋谷系マナーの中での話だった)。あとワッツインに関してはワッツインエスという姉妹雑誌もあって、こちらは洋楽を多めに扱いつつ日本の音楽にも触れているもの。コアになりすぎずにいろいろな情報を取り上げてくれていて、結構一生懸命読んでいた記憶が。

そのうちにだんだんもうちょっと小難しい評論みたいなものも読みたくなり、手に取ったのがロッキングオン・・・ではなくミュージックマガジン。ここでミュージックマガジンに行った理由は、インタビューよりも書き原稿が主体だったから。いろいろ「解説」してもらいたいお年頃だったのだと思う(同様の背景で宝島系のムックもよく立ち読みしていた)。初めて買った号の表紙はたぶんアラニス・モリセットだったような・・・当時流行っていたワールドミュージック系の話題が載っていたり、自分が今まで普通に聴いていたJポップが大っぴらにディスられていたり、まさに新しい文化との出会いだった。今思えばいきなりRO社に行かずにミュージックマガジンを挟んでいるのは、その後の自分の嗜好に大きく影響を与えているような気がする。その後ロキノン文体にどっぷりつかりながらもどこかで相対化できているのは(あくまで「できているつもり」だけど)この時に染みついた感覚による部分が大きいかもしれない。

そしてなんやかんやでRO系の雑誌に辿り着くんだけど、たぶん先に買い始めたのは本誌、つまり洋楽の方。オアシスを好きになってそのあたりの情報をとるにはミュージックマガジンよりもこっちの方が良さそうという感じだったと思う(これも周りにはクロスビート派とロキノン派がいた)。JAPANもそのころからたまに買っていたとは思うけどあまり記憶になくて、本格的に買い始めたのはおそらく98年のフジロックの後から。ブランキーが表紙の号にフジロックのことが載っていて、その号から10年くらい延々と毎月買い続けることになる。あの頃はそこまでお金はなかったけど毎月RO社の雑誌を必ず2冊買っていたわけで、そりゃそうやって情報を浴びていればその思考に毒されていくのは仕方ない・・・ただ、正直なところこの当時読んでいた文章で「あの評論に衝撃を受けた!」「あの号はやばかった!」みたいなのが全然ないのが不思議。そういう意味では厳密には「ロキノン少年」ではなかったのかもしれないし、あくまでも情報を得る手段の一つとして捉えていたのだと思う(もちろんここで言う「情報」というのには考え方やアングルも含まれていたという頃になるんだろうけど)。

●偉大なるBUZZ

ミュージックマガジンに関するところで「インタビューより書き原稿が読みたかった」的なことを書いたが、そういう欲求にRO社側から応えてくれていたのがBUZZ。シーン全体を俯瞰するような記事やロックの歴史を振り返るような特集を隔月で届けてくれるこの雑誌はほんとにわくわくしながら読んでいた。当時はちょうどロックとダンスミュージックの融合みたいな話がたびたび出てきているタイミングで(最近の「四つ打ちロック」みたいな話ではなく、ケミカルブラザーズやらプロディジーやらファットボーイスリムやら。「ビッグビート」なんて言葉が出てきていた)、そのあたりの解説とかもこの雑誌で読んだと思う。コラム陣も豪華で、ちょうどその頃売出し中だった金子達仁なんかも登場していた。

BUZZにおける「複数のシーンやジャンルを横断する」というスタイルは、自分がいずれ書き始める文章に多大な影響を与えている。このBUZZを作っていたのが編集長鹿野淳、編集部に兵庫慎司と宇野維正。今でもこの辺の人たちには強いリスペクトがあるし、何かの拍子でたまに名前を並べてもらえるのは光栄という他ない。

●J-ROCK magazineで勉強したジャンルの名前

ここまで名前を挙げた雑誌以外にも、気になったものは財布と相談しながらちょこちょこ買っていた。ワッツインをメインで読んでいる頃は合わせてビジュアル系に強いB-PASSを買ったり、ロッキングオンだけじゃなくてクロスビートも買ったり。そんな中ですごく印象に残っているのが、「プロデューサーに憧れて」の項で触れた「「J-ROCK magazine」。たぶん96年か97年頃、音楽ジャンルを勉強しよう!みたいな特集でジャンル名の解説が辞書的に載っているものがあって、ちょうど「もっと音楽に詳しくなりたい」と思い始めていたタイミングだったので結構真剣に読んだ。「ネオアコ」という言葉を知ったのもこの特集から。楽曲の例としてフリッパーズギターの「カメラ!カメラ!カメラ!」とスピッツの「青い車」が挙げられていた。

今でさえジャンルの意味なんかは検索すれば言葉の解説と一緒に該当する音源まで一緒に聴けちゃうけど、当時はなかなか体系立ててまとまっているものを見つけるのも中学生には難しく、こういう雑誌の特集をバイブルとして使うより他なかった。こう考えると今の時代に雑誌が苦しいというのはほんとに当たり前という感じがする。「情報の編集権」が読み手に移ってしまった中で、「紙媒体という固定的な場所に情報をはめこむ(しかもそこまでタイムリーではない)」というのがどういう意味なのかしっかり考え直さないといけないタイミングに来ている。

●「アナログブーム」に上辺だけ突っ込む

ここ最近アナログレコードがブームという言説をよく聞くが、90年代の半ば、自分が中学生から高校生になるくらいのタイミングでもアナログレコードブームがあった。このブームはDJというものが一般的になる過程で起きたものだったと記憶しているが(「DJとは」「スクラッチとは」みたいな説明をよくテレビでやっていた)、その前段として渋谷系の動きとリンクする「元ネタ探し」やレアグルーヴのムーブメントが関係していた・・・なんてことを知るのはもう少し後の話。この時点では何となく「アナログレコード、かっこいい・・・!」という感情が先走っていた感じだったと思う。

とりあえずはプレーヤーが欲しいと思い、97年の2月くらいに当時微妙に流行っていたポータブルレコードプレーヤーを親に買ってもらった(黄緑のスケルトンカラー、カジヒデキマスカットモデル)。最初はスピッツのアナログを買ったり小沢健二の7インチを買ったりとJポップ寄りの買い物が多かったけど、そのうち「ジャケ買いというものをしてみたい!」という動機でディスクユニオンの中古レコード売場や渋谷宇田川町、西新宿などのレコード街へ足を運ぶようになり、わけもわからず雰囲気だけでレコードを買っていた。たぶん買っただけで聴いていないものもあったはず。とりあえず「未知のレコードを買っている」「それをCD用の袋よりも大きいビニール袋に入れて持ち歩いている」ということ自体にものすごい価値を感じていた。その証拠の一つとして、あの頃行ったいろいろなお店の包装用の袋を誰に見せるでもなく大事にコレクションしていた、というのがある。SNSなんてものはないし、ただただ自分のためだけに集めていたレコードショップの袋。あの時の「自己満足」のみで駆動していた身体性にもう戻ることは不可能だと思うとちょっと切ない。

この時のアナログブームに少しだけ首を突っ込んだことによって何かしらリスナーとしての進歩が自分にとってあったかというと別になくて、「今思うと背伸びしてオシャレっぽいことをしようとしていたなあ」という感慨が残っているだけである。こういう感触があるがゆえ、「90年代のアナログブームによって音楽文化が大きく花開いた」的な話(もちろんそんなに乱暴な内容のものは少ないが)を聞くと何となく眉唾だなあと思ってしまうのである。内実はどうでもよくて「アナログレコードを買う」というポーズだけに惹かれていた人は自分以外にも実は結構いたんじゃなかろうか。

4. 男子校と思春期

●インターネットと音楽と女の子を巡る思い出(16歳なりたて)

「あの時代はインターネットなんてなかったから・・・」的な描写をここまでいくつかしてきたが、自宅がネットにつながったのは97年。高校1年生の春ごろで、世間的にもわりと早い方だった。当時はサッカーに関する情報収集のために使うことが多かったけど(ちょうどこの翌年に中田英寿がホームページを立ち上げる)、もちろん音楽関連についても・・・と思ったが、具体的に何を調べていたのかあまり記憶にない。たぶんミスチルのファンサイトなどをちらちら見ていたんだろうけど、深くコミットするようなことはなかった。

そんな中で、ネットをやり始めて半年ちょっとくらいのタイミング、97年の11月頃にネットで知り合った女の子に会うというイベントが勃発した。たぶん8月くらいだったと思うけど、いろいろページを飛んでいるうちに見つけた個人ページのセンスがとても良くて、しかもそのページを作っている人のプロフィールを見ると自分と同い年の女の子だという。コンタクト先がオープンになっていたので自分も似たような趣味を持っている旨を書いたメールを送ってみたところ、好意的な返事が。そこから日常的にメールをするようになり、流れでポケベル(この文字列が懐かしすぎて死んだ)の番号を交換して、そして3か月くらい経った頃に遊びに行こうよと誘ったらOKが・・・で、渋谷で会ってマックでお昼ご飯食べて、確かタワレコとかレコファンとかうろうろして、カラオケ行ってプリクラとって解散、みたいな感じだった。こう書くとここから何かに発展しそうな雰囲気もあるが、実際のところはこのまま自然消滅。というかその後に送ったこっちのメールが「束縛」を匂わせるように見えたようですごい切れられて(1回だけ会った相手に対して当然そんなつもりはなかったのだが)、そのままコンタクトがなくなったみたいな感じだったと思う。当時はあっけにとられすぎて意味が分からなかったけど、今考えると直接会ったタイミングで向こうは何か違うと感じていたんだろう。あの頃はインターネットをやっている同年代が少なかったこともあってちょっとしたことで仲間意識が芽生えたけど、「リアルに会ってみるとネット上での幻想があっさり打ち砕かれる」というとてもインターネット感のある話を90年代後半の高校生として経験したのは意外と貴重だったのかもしれない。

ちょうどその辺の時期にリリースされていたステレオラブの『Dots and Loops』が好きとその女の子が言っていたのがすごく印象に残っていて、あのアルバムを聴くと当時のことは何となく思い出す。とは言え、さすがにもう記憶が曖昧になってきていて顔もはっきりとは出てこなくなってしまったけど(なんせ直接顔を見たのは1回だけである)。

●ハイスタに教わった新しい「ポップ」の形とリア充カルチャー

さっきの件に象徴されるように90年代の大半を男子校で過ごした中で女性周りの話で大していいことは起こっておらず、何らかのきっかけからグループ同士で遊ぶようになったりしてもそこから特に進展せずみたいなケースが何度かあった(ありがたいことに矢印が向こうから出ていて最初はその気だったのになぜか途中で別の女の子に行って玉砕、みたいな意味不明なことをしてしまったこともあった。たぶん相手側の人間関係にも影響したと思うし、今考えてもなぜああいうことになったのかほんとに理解できない)。

同じ学校の中には当然女の子と器用に遊んでいる派手なグループもいて、そいつらは大体徒党を組んで池袋あたりをうろうろしていた。今で言うところの「リア充」集団で、その中には雑誌にモデルとして出ているような奴も含まれていたりした。

そのあたりの連中のバイブルとして「東京ストリートニュース」という雑誌があった。これは同世代のかっこいい・かわいい高校生を祭り上げて盛り上がるタイプのメディアで、妻夫木聡や高島彩もこの界隈から世に出てきている。そしてこの雑誌が取り上げる「いけてるカルチャー」の一つとなっていたのがメロコアであり、その旗手として注目を集めていたのがHi-Standardだった。

90年代の音楽が語られる際に「いろいろな音楽が溢れていた素晴らしい時代」みたいなキャプションがつくことがある。もちろんそういう側面もあったが、自分として思うのは「この時代の音楽も、スクールカーストと分かちがたく結びついていた」ということである。ハイスタもその存在から「あの時代のインディペンデントの象徴」みたいに扱われることが多いが、受容のされ方の一つとして「いけてる高校生にとってのおしゃれアイテム」というものも確実にあった(あの時ハイスタで騒いでたチャラい奴らの何人が今音楽を聴いているだろうか?)。

自分がハイスタを知ったのは、まさに池袋をうろうろしていた派手なグループにいる友人がきっかけである(そのグループとは距離があったが、軽音楽部のつながりなどで個人的にやり取りをしている友人は何人かいた。ちなみにそのつながりがあったうちの一人は、今では一部界隈で話題のリーマンマイクのメンバーとして活躍している)。昼休みに聴かせてもらった『Angry Fist』はほんとにインパクトがあった。当時スウェディッシュポップとかに傾倒していた自分にとっては漠然と「パンク=うるさくて聴きづらい」というイメージがあったのだが、ハイスタは「うるさいのにポップで聴きやすい」という今まで体験したことのないバランスを携えていた。『Angry Fist』を聴いたのは後追いだったが、次の『MAKING THE ROAD』はリリース時から聴きまくって、ちょうど受験勉強が佳境を迎える高3の夏休みのBGMとなった。おそらく人生で最も多く聴いたアルバムだと思う。

「ガツンとハードな音で、かつメロディアスな感触」というのは、これ以降自分にとって好みのバリエーションの一つとして確立されていく。しばらく時代を下ってからエルレを大好きになったのも、今現在フォーリミを好きなのも、この時に形成された価値観によるものである。そんな自分にとって重要なバンドであるハイスタのライブを初めて見たのは2011年。震災後の再始動タイミングでのAIR JAMだった。あの時のライブ前の緊張、「いよいよハイスタがやるぞ・・・」という胸の高鳴りは、今後どんなライブでも感じることは決してないだろう(ジュディマリが再結成しない限り)。しかし2016年に突然ハイスタの新譜を聴くことになるとは夢にも思っていなかった。生きていると予期しないことがたくさん起こる。

●ゆずという存在のデカさ

中学生の時にアコギを買って、高校に入ってからバンドを組んでボーカルギターを担当していた。コピーしていたのは最初のバンドだとミスチルやスピッツ、次のバンドではその辺にプラスしてオアシスやストーンローゼズなど。卒業時に友達と渋谷のDESEOを借りてライブをした際にスポットで組んだバンドではハイスタなんかもやった。ただ、一貫して一番好きだったのはアコギを弾きながら自分で歌うことで、「月刊歌謡曲」というコード譜が載っている雑誌を買っては家で勝手に弾き語りをしていた。

そんな折に一気にブレイクしたゆずは、自分にとって「これ歌いたい!」という曲がたくさんあるグループだった。98年に「夏色」で一気に人気者となった彼らだけど、特に自分にとって刺さったのはそのシングルから遡って聴いたアルバム『ゆずの素』と『ゆずマン』。前者に収録の「地下街」と後者に収録されている「~風まかせ~」はコードも歌詞も覚えて楽譜を見ずに歌えるようになっていた。「ひとりゆず」だったので、たまにテープレコーダーを2台使って自分のボーカルを多重録音する遊びなんかも誰に聴かせるでもなくやっていた。その後のシングルも好きな曲が多く、特にフルアルバムとして2枚目の『ゆずえん』は先ほど触れた『MAKING THE ROAD』と同じ時期にかなり聴いた。ゆずとハイスタというとかなり極端な組み合わせにはなるが、おそらくこの2グループを並行して聴いている高校生は当時多かったのではないだろうか。無理やり括ると、どちらもまとっていたのは「ストリートの匂い」。路上ライブからじわじわと知名度を上げてどこかのタイミングで一気にブレイク、という流れには既存のレコード会社的な売り出しと異なる魅力があった(今思えばあれも巧妙なプロモーションだったのだと思う)。「オールナイトニッポン」でのキャラクターも楽しかったし、番組ラストで行われる生演奏を録音してMDにまとめたりしていた。

今でもJポップを牽引する存在として君臨するゆずだが、最近は彼らの影響を公言するアーティストも増えてきている。特に自分と同じ80年代前半から半ばに生まれた層はやはり大きなインパクトを受けていたようで、クリープハイプの尾崎世界観、SEKAI NO OWARIのFukase、いきものがかりの水野良樹、ceroの高城晶平と音楽性の全く異なる面々がルーツとしてゆずの名前を出している。アコギと歌、それにコーラスというあらゆる虚飾を取り払った音楽をやっていたからこそ、様々な方面に強い影響力を行使したのだと思う。

●「アイドル」を一手に背負った広末涼子の歌

男子校に通う男の子であったがゆえ、テレビでしか会えない女性にも淡い恋心を抱いたりした。ミュージシャンで好きだったのは、今は汚れになってしまったけどグラビアアイドル上がりで歌手になった頃は普通にかわいかった華原朋美や、見た目とラジオなどでの喋りのギャップにグッときたthe brilliant greenの川瀬智子など。そして、いろいろな括りを取っ払ってとにかくもうぶっちぎりで好きだったのが広末涼子。手帳に生写真を入れたのは後にも先にも彼女だけである。

広末涼子が「MajiでKoiする5秒前」で歌手デビューしたのは97年の4月。すでに彼女の大ファンではあったけど、音楽の趣味についてはいっぱしの自意識も芽生えてきていた時期だったので、諸手を挙げて褒めたりなんてことはできなかった(あの曲を今になって「アイドルの名曲」的に持てはやしている人たちだって、リリース当時はそこまでポジティブには捉えていなかったはず)。楽曲としていいなと思ったのは、翌年の夏にリリースされた「summer sunset」。この曲はMVも素晴らしくて、千葉テレビで流れていたものを録画して何度も見た。それでもやはり「歌手」としてはそこまで好きにはならなかったのは、自分が当時好んでいた音楽のカルチャーと彼女の存在がどうにも結びつかなかったからだと思う。

ちなみに、3年前に彼女のベストアルバムがMV集と武道館ライブのDVDつきで再発されたので迷わず購入。その映像を見て感じたのは、強烈なまでの「アーティスト臭」だった。少し鼻にかけた感じの発声方法や歌う際の立ち方など、いかにも「私はアイドルではなくてアーティスト様よ」というオーラが出ていて今見るとなかなか気持ち悪い。「アイドル」というものがなめられる時代だったことを示す非常にわかりやすいサンプルである(それでもどうしようもなくかわいいのは間違いない)。

5. アイドル(的なもの)

●『R』『H』と『AmiGo』

広末涼子にどっぷりはまっていた10代を過ごしていたのに、彼女の最初の写真集『R』『H』を買わなかったのはとても不思議である。たぶん当時は「そういう写真集を買う自分」というのと「音楽に詳しくてアナログレコードを買っちゃったりする自分」みたいなものの間での折り合いがついていなかったのだと思う。音楽に造詣の深い人たちがナチュラルに乃木坂46の話をする2016年はとてもいい時代なのだと思う。

写真集という話で忘れられないが鈴木亜美の『AmiGo』。これも前述の理由により自分で買ったわけではないけど、友人に借りて見せてもらった。歌手として売れている人が水着になっているのを見るのは妙に興奮した記憶が。今であれば間違いなく「アイドル」として括られる存在だったと思うけど、それを「実力派アーティスト」風に仕立てる小室哲哉の手法、およびそれを当然のものとする空気が90年代にはあった。

●「アイドル」と「アーティスト」の狭間で ①SPEED

「今であれば絶対アイドルのカテゴリーに入るけど当時はアーティスト扱いだった」という存在の代表格がSPEEDである(「アイドルなのかアーティストなのか」みたいな話は本来どうでもいいところだが、便宜上このフレームを使って話を進める)。自分と同世代の女の子たち(新垣仁絵が自分と同い年、最年少の島袋寛子が自分の妹と同じ年齢だった)がここまでバリバリ歌って踊るということへの衝撃は大きかったし、普通にファンになった。楽曲的には当時のR&BっぽさをうまくJポップに変換した最初の2曲「Body&Soul」「STEADY」が特に好きかも。その2曲も入っているアルバム『Starting Over』、その次の『RISE』は名盤。

●「アイドル」と「アーティスト」の狭間で ②川本真琴

川本真琴が「アイドル」と「アーティスト」の狭間にいた、という分類にはピンとこない人ももしかしたらいるかもしれない。自分も最初はそんなことを思っていなかったけど、渋谷公会堂で行われた『川本真琴』リリース後のライブに行ったら男ばかりで「あ、この人は音楽だけじゃなくてビジュアルとかも含めて人気のある人なんだ」と認識を改めた次第。いわゆる「アイドル冬の時代」だった90年代において、女性シンガーというのは程度の差はあれ「アイドル」的な要素を持っていた(このあたりは宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』にも指摘があった)。

『川本真琴』も90年代後半によく聴いたアルバムの一つで、シングル曲以外の楽曲もかなり粒ぞろいだった。「タイムマシーン」は恋する女子のバラードとして今でも色あせていないし、「ひまわり」の何とも言えないほっこりするけど切ない雰囲気や「やきそばパン」の焦燥感など、かなり独自の空気を醸し出しているこの作品。ちなみに件の渋谷公会堂のライブでは、「やきそばパン」の演奏中に実際に焼きそばパンを投げる演出があり、一緒に行った友人のすぐ近くに飛んできていた。普段はクールなその友人が、取れなかったことに対してものすごく悔しがっていた。

●マイルーツとしてのASAYAN(音楽の話)

当時日曜日の21時からテレビ東京でやっていたオーディション番組「ASAYAN」。ここからモーニング娘。が生まれたわけだが、おそらく今の自分がアイドルを好きであることのルーツはこの番組にある。女の子たちが力を合わせて困難に立ち向かっていく(そもそもオーディションを落ちた人たちの寄せ集めグループだったし、「手売りで目標枚数に達するとメジャーデビュー」という展開もあった)ということの残酷なまでの面白さをここで知ってしまったからこそ、AKB48のあれこれやPerfumeの立身出世ストーリーに肩入れしてしまうのだと思う。とは言えモー娘。の面々が落ちたオーディションは「シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディション」だったし、「アーティスト志向」の人たちが「いかにもアイドル」風のことをやるという意味でこのグループのあり方は若干ねじれたものではあった(ことさらに「アイドルグループだ」という打ち出しは当初はされていなかったのではないだろうか?)。

モーニング娘。に関しては、とにかく2枚目のシングル「サマーナイトタウン」にやられた。あのメロディラインは自分にドンピシャだった(あと明確にセンターに据えられたなっちこと安倍なつみのかわいさにも衝撃)。よく言われる「LOVEマシーン」で大ブレイクというのはその通りなんだけど、個人的に好きだったのはその2枚前に出たシングル「真夏の光線」。いかにもな感じの派手なおかずが乗る展開は理屈抜きに心地よくて、今でもたまに聴きたくなる。「LOVEマシーン」に関しては学校帰り(高3で受験勉強真っ只中のタイミングではあったけど)にクラスの連中とカラオケに行って男だけで歌いまくった記憶が。

「LOVEマシーン」がリリースされたのが99年9月で、SPEEDが解散を発表したのが99年10月。このタイミングがちょうど「“アーティスト的”な出自もある“アイドル的”な女性グループ」(すごくまどろっこしい言い方だがこのくらいの塩梅が正確なはず)の政権交代の時期だった。モー娘。はこれ以降ある意味企画性の高い楽曲に傾倒していく比率が高まり、いわゆる「アイドル」としての佇まいを掴みとっていくようになる。「LOVEマシーン」より前、たとえば「Memory 青春の光」なんかはもろに当時のR&Bをやろうとしていたけど、そういう「アーティスト」っぽい方面への色気はシングル曲に関しては影をひそめるようになっていった(アルバムまで深く追っていたわけではないのでこの辺は曖昧)。まだまだ「本格アーティスト」全盛の時代に「アイドル」方面へ思い切って舵を切ったつんくの先を見る力はすごい。

●マイルーツとしてのASAYAN(音楽の話ではない)

ASAYANでは音楽関連以外にもオーディションをやっていて、特に好きだったのが三井のリハウスのCMに出る女の子、つまり「リハウスガール」を決めるオーディションだった。最終的には池脇千鶴が選ばれるわけだが、そこに至るまでにたくさんのかわいい女の子が登場した。身の回りに女子のいない男子校通いの自分にとって、「普通っぽいかわいい女子」をまとめて見ることができるこの企画は毎週の楽しみだった。

この時代は「アイドル」という言葉から想起されるのは「ダンス&ボーカルグループ」ではなく「若手女優」だったように思える。そういう意味で、「アイドルなんて・・・」みたいなスタンスで音楽を聴いていた自分も違った意味でこの時期から「アイドル」にはどっぷりだったんだなあと再確認。

●「SMAPの歌ってかっこよくない?」というスノッブの作法

2016年の芸能界において最も大きな話題となっているSMAPの解散劇。それに絡めてSMAPの音楽的な功績を再評価する言説も多数出てきている。実際自分としてもSMAPの好きな曲は多いし、特に2011年の震災以降の「日本国民統合の象徴」としての姿は本当にまぶしく思っていた。

90年代のSMAPと言えば、森くんの脱退というショッキングな事件もはさみながら国民的スターとしての階段を駆け上がっているタイミング。この頃に何となく言われ始めていたのが「SMAPの歌って“実は”かっこいいよね」という話だった。当時自分が読んでいたワッツインにも彼らの楽曲をジャズ・フュージョンの実力派がカバーした『Smappies』の解説コラムが載っており、確かその流れで『SMAP 007 ~Gold Singer~』がやばいブツであるということも知った。

ここまで再三触れている通り当時は「自作自演信仰」「アーティスト至上主義」的な色合いが非常に強く、ジャニーズの音楽というのも一部の好事家を除いては正当には評価されていなかったように思える(このあたりのニュアンスが最近の「SMAPは音楽的にすごい論」からは伝わってこないのが気になる)。そういう中で「いや、でもSMAPの歌はいいんだよ」と力説することは、ある意味で昨今の「女性アイドルの曲にもいいやついっぱいあるよね。あくまで音楽的に」というような「楽曲派」の走り的な行動と言えなくもないのではないか。「SMAPの音楽を褒めること=音楽的なセンスがある、わかっていることの証明」というのが90年代半ば~後半の空気だった、というのが自分の認識。

SMAPに関しては妹がキムタクの大ファンでCDも買っていたということもあったりして、リアルタイムで聴いているアルバムもいくつかあった。特に好きだったのは『SMAP 011 ス』。SMAPのディスコグラフィーにおいてはあまり語られることがない印象だが、スガシカオによるSMAP屈指の名曲「ココニイルコト」が収められている。他にも先行シングルだった山崎まさよし曲のカバー「セロリ」、フィッシュマンズを吾郎ちゃんがカバーした「それはただの気分さ」、忌野清志郎によるキムタクソロ「弱い僕だから」などシンガーソングライターとのコラボ色が強めの作品で、よく言われる「ソウルフルでファンキーでアーバンなSMAP」とは少し違うSMAPが楽しめる。

6. 渋谷系など

●誰がどこでフリッパーズギター/フィッシュマンズを聴いていたんだろう?

「90年代のベストアルバム」的な企画で必ず登場するのがフリッパーズギターとフィッシュマンズ。ただ、自分にとってこの2グループの印象は非常に薄い(熱心なファンには怒られそうだがこれは事実である)。フリッパーズに関しては「世代が違う」というのが一番大きくて、自分が音楽を聴き始めた1992年には既に解散しており、高校生の頃に後追いでアルバム3枚とも聴いてみたもののあまりピンとこなかったというのが正直なところ(大人になってから1枚目を少し好きになった)。フィッシュマンズについてはリアルタイムのグループで同世代にもファンは多いが、おそらく初めて聴いた音源が歌メロの後退したダビーなものでそのまま自分ごと化しなかったという流れだったはず。最初に出会うフィッシュマンズが「いかれたBaby」だったら状況は違ったのかもしれない。

そんなバックグラウンドがあるので、この2グループを神格化している同世代を見ると少し警戒してしまうところがある。「持ち上げておけば間違いないもの」として取り上げて輩が混ざってはいないか?

●J-POPスターとしての小沢健二

そのフリッパーズギターの片割れである小沢健二は自分にとってものすごく思い入れのあるアーティストの一人だが、彼についての自分の認識は「Jポップスター」というものである。HEY!HEY!HEY!でダウンタウン相手に金持ちネタで面白トークをかまし、スタジオライブでは観客をステージに上げてパニックを起こし、CMにも紅白にも「おしゃれカンケイ」にも出てしまう彼のポジションは「渋谷系」なんていうカテゴリーを軽く凌駕するものだった(最近の星野源の立ち振る舞いが、この頃のオザケンに少しかぶるときがある)。黒夢やSOPHIAが好きな女の子にカラオケで「わたしオザケン好きなの!「強い気持ち・強い愛」歌って!」なんて言われたことがあるけど、たぶんあの子はフリッパーズギターのこともOliveでの連載のことも知らなかっただろう。オザケンの存在を振り返るうえで、テレビで彼が何をしていたのかということを外してしまうとかなりアサッテの方向に行ってしまうような気がする。「王子様」としてマスメディアで振舞っていた彼のことをちゃんと検証したオザケン論は思いのほか少ない。

自分がオザケンにはまったのは、『LIFE』ではなくその後の短冊シングル群から。『LIFE』はそこから戻って聴いた。「大人になれば」でいきなりジャズになったのはびっくりしたけど、あれも自分がジャズという音楽を知るきっかけになった。そんなわけで『球体の奏でる音楽』も何気に結構好き。

●もう一つの「渋谷系」 -- シャ乱Qと鈴木蘭々

「シャ乱Qと鈴木蘭々が渋谷系だ」などと言ったらたくさんの原理主義者から鼻で笑われそうな気がするが、何の話をしているかと言うと95年に放送されていたテレビ番組「今田耕司のシブヤ系うらりんご」の主題歌の話である。これ以外にもスピッツ、RAZZ MA TAZZなども主題歌を担当していた。

この番組は平日夕方に渋谷公園通り劇場から生放送されていたバラエティ番組で、まだまだ「若手」的な扱いだった今田耕司やナインティナインなどが出演。今では考えられないような過激な企画がまかり通っていためちゃくちゃな番組だったが(詳しくはwikiを見ていただきたい)、個人的に思い出深いのは金曜日のゲームコーナーで、「うらりんギャル」という女の子たちがミニスカートを着て身体を動かすいろいろなゲームに興じるというもの。当然パンツは丸見え(もちろん見えていいものをはいていたはずだが、色が白だったため妙に艶めかしかった)。しかもそのゲームに負けたうらりんギャルが受ける罰ゲームは、選ばれた観客の男性に抱きつかれるというとんでもないもの。これを平日の夕方に地上波でやっていたんだから、ポリティカルコレクトネス第一の今とは隔世の感がある。男子中学生だった自分は当然楽しみにして見ていたし、大人になってからあの番組の動画をネットで探した同世代の男も多いのではないだろうか(自分もそのクチなので、そのひどい罰ゲームの一部がYouTubeに残っていることを知っている)。

●「フォーキー」にかぶれる ①サニーデイからはっぴいえんどへ

「渋谷系」の中に定義されるかどうか厳密には微妙なところだが、そういう音楽を聴いている中で好きになったバンドとして挙げられるのがサニーデイ・サービス。最初に知ったのは『東京』で、今まで自分が聴いていた日本のバンドとは全く違う質感の音に驚いた。そこから「この背景にははっぴいえんどというバンドがあるらしい」ということを知り、『風街ろまん』に辿り着き、さらに日本語ロック論争とかその手の話が書かれている本を読んだりしてあの時代についての理解を深めていった。ただ、そのときの過去の音源をさかのぼる行為ははっぴいえんどから早々にYMOに辿り着き、彼らが活動していた80年代への興味からボウイやらレベッカやらに流れるという今考えると謎の展開を見せたので、残念ながらはっぴいえんど界隈に詳しくなるということはなかった。あの頃細野晴臣のソロ作とかもっと聴いていたらいろいろ違ったんだろうと思うけどまあこればっかりは仕方ない。

サニーデイについて一番はまっていたのは97年で、年初に出た『愛と笑いの夜』と11月の『サニーデイ・サービス』はほんとによく聴いた。『24時』は正直よくわからなかったけど(先行シングルの「さよなら! 街の恋人たち」は好きだった)、『MUGEN』も『LOVE ALBUM』も97年ほどではないにせよ気に入っていた。その後の曽我部ソロや再結成後の動向はそこまでディープに追ってはいなかったけど、今年出た『DANCE TO YOU』の名盤ぶりにはぶっ飛んでいる。あとこの人たちはオリジナルアルバムに入っていないシングルにも名曲があって、「ここで逢いましょう」も「恋人の部屋」も本当に素晴らしい。「恋人の部屋」はTVKで流れてたMVを録画して何度も見た。

ちなみにここで名前を出したはっぴいえんどだが、今では「日本のポップスの創始者」的な位置づけですっかり神格化されている感がある。一方で、そんな流れを「はっぴいえんど史観」と揶揄しながら「歴史が書き換えられている」と違和感を表明する層も一定数存在する。当時のことを思い返すと、たとえばミスチルやスピッツが売れた際にはっぴいえんどの名前が出てきたことはなかったと思うし、もちろん小室ファミリーとはっぴいえんどなんて話題がなかったのは言わずもがな。「はっぴいえんどが日本のポップスにおいて重要な役割を果たした」という言説自体はもちろん正しいと思うけど、少なくともJポップという概念が形作られていく中ではっぴいえんどの名前は出てきていなかったし、サニーデイ『東京』の頃に新しいタームが生まれたような印象がある(ただ、『東京』もバカ売れしたわけではないので、世の中的に再評価が進んだという感じではない)。はっぴいえんどに関してはむしろここ数年で改めてポジションが爆上がりしたような。ゼロ年代にはっぴいえんどの話をしてる人なんてほんといなかった気がするけど、2012年~2013年あたりのインディームーブメントの中でわかりやすいシンボル化したのがでかいと思う。この辺は継続的に考えていきたいところ。

●「フォーキー」にかぶれる ②かせきさいだぁとソウルセット

サニーデイやはっぴいえんどの話題において「フォーキー」というキーワードがある。最近はあまり言われないような印象があるが、文字通り「フォークっぽい」みたいな話。この文脈とヒップホップが掛け合わさったところにある音楽が当時は結構好だった。と言っても、最初は「こういうの聴いてる俺かっこいい」が先行していたのは間違いない。最初にピンと来たのはTOKYO No.1 SOUL SET。当時Mステの前にやっていた「はなきんデータランド」というランキング番組で、「最近売れてる日本のヒップホップ特集」みたいな感じで確か六本木WAVEの日本語ヒップホップチャートを紹介していた。そこで流れていたソウルセットに「??」となったものの、妙に気になって池袋のタワレコでCDを購入。本当の意味で好きになったのは『TRIPLE BARREL』に収録されている「黄昏'95〜太陽の季節」。いまだにたまに鼻歌で歌ってしまう。あとは『Jr.』も相当聴いた。最後から2曲目で「ヤード」が流れてくるところの名盤感はやばい。「フォーキー」という概念とより近いのがかせきさいだぁ。思いっきりはっぴいえんどをサンプリングしていたし、あとは歌詞に梶井基次郎が出てきたりと、今で言うところの「レトロ」な文脈をうまく自分のものにしていた。「じゃっ夏なんで」は今でも人生の夏ソングナンバーワン。

7. 日本のロックの夜明け

●1997年のSWEET LOVE SHOWER

今では3日間の大型野外フェスとなったSWEET LOVE SHOWERだが、昔は野音で一日だけ行われるイベントライブだった。当時高校1年生だった1997年にこの「野音ラブシャ(今考えた名称)」にサニーデイが出るということでチケットを入手。家の近くの公衆電話からチケットぴあに電話した記憶がある。この日の出演者はサニーデイ以外には山崎まさよし、フラワーカンパニーズ、ホフディラン、Cocco、そしてミッシェルガンエレファント。今考えても豪華な組み合わせである。「ライブ」と言うものに参加するのはこれがまだ3度目(最初は前述のとおりラルク、2回目はカーディガンズの来日公演@赤坂ブリッツ)。当然どのアクトも初めて見るものだった。このライブに参加したことは、自分のリスナー人生においてかなり大きかったと思う。中学3年生頃から何となく認識し始めていた「ヒットチャートとは異なる場所にある音楽文化」を目の当たりにして、その空気のかっこよさと言うものを体感したことで趣味嗜好がそちらの方向にグッと向いていった。トリを務めたミッシェルはほんとにかっこよかった。ちなみにこの日はリサ・スティッグマイヤーとユースケ・サンタマリアが司会。ユースケまだそんなに売れてないタイミングだったけどほんとに面白かった。手前で書いた話と若干矛盾するけど、むしろバンドの演奏よりそっちの方が印象に残っているくらいである。

●「俺たちがニッポンのミッシェルガンエレファントだ!」

スイートラブシャワーに出た頃のミッシェルと言えば、ちょうど「カルチャー」が出たあたり。「世界の終わり」から動向は気になっていたけど、ほんとに自分ごとになったのはその年の夏の「ゲット・アップ・ルーシー」「バードメン」の流れから。「バードメン」のマシンガンみたいなカッティングはほんとにやばい。自分の行っていた高校は9月末に文化祭があってそこで一度学内のバンドの再編が行われるのだが、97年9月~10月のタイミングでミッシェルをやるコピーバンドがいくつか組まれていた。

ミッシェルに関する思い出で一番決定的なものは、2003年のt.A.T.u.×Mステドタキャン事件・・・ではなく(あれもリアルタイムで見ててとんでもなく興奮したけど)、1998年のフジロック@豊洲。97年の途中中止を経て一度だけ東京で行われたフジロック。当時高校2年生だった自分は友人と2人で参加。前日まで雨が降っていて地面はどろどろ。にもかかわらず、初日はよくわからずにきれいめの格好・きれいめの靴で行ってしまってひどい目にあった(翌日は学習して軽装で行った)。ベックとビョークが目当てだった初日は、思いのほか日中のガービッジで盛り上がってしまって昼間からへとへとに。ガービッジの前はブランキーだった。そして2日目、念願のミッシェルのライブ。気合を入れて前の方で見ようと待機していたら、ライブスタートと同時にものすごいパニック。このあたりはWOWOWで放送されたものとかがYouTubeにアップされているから見たことのある人も多いはず。まだ大型のスタンディング公演、しかもGLAYとかではなくて体をぶつけ合うようなタイプもの(ちなみにGLAYの幕張20万人ライブは翌年の99年)に免疫のあるオーディエンスは少なかったわけで、本当に凄まじい状況になっていた。自分も友達も転んでかなり危険を感じたし、周りの人に起こしてもらったり逆に周りの人を起こしてあげたりもした。

この時のライブでチバから発せられた「俺たちがニッポンのミッシェルガンエレファントだ!」というMCは、自分が生で体験したライブMCの中で最もかっこいいものかもしれない。洋楽主体のフェスの中でメインステージを任された(と言っても当時はグリーンとホワイトしかなかったけど)プライドを感じた。ちょうど初回のフジロックでレイジとレッチリの間に挟まれたイエモンが苦戦したみたいな話も漏れ聞こえてきていたし、こちら側も勝手に「そうだ!日本にはこんなバンドがいるぞ!」みたいな愛国心的なものを震わされる何かを感じていた。ライブ最初のぐちゃぐちゃに巻き込まれてぼろぼりになりながらも、終わり間際の「バードメン」のイントロが始まった瞬間に自分の中にほんの少し残っていた体力が「うおおおお!!」みたいな感じで全身にみなぎってきて暴れまくったことは鮮明に覚えている。そんな状態だったので、ミッシェルが終わった後は夕方まで死んだように動けなかった。

この日のチバのMC、「起こしてやろうぜ、せっかくだからよ」「気持ちはわかるよ、ロックンロール好きな気持ちはよくわかる」というのもあった。いまだに日常会話で「せっかくだから」「気持ちはわかる」というフレーズが出てくると、即座にこのMCが思い浮かぶ。

フジロック後の11月、アルバム『ギヤ・ブルーズ』がリリース。このアルバムに関しては、リリース直前にフジテレビの「FACTORY」の特別版でやっていたアルバム曲を演奏するライブの模様が忘れられない。実は『ギヤ・ブルーズ』の盤を買ったのはずいぶん大きくなってからだったけど、友人から借りて録音したMDと合わせてこの日のライブの録画を文字通りテープが擦り切れるほど見た。ちょうどあの当時、98年の秋ごろはベルセバとかジェームス・イハとかおとなしめの音楽を聴きがちだったけど(文化祭実行委員としての活動が高2の9月で終わってセンチメンタルな気持ちになっていたので)、『ギヤ・ブルーズ』は特別だった。最近いろんなバンドが再結成しているけど、ミッシェルについては二度と再結成はないと思うと本当に悲しい。

●「洋楽ナイズ」された耳(と態度)に刺さった97/98世代

ミッシェルガンエレファントの衝撃を喰らうのと時を同じくして、自分の心をとらえて離さない存在になっていったのが、97年~98年にメジャーデビューしたバンドたち。くるり、スーパーカー、ナンバーガールと言ったあたりが代表格として挙げられる。その3つにも思い入れはあるけど、自分にとって特に重要な存在はほんの少しだけ前にデビューしていたトライセラトップス、グレイプバイン、ドラゴンアッシュ。このあたりのバンドについては追って個別に触れたい。

90年代の歴史を語る際に必ず登場するこの「97/98世代(まとめて98世代と言われることも多いかも)」だが、もちろん世の中の人全員がこういう音楽を聴いていたというわけでは決してない。日本の音楽が変わったとされている98年ですら、オリコンチャートを見れば上位3つはシングルがGLAY→SMAP→SPEED、アルバムがB'z→B'z→ELTである。先ほどのバンドの作品で「バカ売れ」したのはドラゴンアッシュの『Viva la Revolution』くらいだし、くるりのいろんな曲が様々なメディアでかかるようになるのももっと時間が経ってからのことだった。だからそういう意味では「音楽好きの中でのムーブメント」と言ってしまえばそれまでだし、例えば以前いきものがかりの水野良樹にインタビューした際も、ルーツを振り返っている中でこの辺のバンドの名前が出てくることはなかった。

ここで一つ考えたいのが、水野自身「洋楽は全く聴いていなかった」と言っているところである。おそらく、この辺のバンドの支持層は「90年代半ばから日本の音楽も聴きつつ海外の音楽、特にはオアシスだブラーだというUKまわりの音楽に触れていた層」だったのかなと思う。海外のロックをかっこいいと思って聴いていた、もしくは海外のロックを聴くのがかっこいいと思っていた人たちがすんなり手にとれるようなバンド群、および作品群。かつ、メインストリームの音とは異なる趣を出しつつ、そこまでアンダーグラウンドではなくて開けている。そんなイメージ。

この手のバンドが前述の「ミュージックスクエア」「ミュートマジャパン」で紹介されたり、Mステには出ないにせよ遅い時間のテレビ番組で紹介されたりするのを見る中で、「最近雰囲気違うバンドが多いな」と感じるようになってきた。ちょうどJAPANを読み始める時期もこの頃だったわけで、(鶏と卵どっちが先かと言う話はあるが)いろいろな相乗効果でこの辺の世界にどんどん夢中になっていった。

●「ポストミスチル」からの鮮やかな転身 GRAPEVINE

バインのことを「ポストミスチル」などと言うと「はて??」という感じも今ではするが、彼らがメジャーデビューした97年ごろには確かにこんな呼称があった。4人組でポップなメロディを歌うロックバンド、ということでざっくりこういう括りに入れられていたわけで、他にもその候補はたくさんいたけど多くのバンドはすでになくなってしまっている。そういう意味では、バインがあれから20年経っても現役バリバリで活動しているのはある意味奇跡的なことだったのかもしれない。

デビュー曲の「そら」を「ミュートマジャパン」で聴いたときからずっと気になっていたが、本格的にガツンと来たのは99年1月の「スロウ」。サビのキャッチーなメロディとは裏腹な重たいサウンドや何とも言えない閉塞感のある言葉にすっかりはまってしまった。そして続く「光について」でさらに好きになり、その2曲が入っている『Lifetime』(99年5月リリース)はほんとにがっつり聴いた。先ほど触れた『MAKING THE ROAD』も『ゆずえん』も、あと『Viva la Revolution』も99年なわけで、自分にとっての「音楽シーンの革命」は98年じゃなくて99年なのかもしれないなとこれを書いていて思った。

バインに関しては今では「玄人好みの孤高のロックバンド」みたいな位置づけになっている気がするが、『Lifetime』前後はMステに出演したりしてかなりマスに開かれた活動を行っていた。この手のロックバンドが「普通に」テレビに出ていたのは90年代の特徴なのかもしれない。最近の「○○がついにMステ出演!きゃー!!」みたいなムードではなく、「まあ売れてきたしMステに出るよね」くらいの感じだったと思う。この空気感は後述するトライセラも共有していたと思うし、またそんな時代だったからこそ「売れまくってもMステには出ない」というスタンスだったドラゴンアッシュのカリスマ性がますます際立った。

バインはゼロ年代半ばくらいからは世の中的なプレゼンスはだいぶ下がってしまったし、かくいう自分もその時期はかなり怠惰なリスナーになってしまっていたが(高校卒業直後、田中の写真を美容院に持っていって「こうなるようにパーマかけてください」とお願いしたくらいなのに!)、『Burning tree』あたりから「やっぱりバインやばいよね・・・!」みたいな声が復活してきている感じなのは嬉しい。また、新しい作品に勢いがあるからこそ過去作の再現ライブのようなともすれば「商売目当て」との誹りを免れない企画も前向きな意味で成立しているわけで、メジャーデビュー20周年を間近に控えてバンドとしてかなりいいサイクルが回っている。

●「Raspberry」よりも「ロケットに乗って」 TRICERATOPS

そのバインと同期であり、自他ともに認める「ライバルにして盟友」という素晴らしい関係を築いているトライセラトップス。このバンドも自分にとってはすごく大事な存在である。メジャーデビュー曲の「Raspberry」を聴いてすぐに大好きに・・・と言いたいところだけで実はそうではなくて、耳に残るメロディが気になりながらも「なんか歌詞がピンとこない」「ちょっとウケ狙い?」みたいな印象を持ったのが正直なところ。続く「彼女のシニヨン」でもその感じは拭えずだったんだけど、それでも動向を追いかけていたところに何か引っかかるものがあったのだと思う。そしてサードシングルの「ロケットに乗って」、ここでついに自分の好みにばちっとはまるものがきた。イントロのギターリフ、そしてそのリフを主体に進んでいくAメロ、少し不安な気持ちにさせるBメロから一気に開放感が広がるサビ、そして何より超絶かっこいいギターソロ。完全無欠のロックソング!この曲でトライセラは自分にとっての大事な存在になった。そんな経緯でトライセラにはまったので、「Raspberry」ばかりがロッククラシック的に持てはやされる今の状況は少しだけもやっとしている。

トライセラはデビュー時からバンドの演奏力が評価されていたし、自分が初めて見た2001年のひたちなかのグラスステージ(今より規模は小さかったけどそれでも十分にでかかった)でもまさに「鉄壁のグルーヴ!」って感じだったけど、意外と重要なのは最初に自分にとってネガティブな要素となった歌詞だと思う。昔の彼女を引きずったり、「誕生日の次の日なら空いてるでしょ?」などと言っておそらく彼氏のいる女子へのプレゼントを選んだり、結構ひどい。当時この言葉はなかったけど「非モテ」的世界がかなりリアルに展開されているわけだが、この文脈でトライセラを評している話はあまり知らない(彼らが登場した際には固有名詞が頻繁に使われるところからギーク的な文脈を見出しているものはあった気がする)。

トライセラの最大のヒット曲は99年5月の「GOING TO THE MOON」。ポカリスエットのCMソングになったことで世間的な人気バンドの仲間入りを果たした。ただ、セールス的にはその後鳴かず飛ばず・・・と言わざるを得ない状況になっている(トップ10ヒットは「GOING TO THE MOON」とそれが収録されているアルバム『A FILM ABOUT THE BLUES』のみ)。あの「時代にはまりそうではまらない感じ」は何だったんだろう?ゼロ年代においてもシーンに何かしら爪痕を残すような動きはなかったが、10年代に入ってからはアコースティック企画での様々なアーティストのコラボレーション、復活作(と言って差し支えないでしょう)『SONGS FOR STARLIGHT』、「クリスマスの約束」での和田唱フィーチャーと最前線に戻ってきた感がある。期せずしてバインと同じようなタイミングでその立ち位置を復活させたわけだが、バンドのパフォーマンスの問題なのか、時代の空気のなせるところなのか、果たして。

●本当にスターだった Dragon Ash

バインとトライセラが90年代後半に一時脚光を浴びつつもその後は「知る人ぞ知る存在」となっていったのに対して、90年代後半にスーパースターにのし上がってそれ以降もシーンのメインキャストとしての地位を確保し続けたのがドラゴンアッシュである。彼らが最初に注目を集めたのは「陽はまたのぼりくりかえす」のリリース時だろうか。自分も最初に知ったのはこのタイミングで、フジテレビの深夜にレギュラーとして放送されていた「FACTORY」のライブで初めてその姿を見た。実際にガツンとはまったのは、アルバム『BUZZ SONGS』を経てリリースされたシングル「Let yourself go,Let myself go」から。ヒップホップとバンドサウンドが組み合わさった当時の日本のシーンにおいては先鋭的な音がバカ売れしたのは今考えても非常に痛快である。スマスマであの曲のMVを模したコントが放送されていたくらい、と言えばその影響力が伝わるだろうか(「Kjとキムタクの顔が似ている」と母親がよく言っていた)。そしてそこから後にJ-POPの金字塔となる「Grateful Days」につながるわけだが、自分の周りでは「俺は東京生まれHIP HIP育ち」というジブラの例のラインを「かっこいい」というよりは「(笑)」的なものとして受容していた節があった。ただ、すごいのはあのラインが「音楽を好きな層」だけではなくてあらゆるクラスターの人たちにとっての共通言語となっていたこと。「誰しもが音楽を聴いていた」という90年代を説明する際の常套句の裏付けとしては十分な事例ではないだろうか。「かっこいい」「なんかうける」あらゆる感情をひっくるめて、「とにかく気になる存在」だったのがあの当時のドラゴンアッシュだったし、そういうエネルギーに自分もいつの間にか巻き込まれていた。

そんな状況の中でリリースされた『Viva la Revolution』。リリース前に収録曲をJ-WAVEで1曲つずつオンエアするというような仕掛けもあり、その段階から超楽しみにしていた(特に「Atention」と「Rock the beat」が印象に残った)。ヒップホップパートとパンクメロコアパートがぱっきり分かれた構成で、それを「Viva la revolution」と「Grateful Days」が優しく包み込むようなこの作品、これまでに何回聴いただろうか?2つのジャンルが奇妙に共存するアルバムが、高校3年生における自分のBGMの一つなった。また、このアルバムを再現した横浜アリーナでのライブがNHK-BSで放送され、それも録画して何度も何度も見た(このライブも一部YouTubeに残っている)。最後の「Grateful Days」でジブラが登場するときのカタルシスは、日本のロックのライブ映像の中でも上位に入るものだと思う。まさかその後Kjとジブラがあんなことになるとは誰も思っていなかったはず。

翌年の2000年、初めて開催されたロックインジャパンにてついにドラゴンアッシュのライブを見ることになった自分は、本編ラストの「Viva la revolution」のイントロが鳴り響いたところから数分間涙が止まらないという状況に陥る。その後ひたちなかにおいて「ドラゴンアッシュを見て泣いてしまう」という行動が自分の定番となった。

●スーパーカー、くるり、ナンバーガールと高校3年生~大学生

前述した3つのバンドほど自分の人生に影響を与えたわけではないが、やはりこちらの3つのバンドにも触れておきたい。

スーパーカーは友人に熱狂的なファンがいて、『スリーアウトチェンジ』が出るくらいのタイミングでシングル盤も含めて全部貸してもらった。「cream soda」ももちろん好きだったけど、とにかく「Lucky」にはまった。これも「女の子のいない環境で生活している」というところが大きく影響しているような気がする。次のアルバムに収録されているシングル「Sunday People」「My Girl」はそれぞれ「ミュージックスクエア」での音源を録音してよく聴いた。

「東京」を聴いたときに「なんだこれは!!」という衝撃を受けたのがくるり。前述した「フォーキー」なものの一環として自分の中で位置づけていたと思う。『さよならストレンジャー』の頃は、まさか今のようにあらゆる音楽を咀嚼しては自分たちのものにしていくようなグループになるとは全く想像がつかなかった。本格的に好きになるのはゼロ年代に入ってから。

意外とちゃんと通過しなかったのがナンバーガール。本質的に「ラウドな音」というのが苦手で「歌が美しいもの」に耳が行きがちだったこともあり、アルバムを聴くのは実はずいぶん大きくなってからになってしまった。ただ、2000年のひたちなか2日目で悪天候の中ライブをかます4人の姿はめちゃくちゃかっこよかった。

98年以降の音楽シーンの核として取り上げられる3つのバンドに、自分は実は「そのタイミングでがっつりはまる」ということはなかった。ちょうど大学受験が本格化していく中で時間がなくなっていたことも大きいと思うが、ある意味「この人たちにはまらなくても十分にかっこいい音楽が溢れまくっていた」ということなのかもしれない。そんな日本の音楽シーンは、98年を境にCDの売上の下降が始まり、少しずつその産業のあり方を変容させていく。そんなタイミングで、2000年の4月に自分は無事大学生になった。

8. おわりに

●わたしのゼロ年代 ①一足お先に「コンテンツよりコミュニケーション」を体験

ここまでいろいろ書いてきて、自分にとっての90年代というものが「音楽への目覚め」そのものであるということを改めて実感した。この文章は文字通りの意味で「自分だけのために」書いたものだけど、読んでいただいた方と少しでも何かを分かち合えていたら嬉しい。

ちょっとだけ次のディケイド、ゼロ年代の話を。もちろんこの時代にも音楽に関するいろんなトピックが自分にとってもあったが、正直なところ90年代ほど色鮮やかな記憶はない。それはもしかしたら「シーンの停滞」のせいなのかもしれないけど、個人的にはライフステージの変化の方が影響としては大きいように思える。

大学に入る時に芽生えていた「よし、音楽聴きまくるしバンドやりまくるぞ!」みたいな気持ちは、「高校時代音楽を一緒に聴いていた友人たちと大学が別になった」「大学のクラスに音楽の話が通じるやつは一人くらいだった」「軽音楽部もかなりしょぼそうだった」というあたりで急速にしぼんでいく。音楽をプレイするということに関してはアカペラサークルに入ることで気持ちが満たされるが、音楽サークルに関わらずそこにも自分が好きな音楽に通じている人は少なかった(おかげで趣味は広がったが)。

加えて好きな女の子ができたり、ありがたくも彼女ができたり、サークルの運営に心を砕いたり、そして会社員になり、仕事に振り回されつつも充実感を覚え、そろそろ結婚か?みたいになり・・・となんやかんややっているうちに、自分の中で音楽のプレゼンスが圧倒的に下がってしまった。よく今の時代を評する言葉として「コンテンツよりコミュニケーション」というものがあるが、ゼロ年代の自分の行動パターンは基本的にこれで説明できると思う。一応JAPANは読み続け、それなりに新しいバンドを拾って聴いてもいたが、10代の頃にあった「音楽をむさぼるような感じ」は失われてしまった。

「ああ、こうやって俺は音楽聴かなくなっていくんだな」。ゼロ年代の半ばごろ、真剣にそんな風に思っていた。それが今やこんなことになっているわけで、人生はどう転ぶかわからない。

●わたしのゼロ年代 ②ひたちなかエンドレス地獄

ゼロ年代の自分の音楽体験にとって中心を占めているのがロックインジャパンである、ということ自体が前述の「コンテンツよりコミュニケーション」という話を裏付けているようにも思える。ただ、(よく言われる話だが)初回の00年からしばらくの間、このフェスは今とは似ても似つかない「音楽好きのためのディープな空間」だった。18歳の頃にこのフェスの楽しさを刻印されてしまったせいで、今になっても文句たれつつ毎年夏になるとひたち海浜公園に通っている。でもそろそろ潮時かなと感じているのも事実で、難しい決断を迫られつつある。

●90年代ブームと世代断絶

今回この文章を書いたのは、前口上にもある通り「どうも最近いろんなところでされている90年代話がピンとこない。だったら自分で書こう」というのがスタートである。自分としてはとても楽しい作業だったが読む人が読めば「おじさんの一人語り」と切って捨てられてしまうだろうし、実際そういうものになっていると思う。

結局最近90年代のカルチャーが持てはやされていることの根幹に、「その時代のエキスを吸った人たちが発信力を持ち始めているから」という事実があることはたぶん間違いない。で、そこに対して昔の文化に憧れを抱く若い層、および昔の文化を懐かしみたいおじさんおばさんが乗っかっているというのが身もふたもない構造だと思う。そういうものを「懐古趣味」といって貶すことは簡単だし、そういった批判も一定レベルにおいて有効ではある。新しいものを生み出そうとしないでどうするんだ、と。

ただ、すでにこの「90年代礼賛者へのディス」が何某かのマウンティング行為に成り下がってしまっている状況を俯瞰してみると、それはそれで「過去の文化への敬意のなさ」「反知性主義」的なものも感じられたりする。「新しいカルチャー」は「古いカルチャー」から有形無形の影響を受けているのは自明なわけで、「流行ものを貶す俺」という誘惑を前にして「温故知新」というエンタメを楽しむうえでの超面白い部分を自ら捨ててしまってはいないだろうか。

ここまで読んでくださった方が、1人の「90年代に少年だった音楽ファン」の目線から描かれた90年代の様子に触れて、当時への理解を深めるだけでなくて今の時代のカルチャーのあり方に対する新たな視点を少しでも獲得できていたら望外の喜びである。

というわけで、長文にお付き合いいただきありがとうございました。

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レジー

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