2010年代の20曲ヘッダ

2010年代の20曲 _ ④AKB48 「フライングゲット」 (2011)


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AKBのセンター、時代のセンター

2010年代はAKB48の時代だった----こう掲げたときに嫌な顔をする人たちが一定数存在するはずだが、こと「数字」に着目すればこの事実から逃れることはできない。オリコンのシングル売上チャートで初めて年間1位に立ったのが2010年の「Beginner」。以来、2019年に至るまで全ての年の1位がAKB48である。それを見た「正義感の強い人たち」が「オリコンチャートは死んだ」と嘆くところまでが様式美である。すでにオリコンチャートは何回死んだかわからない。

もっとも、「オリコンチャートは死んだ」と思わず言ってしまう人たちの気持ちもわからないわけではない。彼女たちの活動は、前段で強調した「音楽業界の実勢を表す数字」を無意味にしていくものだった。「握手券」もしくは「選抜総選挙の投票権」のおまけになり下がった円盤の山は、「CDが売れている曲は世の中でよく聴かれている」というかつての常識を完全に葬り去ってしまった。そして、多くのアーティストが「複数タイプ発売」といった形で程度の差はあれ彼女たちのビジネスを踏襲した。

AKB48が選抜総選挙を初めて実施したのが2009年。CDとは異なる音楽体験としてのストリーミングサービスが日本で一般化し始めたのが2015年。その再生回数を競うランキングが「ヒットチャート」として機能するようになったのは、ようやくここ1、2年といったところだろう。10年近く「流行音楽の指標」がワークしなかったという事実は重い。

ただ、AKB48が「音楽的」な足跡を何も残さなかったかというとそんなことはない。少なくとも10年代前半においては、CDがたくさん売れた彼女たちの曲(の一部)は世間のBGMとして響いていた。ガールズロックの隙間地帯を強かに占領した「ヘビーローテーション」、ディスコ歌謡的なアプローチで老若男女を踊らせた「恋するフォーチュンクッキー」と同様に、時代の中心を押さえた感があったのが震災の年の夏にリリースされた「フライングゲット」。性急に歌詞を詰め込んだサビのパワフルさもさることながら、前田敦子と大島優子の総選挙でのセンター争いも大きな話題を呼んだ。グループとして初めてレコード大賞を受賞したこの曲は、すでに一定の人気を獲得していたAKB48の存在感をさらに一段押し上げた。


歪なビジネスモデルの先にあった悪夢

Jポップという文化(もしくは産業)の発展の裏側には、言ってみれば「宗教」としての洗練があった。「自作自演信仰によるアーティストと音楽の一体化→楽曲が"教典"に+アーティストが"教祖様"に」という構造は、ビジネスを推進するうえで各所に応用が効く。昨今の「インフルエンサー」「オンラインサロン」の流れはJポップが培ってきた技の発展形とも言えそうである。

この回路をより効率的に走らせるにはどうするか?だったらそもそも「楽曲」を取っ払ってしまって、リスナーとアーティストを直接結びつけてしまえばいいじゃないか。48グループが導入し、アイドルグループを中心としたさまざまなプレーヤーが高度化させていった「接触ビジネス」の仕組みもこのように説明することができる。「ビジネスの効率化」という意味では大正解なのだが、「実際に応援されているのは音楽ではなくアーティスト」という状況をぎりぎり隠蔽することで「"音楽”ビジネス」というものを成立させていた「建前」を身も蓋もなくぶち壊してしまったこのアプローチは、産業のあり方を大きく変容させた。

楽曲を介さずに文字通り「生身」のまま支持者と「接触」することになったアイドルたちは、これまでのJポップのアーティストとは異なる形でのファンとの関係構築を迫られた。自身の人気に明確な順位をつけられる選抜総選挙では、ステージ上で感情をむき出しにする彼女たちの姿が全国ネットで放送された。数多のシンデレラストーリーを生んだこのイベントは(芸能界全体における2010年代のビッグスターとなった指原莉乃も「総選挙の寵児」である)、その一方で年端もいかない女子たちのプライドをずたずたに傷つけるものでもあった。

選抜総選挙は2010年代半ばまでは日本を代表するエンターテイメントコンテンツとして成立していたが、社会全体のジェンダー観の変化によって急速に「古臭いもの」になっていった。そして、2019年に入ると「握手会でファンとアイドルを直接触れ合わせる」という手法をとっていたからこそ起こるトラブルが最悪の形で表面化した。「若い女子に危ない橋を渡らせるが、それに対するケアを全くできない組織」としての正体が白日の下に晒されてしまったAKSがこの状況を打開して今の時代にマッチしたアイドルカルチャーを作ることはおそらく不可能だろう。

もっとも、ここまでの一連の流れに関しては、自分も含めて渦中にいた人間が「AKB48が旧弊的な音楽産業を破壊する」「タブーを破って新しいエンターテイメントを生み出す」という光景を積極的に面白がっていたという点について言及しておかなければならない。短期的に強烈な刺激を生む娯楽に対しては、その拠って立つロジックと常に批判的に向き合う必要がある。「識者」として語りを楽しんでいた全ての人間(念のため繰り返しておくがもちろん自分も含めて)が何らかの反省を持って次の10年を迎えることを願いたい。


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