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2.セントエン

今年入ってから、手紙ついて考えることがある。
ぼくは手紙を出したことがない。だからどんなものか実はよくわかっていない。LINEとどう違うのだろうか、といかにも無垢なデジタルネイティヴっぽいことを書いてみる。

手紙、電子メール、LINE、SNSへの投稿、ブログ、後ろへ行けば行くほど不特定多数を相手にしているが、いずれの場合も、誰かに宛てて書き、そして誰かが読む(かもしれない)という点では似ているような気がする。そう意味では、ぼくは今「手紙」を書いている。

コミュニケーションの遅れは「手紙」の共通点と言っても間違いないだろう。そしてもう一点、返信があるかどうか分からないというのも重要だ。

つまりコミュニケーションが成立しているかどうかは事後的にしか判断できない。「手紙」を送っても、相手は読んだうえで返事を書いてくれないかもしれないし、読まずに食べてしまうかもしれないのである。しかしヤギさん郵便のように「さっきの手紙のご用事なあに?」ともう聞いてはくれない。

「人間関係」や「コミュニケーション」を「線」で例えるぼくにとって、たとえ偶然であるにしても、「LINE」という名前はあまりにもできすぎている。この速達郵便はときに糸電話になるのもおもしろい。

コミュニケーションの遅延と確認不可能性とでも言うべきだろう。この2つの特徴が「手紙」にはまとわりついている。これらを乗り越えて交わされた言葉は幾分か強くなっている、と思うのはロマンチシズムが過ぎるだろうか。

文字を書くとき、頭を抱えないことはない。今もそうだ。ぼくの書いたことの「意味」はちゃんと伝わるのだろうか、と不安になる。もし伝わらなかったら、この文字の羅列はゲシュタルト崩壊を起こし、ーー相手にとってーーなんの意味も持てなくなる。意味の欠如。解釈の不可能性。

「知りたい」は「知られたい」であるし、「信じたい」は「信じられたい」であるし、「愛したい」は「愛されたい」である。しかしその間に引かれている1本の線は「断絶線」となったのち、「線」という文字のゲシュタルトが変化し「絶縁」となる。

人間関係を巻くことは線を繋ぐことーー電話交換士のようなイメージーーであり、人間関係に巻かれることは縁を繋ぐことーーいわゆる「赤い糸」ーーである。そのような意味で「絶縁」とは決して能動態では現れえない。「絶縁」はいつだって相手によって通告されるものである。「手紙」の返事が来ないという形で。

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