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7.全日本脳内自分反省会選手権大会優勝

優勝してしまった。夢の話ではない。今回は脳内の話だ。

ぼくは以前、「悪い癖:どうしてずっと忙しいのか」という記事を書いた。参考の為にURLを載せておこう。

なぜかTo do リストが増え、そのうえ気持ちもなんだか忙しない、そんな状況を分析した記事だ。手前味噌で申し訳ないが、なかなかおもしろいことを書いている。特に重要だと思われる部分を抜粋しよう。

わたしたちは「忘れないこと自体を忘れない」ようにしつつも、たったひとつだけ、忘れたいものを持っている。それは、わたしたちから心を亡くさせる「忙しさ」である。わたしたちは好きな音楽や映画に触れて、ストレスを発散する。しかし、これはストレスを発散すること自体が目的となっているわけではない。忙しいことを忘れたくて、音楽や映画にいわば駆け込むのである。しかしここで、これは「忙しさ」から逃走を図るために、「思考」を重ねているだけだという事実に気付かねばならない。わたしたちはストレス発散をしているように見えて、その実「忙しさ」に「忙しさ」を重ねているだけなのだ。

「悪い癖:どうしてずっと忙しいのか」

何も「思考」しないことだ。暇な時間をつくることだ。わたしたちは暇な時間をフリースペースと捉える。だから、わたしたちは「時間があったら、なにがしかをしよう」と考えるわけである。しかし、これは「忙しさ」の上塗りでしかないのは、もうお分かりだろう。暇な時間は決して余ったフリースペースではない。あえて、意識的に確保せねばならない無意識の思考場所なのだ。

「悪い癖:どうしてずっと忙しいのか」

無意識の思考場所。それが、ぼくにとって、全日本脳内自分反省会選手権大会になってしまった。挙句、優勝してしまった。もう何も考えたくない。意味もなくSNSを巡回し、音楽あるいは動画の音声に耳を傾けながら、本を開き文字の形を目で追い掛けている。もちろん本の内容はまったくと言っていいほど頭に入ってこない。

あるいは違うことを無理やり考える。一連の記事もそうだ。忘れる為に書いている節がある。しかも強迫的に、大学からの帰宅途中、電車の中、それなりの音量で音楽を聞きながら。そうでなければ似たようなテーマで毎日書くことはなかなかできないだろう。

最近、新しい作品を全然書けていない。戯曲を書き始めて5年目になるが、こんなに間隔が空いたのは始めてだ。以前はプロットが湧き水のように溢れ、次から次へと新作を書けたものだが、今年に入ってからは1本も書けていない。

「ケンカもできない」

「ケンカもできない」で最近新作に手を付けられていないということを書いた。「書く」というのは、ものすごく内向きな作業だと思うーー脳内自分反省会で優勝するくらいにはーー。今年に入って、書くことができなくなったが、文章量は違えど、ここ一週間くらいで急に書けるようになった。この理由はなんだろう。

おそらく周期的なものだと思う。この半年間なぜか気分が高揚していたのかもしれない。だから書けなかった。そして最近何となく気分が沈み出して、書けるようになったーーなんと最悪な理由だろうかーー。最近はコミュニケーションのことばかり書いているが、もともとこの一連の記事の目的は「ぼくにとってのブレーメンを探すこと」であった。

「作家は幸せになってはいけない」と心のどこかで思っている。もはや「引力」という名の呪いである。この呪いを解かない限り、ぼくはもう何も書けないと思う。つまり目指すべきなのは極楽ではなく、ブレーメンなのだ。

「ケンカもできない」

これまで「幸せな気持ちになったら作品が書けない」という強迫観念が確かにあった。しかし、最近、この「呪い」を解いて、つまり「幸せになったうえで」、作品を書けるようになったらいいなと思うようになった。ぼくにとってのブレーメンは「幸せ」の象徴だった。だからブレーメンを目指さなければいけないのだ。だから、一連の記事はコミュニケーションの話題へと移っていったのだ。

今は書かずにはいられないのだ。これまで何度もこういうことがあった。突然、積んでいるエンジンの馬力が変わり、新作をものすごい速さで書き下ろしたり、毎日何かしらの記事を投稿したりできるようになる。ぼくはこれを「発作」と呼んでいる。しかし「発作」が起こっている間の作品や記事ーーこれまで書いてきたもののほとんどがそうなのだがーーは、内側に閉じこもりながらもーー書くことに没頭しながらもーー、すべて外側、つまり他者とのコミュニケーションを志向していた。まさに「引力」と「斥力」である。

ぼくが今、フロイトの「メランコリー」を研究している理由もこの点に尽きる。フロイトにおける「メランコリー」は、大切していた人や物の喪失を経験することで、それに向けていた心理的なエネルギーが自我に回収されることで起こる。そのとき外側を志向している「生の欲動」は内側に転換することで「死の欲動」へと変化する。その結果、自分で自分を攻撃することになる。ゼロイチではなく、度合いの問題だが、やはり脳内自分反省会はその最も分かりやすい例かもしれない。

このような特徴から、メランコリーは「自己愛的な病」と言われる。だから独りでは「人は友情を育むことも、恋愛も、そしてケンカすらも満足にできない」(「ケンカもできない」)のだ。

今は、このメランコリーの呪い、つまり自分を内側へと引っ張っていく「引力」のようなものを振り払う為に研究している。だから、ぼくにとって「研究と創作活動は地続き」(「これからやってみたいこと」)なのだ。


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