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古代日本の中心は奈良、遷都の歴史

 そもそも都とは天皇の住居の在る処、政権の実務を行う場所を意味している。古代においては天皇、オオキミの住居と政務を行う場所は同一だったと考えられている。それに新たなオオキミが立つ度に、この場所は変えられていたようだ。

 記紀の内容から歴代の皇居の場所を知ることができる。初代神武天皇が奈良県橿原市に橿原宮を置いたところから都の歴史は始まる。この後しばらく現在の奈良県橿原市、御所市、奈良市、桜井市など奈良を転々とする。第12代景行天皇の時、初めて滋賀県大津市に行幸し、そこで亡くなる。ヤマトタケルの父親である。第14代仲哀天皇も九州への熊襲討伐の最中に九州で亡くなる。当然天皇のおわす所が都だ。
 第15代応神、16代仁徳天皇の時には難波(大阪市)に移動するも、殆どの天皇は奈良にいる。第26代継体天皇は大阪、京都、奈良に四カ所宮を建てたが、先の武烈天皇に子が無く、応神天皇五世の孫として越前か近江から連れてこられて即位しているので色々事情があったということだろう。その後の天皇もほぼ奈良におられた。
 特に第33代推古天皇から奈良の明日香村に移る。推古天皇の前の崇峻天皇は暗殺されたと言われており、このあたりはかなりごたついている。第34代舒明天皇は明日香村、橿原市、桜井市と都を移している。蘇我蝦夷が実権を握っていた時代で、物部氏が滅び、聖徳太子の嫡子山背大兄王と皇位を争った舒明天皇、様々な憶測が今も残る。そして女帝皇極天皇は明日香村に戻る。この後は壬申の乱もあり都は明日香村、大阪市、滋賀大津辺りを行き来する。

 そして持統天皇が藤原京を造る。元々は天武天皇の唐風の都整備プランによるもので、天武死後皇后の持統天皇が694年に完成させる。その後持統、文武、元明の三代の天皇が続けて住まわれた画期的な出来事となった。また条坊を備えた都は律令国家の成立に必要なことだったのだろう。この後都は数えるほどしか存在しない。
 条坊制とは街の南北中央に朱雀大路を置き、坊という南北の大路と条という東西の大路を碁盤の目の様に配置した左右対称の方形の都のことをいう。

 ここまで見てみると飛鳥時代までの日本の中心は奈良だったということだ。そしてこれを契機に都は天皇の居場所というだけでなく、多くの人口を伴う都市して発展していく。
 奈良をゆっくり旅してみたいなぁ。しかし、視力が足りなくて車を運転できない私にはちとたいへんそうだ。

【REG's Diary  たぶれ落窪草紙  7月9日火曜日】

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