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応神天皇の謎。神武、崇神、応神、名前に神が付く天皇は三人だけ 

 応神天皇は第15代天皇、たくさんの謎に包まれている。
 年代的には4世紀後半から5世紀にかけて存在したとされるが、実在を怪しむ先生方もおられる。
 父親はヤマトタケルの子である仲哀天皇、母親は最近も記事にしたあの神功皇后だ。これだけたくさんの天皇がおられる中で、神の字が名前に付くのは神武、崇神、応神の三人だけなので何か意味ありげに思ってしまう。

 応神天皇は誕生から不思議なことがある。日本書紀には応神天皇は仲哀天皇が崩御して十月十日後に生まれたとあるが、こんな細かいことを記した例が他にない。なので逆に応神は竹内宿禰と神功皇后の子だとか住吉大神と神功皇后の子だとかいう説も出てきてしまう。

 また応神天皇期に、大陸から多くの渡来人たちが日本を訪れ、漢字や稲作、機織りなど様々な技術や文化が伝わったとされるが、応神自身が渡来人だとおっしゃる先生もおられる。

 因みに応神天皇陵と言われているのが、大阪府羽曳野市にある日本で第二位の規模とされる誉田御廟山古墳だ。古市古墳群の一つとしてユネスコの世界遺産に登録されている。

 応神天皇といえば、八幡神社を思い浮かべる人も多いだろう。平安時代の史料に八幡神を応神天皇とする記述があり、その後応神天皇は八幡神として祀られる。鎌倉時代にかけて清和源氏がこれを信仰し全国に勧請し、一気に広まったという説がある。八幡さまは応神天皇なのだ。

 漢字二文字の天皇名は最初からあったわけではない。淡海三船(おうみのみふね)が歴代天皇の諡号を後に作り出したのだ。彼は奈良時代後期を代表する学者で最古の漢詩集「懐風藻」の撰者ではないかという説もある。三船は天智天皇の子である大友皇子の曾孫にあたる皇族なのだが、臣籍降下した、漢籍に明るいエリートインテリだったようだ。

 諡号とは諡(おくりな)とも言われ、亡くなってから生前の功績を讃えられて贈られる称号だ。彼が歴代の天皇に漢字二文字の漢風の諡を考えたのだ。名付けたのは初代神武から44代元正までそのほとんどだという。つまり神武、崇神、応神などの名前は奈良時代に三船に付けられたものなのだ。

 三船はどんな意味を込めてこの三人の天皇に神を名を付けたのだろう。

【REG’s Diary たぶれ落窪草紙  7月2日(火)】

 

 
 




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