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信濃 善光寺 梅唇尼の謎

 信濃の古刹、善光寺の山門西側に、境内では最古とされる佐藤兄弟の供養塔がある。

 佐藤兄弟は源義経の家臣で、平安時代末期の武将。
 源平盛衰記では義経四天王とされる。
 佐藤継信(兄)、忠信(弟)は、奥州藤原氏の家臣佐藤基治の子。
 義経は鞍馬山で修行し、鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って奥州へ下った。
 義経は兄頼朝が1180年に伊豆で挙兵すると、参戦のため兄の元へ向う。
 その時に秀衡の命を受けて二人は義経に同行する。
 平家物語によると兄の継信は屋島の戦いで義経の身代わりとなり戦死。
 弟の忠信は頼朝と義経が対立した後、吉野で身代わりとなり義経を逃がし、その後京都の潜伏先を急襲され自害した。
 義経は二人の死をたいへん悲しみ、兄弟の母親にも面会したとされる。
 佐藤兄弟の活躍は吾妻鏡、源平盛衰記、平家物語、義経記や歌舞伎「義経千本桜」や古典落語にも登場している。

 この佐藤兄弟の母親であり、藤原秀衡の妹にあたる乙和(音羽)御前は二人の子を失い出家して梅唇尼となる。(名前は諸説あり)

 善光寺の寺伝によると梅唇尼は文治三年(1187年)十月に善光寺を訪れ、この南塔と北塔二基の供養塔を建てたと伝わる。北塔の方が少し大きくて古いようだ。台石には人名も見られるようだが、不鮮明で読めない。
 南塔は字風も異なっており、台石には十余名の名前がみえる。応永四年(1397年)の銘があるとされる。この供養塔はいずれも鎌倉初期のものではないようだ。詳しいことはわからないが、度重なる争いや火災により損傷を受けてその都度新たなものが造られ、応永以降にこの場所に移されたとされている。現在は東西の位置関係で並んでいる。

 とにかく佐藤兄弟の墓や供養塔はあちこちにある。そして乙和御前、梅唇尼の伝説も各地に種々存在していて謎が多い。一部を紹介する。

〇宮城県気仙沼市 浄勝寺(佐藤兄弟の墓) 浄福寺(乙和御前の墓)
ここでは乙和御前は養光尼

〇福島県福島市医王寺 佐藤家菩提寺 佐藤兄弟の墓 乙和の椿(乙和の悲しみから花が咲く前に蕾のまま落ちてしまうという伝承)
兄弟の二人の奥方が夫の甲冑を着て男装し乙和を慰めたという伝承
この地は佐藤兄弟の父佐藤基治が治めていた。(福島市飯坂の大鳥城主)

〇山形県米沢市常信庵 佐藤正信、佐藤兄弟親子を祀ったとされる。
ここでは佐藤基治の一族(弟?)正信が佐藤兄弟の父となっている。
かつて梅唇尼とされるミイラが発掘されたが、現在は公開されていない。

〇新潟県長岡市 瑞雲時 羽黒神社
1187年乙和御前が羽黒大権現を勧請したのが始まり。(善光寺参詣と同年)
新潟三島郡にも伝承があり、乙和御前の佐渡おけさ起原説の伝承もある(諸説あり)。ここでは出家した乙和は妙照尼と言われている。

四国や京都にも佐藤兄弟の墓があるという。頼朝が奥州の藤原氏を滅ぼしたため、家臣の佐藤一族は一時隠れ住んでいたためこのような伝承が各地に存在するのかもしれない。日本人が大好きな義経に関わる美談として多くの場所で語り継がれてきたようだ。
【REG's Diary   たぶれ落窪草紙   6月4日(火)】

  


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