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古代の日本の情報は大陸から 日本には文字が整備されてないからしかたない

  中国の歴史に初めて日本が登場するのは、中国の「漢書」の中の地理志と言われている。紀元前1世紀ごろの日本(倭国)の様子が書かれている。当時は100余りの小さな国が分立していて、朝鮮半島の楽浪郡に定期的に貢物を届けていたようだ。日本の壱岐市の遺跡から楽浪郡の文物と弥生時代の出雲式土器が出土しており、出雲国の存在と半島との交流がうかがえる。

 次は「後漢書」の「東夷伝」。1世紀から2世紀にかけての倭の様子が書かれている。57年に奴国の使者が洛陽で後漢の光武帝より金印を賜った。奴国とは倭人の国で弥生時代に現福岡市あたりに存在したとされる。この地域から弥生時代の集落、水田の遺跡が多数発見されている。統一国家はまだ存在していないと思われる。
 江戸時代1784年にこの金印が九州の志賀島で発見される。地域の農民が水田耕作中に偶然見つけたとされ、巨石の下に隠されていたと伝わるが真実かは不明だ。金印には「漢委奴國王」とあり、漢との君主と臣下の状況(冊封関係)を示している。金印のあまりの状態の良さに捏造も疑われたが、字体などから現在は国宝に指定されている。しかし、紀元57年から江戸中期まで志賀島にずっと隠されていたのかはもちろん誰にもわからない。
 また「東夷伝」には、107年に倭の国王である帥升(すいしょう)が生口160人を後漢の安帝に献じて謁見を請うたとの記述もある。この頃の倭国はまだ統一国家ではなく、帥升も人名なのか職名なのかも議論になるくらい謎だらけなのだ。生口は奴隷と言われているが諸説ある。

 そして「三国志」の「魏志倭人伝」には3世紀ごろの倭の様子が書かれている。帯方郡の海の向こうに邪馬台国があり、内乱状態にあったが女王卑弥呼が祭政で国を治めたとある。239年に卑弥呼が魏に朝貢して「親魏倭王」の金印と銅鏡を賜った。これは発見されていない。卑弥呼が亡くなった後、国は再び乱れるが、13歳の卑弥呼の宗女、台与が国を安定させたとある。
 この魏志倭人伝の内容が後の日本の大混乱を引き起こす。邪馬台国の場所や卑弥呼の存在に関しては未だ決着を見ていない。

 この後中国大陸は乱世になり、150年間は書物に倭国が登場することはない。4世紀にはヤマト政権の支配が確立したとされる。5世紀になると倭の五王(讃・珍・済・興・武)が南宋に朝貢してきたと「宋書」の「倭国伝」には記されている。

 中国では紀元前から書物が残っているのだが、日本の歴史書は700年代になってから登場する。文字が整備されておらず、5世紀辺りまでの情報は外国の書物に頼るしかない。しかも外国からの情報は聞き伝えが多いだろうから、情報の真偽の判断は難しい。

 神話も面白いが、日本の国の成り立ちの真実はよくわからない。

【REG's Diary   たぶれ落窪草紙   5月11日(土)】

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