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神武、崇神、応神、名前に神が付く天皇は三人だけ 初代神武天皇

 神武天皇は初代天皇として記紀に記されている。
 天孫降臨で有名な瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は天照大御神の孫、ニニギの子が山幸彦、山幸彦の孫が神武天皇と皇族の血縁はつながっていく。
 神武天皇が生まれたのは紀元前711年2月13日で127歳で亡くなった。うーん困った。日本はまだ縄文時代だ。弥生時代は紀元前1000年ごろから始まっているという説もあるが、だいたい紀元前300年から紀元前500年あたりに始まったという説が有力だ。もちろんはっきりとはわからない。
 その頃日本に統一王権が確立していた形跡はないとされている。
 太古の一年の長さが今より短かったと主張する先生もいらっしゃる。

 考古学に正解はない。文書も残っていないし、はっきりとした証拠がないからだ。突然に遺跡や文書、遺物が発見され、歴史が新たに刻まれることもあるが、二千年近く前のものがそう簡単には見つからない。

 日本書紀によると神武が45歳の時に九州の宮崎あたりから奈良へ東征を開始する。九州の東を北上し瀬戸内海を進み、一度大阪から奈良入りを試みるが、地元のナガスネヒコらの抵抗に遭い、紀伊半島を回って熊野吉野から奈良入りを果たす。橿原の地で即位して初代天皇になる。

 神武天皇は圧倒的な武力でヤマトを征服したのではない。地元にかなり抵抗されて兄が戦死するほど苦戦している。一時撤退してルートを変えて再度乗り込むもやはり厳しい戦いを強いられ、神の力を借りて勝利している。
 苦難を乗り越えて、神の御加護を得てヤマトを征服した王の姿を伝えたかったようだ。それは事実だったのかもしれない。

 ヤマト王権の成り立ちを考えるときに気になるのが、出雲、吉備、北部九州など他の当時勢力を持っていたとされる国々との関係だ。特に出雲との関係は理解しにくい。出雲の国譲りの伝説は事実だったのか?

 神武天皇はヤマトを征し橿原に都を置くが、彼がこの地で正妃に迎えたのがヒメタタライズズヒメ。このお姫様の父親は出雲の大国主神の子の事代主神とされる。初代天皇の奥様は出雲の人なのだ。これは戦国時代なら間違いなく政略結婚ではないのと思ってしまう。

 初代天皇は神武ではなく、崇神天皇だとか、いや応神天皇が初代だとか、神武天皇は神話であり実在しないとか、いろいろ皆さんおっしゃいます。
 名前に神が付く天皇には何かしら重要な役割があるのかもしれない。

 タイムマシンがあればいいのに。そしたら先ず1582年の本能寺かな。

【REG's Diary   たぶれ落窪草紙   5月29日(水)】


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