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藤原氏恐るべし、奈良時代から平安藤原時代の準備を着々としていた

 平安の雄達、藤原氏の始まりは大化の改新の有名人中臣鎌足であった。彼の死去に際して藤原の姓を賜ったことから始まる。
 藤原鎌足の長男定恵は遣唐使と唐に渡った留学僧であった。長男が家督を継ぎ、その弟達が出家する話はよく聞くがこれは珍しい。23歳死去説、70歳死去説、孝徳天皇の落胤説、そもそも神祇官の家系の鎌足の子が仏門になぜ入るなど謎が多い人物である。

 鎌足の次男は藤原不比等、奈良時代の前半、天平年間に草壁皇子(天武天皇皇子)と持統、文武、元明、元正の四人の天皇に仕え、大宝律令や日本書紀の変遷にも関わり、藤原氏の権威の基礎を築き活躍した藤原1号だ。しかも不比等は長女宮子を文武天皇に嫁がせ、宮子は後の聖武天皇を産んでいる。これだけじゃない、娘の光明子(宮子とは母が異なる)を聖武天皇に嫁がせ、光明子は後の孝謙天皇を産んでいる。宮子は太皇太后だったが、光明子は初めての皇族以外からの皇后となった。不比等、完璧な布陣をしいた。
 娘を時の天皇に入内させ、できた子を天皇にして、天皇のおじいちゃんとして権勢を振るう藤原パターンの始まりだ。こうして天皇を中心とした日本の政治の中枢に入り込んでいく。恐るべし。
 不比等の息子たち、藤原四兄弟も710年の平城京遷都前後に活躍する。武智麻呂(ムチマロ)、房前(フササキ)、宇合(ウマカイ)、麻呂(マロ)の四人で、麻呂だけ母親が違うとされる。
 武智麻呂は大学寮、図書寮など文教面で実績を挙げて右大臣まで昇進する。藤原南家の祖とされる。
 房前は政治の手腕は四兄弟で一番とも。他の氏族とのバランスもあり参議に留まった。後に藤原道長を生む藤原北家の祖となる。
 宇合、麻呂も「ある事件」をきっかけに参議になり、九人の公卿の内、四人がこの兄弟という、藤原四兄弟政権ともいえる体制になる。(公卿とは政治体制の最高幹部。太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議)
 これで藤原氏は万全だ・・・が「ある事件」の後一時停滞する。
 それが長屋王の変である。
 長屋王は天武天皇の孫、父は太政大臣高市皇子。720年に藤原不比等が死去すると、翌年には長屋王は右大臣になり、政界の実権を握る。藤原四兄弟は、武智麻呂が中納言、房前が参議という状況。
 長屋王は律令制の改革や蝦夷等の反乱への対応など活躍し、聖武天皇即位時には左大臣にまで昇進した。
 その後、時の聖武天皇の母宮子の称号を巡って聖武天皇、藤原四兄弟と長屋王は関係が険悪となる。長屋王は政治の実権を握っていたし、天皇の皇位継承者でもあった。そして真実はわからないが、長屋王は皇位を狙ったとして、攻められ自害してしまう。
 ここで、藤原四兄弟は皆公卿となるが、737年に流行していた天然痘により四人全員が亡くなってしまう。当時は奈良時代、人々は長屋王の祟りだと噂していた。長屋王は藤原氏に排斥されたのか?
 それでも四兄弟は藤原南家、北家、式家、京家を残して着々と藤原一族を増やしていく。四兄弟の長男武智麻呂の息子豊成、仲麻呂ははそれぞれ右大臣、太政大臣になる。平安は目の前だ。
【REG's Diary  たぶれ落窪日記  1月27日(土)】
 

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