「新ゲッターロボとは「ゲッター」に抗う話である」へのお返事

新ゲッターロボはアンチゲッターロボであること、せめて全然違う話なのをきちんと記載してくださいとコメントしたところ(こちらとしては嘘ばかり並び立てる界隈に呆れての行動でした。あれが一番原作に近いなど真っ赤な嘘を並び立てるのをまずやめてほしかったのです)このような熱意ある記事を長々書いていただいたようですが、お返事が長くなりますのでこちらに見解を書かせていただきます。

なにからつっこめばいいのかなぁこれ……。
「偽書ゲッターロボダークネス」は「ダイナミックプロ公式監修」でのある種の「逆転ゲッターロボ」ではないかなぁと思います。同じ作者さんの「ZMAN」とOVA「チェンゲ」をベースにした節も見られる作品で、タイトルにあるように「偽物」だと。それはそれでよいと思います。
何故ここで力強くそれを押す理由があるかは私には皆目検討もつきませんが。
(余談ではありますが「極道兵器」も石川先生直筆逆転ゲッターロボ號と思われますがお気付きでしょうか? そちらの流れでしたら「ガクエン退屈男」もオススメです)

半分受け売りである=自分で考えることを半分放棄しているのは構いませんが、でしたらせめてその根拠となるものを提示していただきたく思います。
(「あの人がこういってたから」を鵜呑みにして自分で確認もせず、それを前提として話をすることの是非も根本的にありますが。これは老婆心ですが陰謀論やデマに引っ掛かるのと思考は同じですのでこの情報化社会では少々ご注意された方がよろしいかと存じます)

また、長々持論を展開するのはよろしいのですが、先に述べたように根拠としているものを提示せず、新ゲッターロボの登場人物らの人間性、後述の物語構成や基本設定、話筋という事実レベルにも根本的に触れずに、自分の論に都合よいところだけ抜き出して思うところを語られましてもそれは新ゲッターロボを語っているのではなく、あなたの思い込みを語るにすぎないのではないでしょうか。
辛辣な話とは思いますが、私は事実レベルの指摘とその明記を求めたのであって、あなたのお気持ち表明を求めたのではありません。

そもそも新ゲッターを肯定、擁護したい方は非常にズルい(不誠実な)部分があると私は思います。

脚本、少なくとも「物語筋が漫画版の反転構成」であることに誰も触れません。
登場人物の性格はまだ「解釈」の範疇でもありましょうから置いておくとしましても(しかしながら彼らが全うな人間ではないことは川越監督のメルマガの言葉から明らかです)この物語構成は解釈どうという話ではなく、何がなくとも一番最初に「単なる事実」としてあげなければならないことです。(ですからコメントではそことアンチゲッターロボであることにしか触れなかったのに理解していただけなかったのですね、残念です)
今回少々お返事をと思ったのも、この明確かつ客観的な事実を完全に無視して持論を展開していることにあります。

達人は 正気を失い博士に殺される↔正気を保って竜馬に殺される
早乙女博士の背中を 竜馬が見ている↔いない
竜馬が校舎に殴り込み↔隼人が研究所を狙う
隼人が恐慌、茫然自失状態のまま敵を倒す↔隼人が狂乱状態に陥り研究所までも壊そうとする
この際の描写は学年誌版からのもので、竜馬のゲッター1頭部部分に敵が合体し操られた際のものでしょう。
(また新ゲッター全体に言えるのですが「分離や変形をしない」時はメインパイロットが周囲を省みていない、完全に理性が吹き飛んでいる状態にあるように思います)

竜馬は 相互理解の上で↔決定的にあわず 研究所を出ていく
竜馬の道場は博士が残してくれていた↔保護などしていなかったので取り壊された
過去編も、漫画版では未来を見ていることの逆転でしょうし、ラストに竜馬一人だけが分離して突っ込むのも、あの台詞からすれば記憶喪失になる事件の反転(このままでは全員死んでしまうから無事な二人だけでも逃げろと分離して自分だけが残った)です。
上げればきりがないほどに逆転構成が見つかるのです。

そこまで逆転の構成であるなら、「武蔵坊弁慶がゲッターを止めようとした」も脚本意図は何かの逆転か入れ替えであるはずだと思うのが最初ではないのでしょうか。
(本来一文字號の行動であることを理解しているなら尚更です。漫画版では大道凱も真ゲッターロボを破壊しようとし、その際には「正気╱理性を失っている」ことに触れないのはなぜですか)

これらを無視する、というのは脚本の意図を無視しているということに他ならないのではないでしょうか。せめてもそこは指摘の上で、反転ではないと言いたいならその根拠となる事実なり解釈なりを提示されてはいかがでしょうか。

確かに読み方は自由なのですが、お好きな作品であるなら事実は把握し、脚本の意図くらいは察してあげたらどうかと思います。
漫画版をお読みになられていないのなら致し方がありませんが、漫画版の一部を引用までしておいてこれに気づいていない、というのはどうなのでしょう。
(なお私が電子書籍版から画像引用しないのは、電子書籍配信先の利用規約上複製から禁止されているため、引用の条件を満たせば法律上問題がないだろうことは理解していますが、できるだけ避けたいと思っているためです)

考察、というのは事実から一番筋が通る仮説を導き出すことにあります。
これは大学のレポートなどでも言われることかと思いますが、自分の持つ結論と明確に反する事実を意図的に削除、無視するのは一番行ってはならないことです。
(物事を考え、まとめるときには「持論に反する証拠があるのかを探し考えなさい」と私は教わりました)

「新ゲッターロボ」という作品全体で「物語筋が反転構成である」ことは単純事実です。
ではこれになんの意味があるのか。単純に考えれば作品自体が原作の逆転(アンチ)作品であるという結論で、私はこちらです。
ついでに言うと、「過去に戻ったことすら運命(無意味)であった」事へ触れていないのもどうかと思います

これらは「個人の主観である解釈」より以前の単純描写や物語構造という理屈で提示されている「事実」です。

そうではないと主張したいなら、これらへの明確な対論なりを提示した上で持論を展開していただきたかったです。
今のままでは単純に自分の論に都合が悪いから、明確な根底の事実部分を無視して空虚な論を積み立てているだけで、そもそも説得力が著しく低いのです。

手厳しいことを言わせていただきますが、事実部分をも無視するとは「新ゲッターロボ」という作品自体へも敬意が足りないというか、自分がそう思いたいがためにその対象すらもきちんと見ていない、受け取れていないという話にもなってしまいませんでしょうか。

「新ゲッターはゲッターに抗おうとする話である」というのは(その後の結論まで本当は示唆されていますに)片手落ちだとは思いますが間違いではないでしょう。しかしそんなことは漫画版から派生作品まで概ね描いてきたことでもあります。
何を根拠として抗うのか、本当に彼らが抗えるとしてその根拠はどこにあるのかはもう一度お考えになってはいかがでしょうか。
彼らは根拠も理屈もない単なる根性論と希望的観測で闇雲に運命に抗おうとしているというご主張でしょうか。

不動明に明確な理性があっても、抗いきれなかったために滅んだのがダイナミック作品のマスターピースであるデビルマンです。
弱肉強食、強いものが他者を食って生き残る「本能」の先にあったのがあのラストシーンです。
元来のゲッターロボはなぜあのラストシーンにならなかったのか、そこには何があったのか。

理性もろくにないまま、ただ闇雲に抗ったところで結論は見えているのではないでしょうかとは言わせていただきたく思います。

私は確かに「ゲッターロボとしてみたときの」あの作品には言いたいことは山のようにあり好きではありません。
ですが、正しい評価をまったくといっていいほどされていないあの作品へは一抹の可哀想感すらあります。
あの作品は「アンチゲッターロボ」としての構成は非常に良くできています。

漫画版のエピソードを逆転させ、本来のゲッターロボの文脈とは真逆の構成を行い「理性=他者を思う心が存在しない世界」として、筋が通った話を構成しました。
石川賢先生の描いた愛情の物語が「ゲッターロボサーガ」なら、永井豪先生が描いた愛情の物語は「手天童子」でした。
新ゲッターにおいて、もうひとつのベースが「手天童子」の反転構成となることはこの事から来ているのでしょう。
(なので、和風要素において先に指摘するべきは「手天童子」のことであって、石川時代物作品の要素はそのオマケ程度でしかないのではとも思います)
この愛情を主軸とする二つの作品の逆転で構成することで、「理性も愛もない世界」「最初から滅びの定められていた世界」を描いたのではないでしょうか。
タイトル詐欺を行わず、アンチゲッターロボとして最初からタイトルなどで示してくれれば、★5╱5評価しても良いと思うくらいです。

本当にあの作品を愛しているというなら事実部分くらいは認めて正しく読み取る努力くらいはしてあげてはいかがでしょうか。
私は新ゲッターロボが好きな方に正しくあの作品を愛してほしいと思っています。
逆転なら逆転で構わないのではないのではないでしょうか。
タイトルに「偽」とあるゲッターロボダークネスをまさか本家の正当筋だと思って好きだと主張なされているわけではないでしょう。それと同じように、新ゲッターロボを原作とは全く別の、漫画版とは逆転の話、アンチゲッターロボとして愛してあげることはできないのですか。

作品意図をねじ曲げてまで正当性を求め、これこそが正しいのだ等と主張することには、原作はおろか、新ゲッターロボへの愛情があるとも私には思えません。
あれが漫画版に一番近く、正しいのだとそう言いたいばかりに、あれだけ綺麗に逆転構成された話筋を歪めているのは作品には可哀想な話だと私はいつも新ゲッターロボを正当であると言いたい方の論を見て思います。
私はいつか、新ゲッターロボが本当に好きだという方が、アンチゲッターロボとして正しく評価してくれることを願っています。

石川先生にも川越監督にもきちんと向き合ってあげていただきたく思います。

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