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誇り高く、凛と美しく、最後まで精一杯生きよう

いつも嵐は突然やって来る。そして、その度に己の中に未だ沢山残っているひどい痛みにただただくるしむのだ。それはまさに自分が壊れてしまいそうなほど。でも、なんとか嵐を耐え忍んだなら、あとはひたすら祈りを捧げる。「神よ、わたくしをお救いください」と。

これはわたくしの中に突然襲来した嵐のことだ。そして、世界でもまたもうひとつ、とても大きな嵐が起こってしまった。

それは突然だった。ほんの数日前のことなのに、それをいつどんなきっかけで知ったのか、その記憶さえ曖昧だ。そして、ほんのまだ数日前のことなのに、ハマスの攻撃があったと知ってから、もうものすごい時間が経ってしまったように感じている。とにかく、自分の中の時間の感覚さえすっかり変わってしまった。

ウクライナとロシアの戦争が起こったときもそうだった。あまりに突然。そして、新型コロナウイルスの存在を知ったときも。あれは実は「あの場所」だったけれど、あの日の朝、わたくしはその知らせを読んで「ふーん」としか思わなかった。その後、世界中を巻き込んで、ものすごいストーリー(それもかなしく、大変な)が展開するとは全く予想することなく。

ウクライナの戦争もまだ終わっていないのに、どうして神はまたイスラエルという地でこんなにも悲惨な大事件を起こされたのだろう? いや、攻撃を先に仕掛けてきたのは、ハマスだ。神ではない。わたくしは中東の歴史や現在ある諸問題にはとんと疎いし、俄かにかき集めた知識でものを言うのは避けたい。ただ、思うのは、一日も早く世界が平和になりますように、ということだけだ。

話はかえって、自分自身の心の平和について。何もないときは本当に何もない、のだが、わたくしの場合、いつも突然襲撃をかけられる。そして、激しく動揺し、結局最後はひとりで散々泣くことになる。耐えられないときは泣きわめき、怒り狂う。それでも伝わらない絶望。これを何度繰り返してきたことか。なんと愚かなことか。

この秋、神はわたくしにとても大きな人生の課題をお授けになられた。そして、特に今という時期、わたくしに与えられた課題は「恐れるな」ということだ。前述の、わたくしの心が泣き叫ぶのは、過去からの痛みの集積がゆえのこと。それを癒そうと懸命にいつも「今」を生きてきたつもりだが、それでは追いつかないほどの深い深い痛みが、未だかつて癒えない傷が、自分の中に巣食っている。わたくしはそれにずっと翻弄され続けてきた。心の薬を飲もうが、カウンセリングを受けようが、未だ癒されぬ傷。今夜もまた途方に暮れそうになった。「どうして? どうして?」と。

しかし、今宵のわたくしはすぐに自分を落ち着けようと対処することが出来た。敬愛なるジョエル師のお説教を拝聴し、カモミールティーを飲み、泣くだけ泣いたら、その後、一生懸命イエス様にお祈りを捧げた。出来る限り祈った。今は祈ることしか出来ない。その一心で。そして、漸く少し心が落ち着いた。そして、今に至る。

世界の平和はわたくしのような人間ひとりでは何も出来ない。しかし、自らの心の平安は神との共同作業で守ることが出来るはずだ。そして、どんなに深い傷を抱えていようが、それを抱えながらも「今」を懸命に生きることが出来る。泣きながらでも前に進む、が若い頃からのわたくしのモットー。もっとも、中には力尽きて倒れ、それのみならず、そのまま深い谷底にごろごろ落ちて行ったことは数え知れず。それでも、誠に「あきらめの悪い」わたくしは、その度、なんとかなんとか這い上がってきた。そして、今もまた、その「這い上がる崖の斜面に居る途中」なのだ。

新たな戦争が、それもイスラエルの地で始まったばかりだというのに、わたくしの内なる声は、「光の7年が既に始まっています。己の務めを立派に果たしなさい」とおっしゃった。「光の7年」とは、2030年、本当に本当にこの世がいい状態になる、それまでの7年間、要は準備期間ということ。これについては、少し前からうすうす気がついていたが、既に始まっていたらしい。先日、敬愛なる中野裕弓(ひろみ)先生(元世界銀行・人事カウンセラーさん)も、ご自身の音声配信番組 DJ ROMI で、2030年12月3日から地球は安定期に入る、といった意味のことをおっしゃった。その日に向けての「光の7年」は既に始まっているのだ。

泣いている場合ではない。先日、わたくしは残りの人生の時間について改めて考え、何を最優先したいか? と自らに問うたとき、「出来るだけこの世に貢献して、わたしは死にたい」とはっきり言った。自らの幸せよりも、この世のために自分が出来ることを精一杯やり尽くしたい、それがわたくしの魂の望みなのだ。勿論、自分が最高に幸せでなければ最高のパフォーマンスも発揮出来ないとは思うが。それでも、わたくしの心の声は、そうはっきり言った。たとえ、愛するかたと共に生きられなくても、生涯独り身でもいい、そんなことより、自分はしっかりと神に与えられた使命を立派に果たしたい、と。それこそがわたくしが残りの人生の時間でなすべきことだ、と。

だから、わたくしは傷を内包しながらも、これからはもっと光に目を向けて生きてゆこうと思う。そして、神を信じ、イエス様を信じ、2007年、わたくしの人生に奇跡を与えてくださった聖母マリアさまを信じ、この方々とご一緒に、最後の最後、息を引き取る、その最期の瞬間まで生きてゆこうと思う。どのみち、わたくしの人生最高の願いは、この、人間として生きる最後の人生を精一杯生き切ることなのだ。天国の門を、マラソンで1位を取ったランナーのように、両手を上げてゴールテープを切るかのようにくぐりたい、それこそが、わたくしが今回の人生で最も希(こいねが)い求めること、なのだ。

わたくしは自分が思うよりずっと強い、そう思おう。そして、神の奇跡を信じよう。聖書にはからし種一粒ほどの信仰心があれば、山をも動かすことが出来る、神と共に在れば不可能はない、神は決してお見捨てにはならない、とはっきり書いてある。そして、神は、天は、既にこの世に勝っておられる、とも。この世がどんなに醜悪なところであろうと、天の愛のエネルギーは既にこの世に勝っておられるのだ。ならば、その実相と共にわたくしは生きよう。それこそが今、わたくしに求められていることなのだ。泣いている場合ではない。雄々しく生きよう。豪胆に生きよう。精一杯生きよう。誇り高く、凛と美しく、最後まで生きよう。