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#215 花を持って会いに行く

宿というものは大抵チェックアウトの期限が決まっていて午前10時辺りであることが多い。
その時間までに色々しなければならないのはリミットを嫌う私にとって好ましいことではない。

しかしいくら好ましくないと言ってもその期限は迫り来るのだから従わざるを得ない。
始末に追えないなといつも思う。

さて、チェックアウトした後の予定は特になく、その時点で分かっているのはその日の夜行でその街とサヨナラすることぐらいだ。

それまで大きなリュックを背負って1日を過ごすのもなんだか気が進まない。

そのような時、チェックアウトしたのち荷物を宿に預かってもらうことがよくある。

大きなホテルなどではそれ用のスペースもあるし、ゴミ捨て場に被さっているような緑色のネットでひとまとめにして「ちゃんとやってますよ」感をアピールしているところもあるだろう。

私のよく利用した宿々はそもそもロビーなど無いに等しく、それでも嫌な顔ひとつせずに荷物を預かってくれたのは大いに助かった。

特に南ヨーロッパあたりの安宿は家族で経営しているところが多く、またあれやこれやを司り、忙しく動いているのは大抵、母親と思われる中年の女性である。

ある宿で部屋の扉を開けて本を読んでいるとここの子供達であろう、年齢7〜8歳前後の姉弟が興味深そうに廊下の方から視線を送ってくる。
何やら弟は姉に嗜められているようでもある。

「いいじゃん、そのくらい。お姉ちゃん聞いてみてよ。」

「ダメよ。お客さんに失礼のないようにってママンにいつも言われてるでしょ⁉︎」

のような会話だろうか。

そんな二人に私は声をかけ、部屋に招き入れた。
勿論今まで以上にドアを大きく開けて、である。
なんならママンも呼んできていいんだぜ。

リュックから、輪ゴムやトランプ、クリップ、ボールペンなどを取り出すと(なになに?何が始まるの?)といった期待に満ちた表情を浮かべている。
良く似た姉弟だ。

ちょっとした手品を幾つか披露すると大きな瞳をいっそう輝かせて顔を見合わせる二人。

「どうして?あなたは魔法使いなの?」

「うーん、日本で下から数えて14番目ぐらいの魔術師かな」

「へぇ! 凄い!」

冗談をそのまま受け止めている。


その街最後の1日を終え、荷物を取りに宿へ戻ろうとした時、花屋さんの前を通りかかり、ふと思いついて花を一輪買ってみた。
(安いやつ)

そして宿のマダムに渡す。

「ありがとうございました。素晴らしい時間を過ごせました。これ気持ちです。」

マダムは乙女もかくやと言わんばかりの仕草で驚きと、喜びとそして笑顔を返してくれた。
姉弟もニコニコしながらこちらを見ている。

(あげて良かった)と思った。

やはり花を貰うということはその量、大きさ、値段に関係なく華やいだ気分になるのだろう。

それ以来、家族経営の母親と思しき女性が懸命に働いているような宿を出る時は必ず花をあげることにしている。

また中欧以北の宿は大抵ユースホステルが便利で安いので特に花を買うということもなくその辺はドライに済ませることが多い。
が、チェックアウトした日のお姉さんがとても可愛かったりする場合はその限りではない。

ある時、昼食の萎びたポテトを齧りながら(今朝のレセプションの子可愛かったなぁ、、花買ってくか!)と思いつき、態々花屋さんを探してゲット。
ルンルンとユースに戻ったものの、夕刻には担当が髭面のお兄さんに変わっていた。
それはそうだろう。
早番とか遅番とかシフト制であろう。
朝いた人物が夜もいるとは考えにくい。

まあいい。
仕方なくリュックサックのスリットのある部分にそれを差し、駅までの道を歩く。
ひょっとしたら何かのアピールになっていたかもしれないなと今では思う。

アジア諸国や中東では、家族経営のところも勿論あるが、あまり女性は前面に出ることはなく、時に怪しく、時に妖しい男たちの巣窟感で満ち溢れていることが多い。

そんな宿で花をあげても、「ん?花か。そんなモンいらないから俺の紹介する土産物屋で何か買ってくれよ。安いとこ紹介するから。それから、、、」と言われるのが関の山のような気がする。

よってあげたことはない。

とまれ、花をあげるというのは干し椎茸をあげるというのとは全然違うのだなと思った。
いや、勿論私は干し椎茸を貰ったら嬉しい。

もう決して会うことはないあの姉弟。
今はどうしているだろう。
新しい手品のひとつも見せようか。
私のことなどとうに記憶の彼方だろうが、そんなことは大したことじゃない。

私がこうして覚えているのだから。


一☆一☆一☆一

春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。

どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、きれいな花を、手に持って。 

どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。

どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。
歩くことをやめて、はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、

遠いどこかへ、遠くへ、遠くへどんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうではないことに気づいたのは、死んでからだった。

もう、どこにもゆかないし、どんな遠くへもゆくことはない。

そうと知ったときに、じぶんの、いま、いる、ここが、じぶんのゆきついた、

いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世から一番遠い場所が、ほんとうは、この世に

いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。

十歳で死んだ
人生の最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。

病に苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。

死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、私は、信じる。

ことばって何だと思う?
けっしてことばにできない思いがここにあると指すのが、ことばだ。

話すこともなかった人とだって、
語らうことができると知ったのも、死んでからだった。

春の木々の
枝々が競いあって、
霞む空をつかもうとしている。

春の日、あなたに会いにゆく。
きれいな水と、

きれいな花を、手に持って。



☆花を持って、会いに行く☆
       長田弘

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