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日本軍「慰安婦」の沈黙について

 先月の宝塚水曜デモで、男性が「なぜおまえらは朝鮮のことばかり。朝鮮人「慰安婦」なんて大ウソじゃないか。日本人「慰安婦」のことをなんで話さないんだ」と私に言いました。私たちは朝鮮の話をしているわけでもなければ、ウソを言っているわけでもありません。日本軍「慰安婦」問題は女性の人権の問題であって、性暴力の問題です。
 けれど、「なんで日本人「慰安婦」のことを離さないんだ」と言われれば、やはり癪です。日本人「慰安婦」ももちろん被害者です。みな過酷な人生を送ってこられました。
 日本人「慰安婦」被害者とわかっている人は何人かいます。今日はその中から、城田すず子さんのお話をします。
 「城田すず子」というのは仮名です。戦後、性売買に従事させられていた女性たちの更生施設である「かにた婦人の村」で暮らし、そこで自らの半生を『マリヤの賛歌』という手記にまとめました。

1,日本軍「慰安婦」被害者・城田すず子さんの訴え

 城田すず子さんは1921年、東京に生まれました。実家は深川のパン屋さんで裕福な子ども時代を過ごしましたが、家が破産。神楽坂の芸者屋に売られ、淋病を患って横浜の遊廓に。その後、台湾の慰安所に転売されました。
 台湾の澎湖諸島には海軍の基地があり、澎湖諸島の中心都市である馬公には「海軍御用」の遊郭が20軒ほどあったそうです。
 その時の体験を『マリヤの賛歌』でこのように記しています。

《普通の日は泊りを一人とれれば良い方でしたが、土曜、日曜になると、列をつくり、競争であそぼうとしました。ほんとうに人肉の市で、人情とか感情とかはまったくなく、欲望の力に圧し流されて、一人の女に10人も15人もたかるありさまは、まるで獣と獣の闘いでした。
 昼間、私たちが外出する時は、まず帳場に行って楼主のハンコのついた外出許可証をもらい、それを持って派出所に行って、鑑札をもらわねばなりませんでした。それがないと、遊廓の女の人は、城内から城外に出られないのでした。帰ってくると、また交番に行って鑑札を返してこなければならず、まるで監視されているのでした。》

 みなさん、この文章から何を読み取りますか?
 彼女たちに自由が与えられていなかったことがわかりますよね。許可をもらって外出しなければならないことを自由とは言いません。昔は「籠の鳥」なんて文学的な言い回しをされていたこともありましたが、要は奴隷です。
 1日に10人から15人もの兵隊の性の相手をしなければならない。それがどれだけ過酷な状況であるかは、想像に難くありません。
 続けてこのように城田さんは書いています。

《半年位働いて計算をしてもらうと借金は全然減っていません。馬公のような、こんな狭いところにうようよしていてもらちがあかないという気になりました。》

 いくら働いても借金が減らないのは女性が悪いのではなく、そういう仕組みになっているからです。これは基本的に現在の性売買産業にも共通する仕組みです。借金で女性の自由を奪い、性売買をさせる。典型的な債務奴隷であり、性奴隷制度そのものです。

 城田さんはこのあと、やはり借金のために南洋の慰安所に向かいます。最初はサイパン、次にトラック島、最後はパラオに。パラオでは朝鮮と沖縄の女性20人の世話を任され、帳場でチケットを売ったそうです。そのうち激しい空襲が始まり、日本軍と共にジャングルに移動します。そのジャングルの中にも慰安所が建てられ、城田さんはそこでも女将を務めました。
 そして戦後、日本に帰ってきたのです。
 戦後すぐの城田さんの生活は、彼女自身いわく「すさんで」いました。「女だもの、体一つ張りゃという捨て鉢な気持ちでした」と書いています。ヒロポン中毒になり、占領軍相手の店や遊廓を転々とします。福岡、長崎、熊本、神戸、そして東京の吉原へ。

 それでもなんとか借金を返して堅気なところで働きたいという思いが募り、1955年(34歳)、週刊誌で赤線から出てきた女性たちのための更生施設の記事を見つけ、自らの足でその施設に向かいました。キリスト教系の更生施設で、彼女自身日曜日には教会に行き、洗礼も受けました。そんな平穏な生活の中で彼女は自分の過去を見つめなおすことができるようになり、『マリヤの賛歌』という自身の半生を記した一冊の本をしたためたのです。私の手元にある『マリヤの賛歌』は1971年初版となっていますから、城田さんが50歳のときなのでしょうか。

 そんな彼女に敗戦40年を機に、変化がもう一つ訪れます。そして彼女の言葉は、マスコミにも取り上げられ、多くの日本人の心を揺さぶりました。城田すず子さんが私たちの記憶に残っているのは、この出来事があったからだと思っています。
 その時のことを、かにた婦人の村施設長の深津文雄さんはこのように記録しています。今から読み上げるのは、彼女の言葉です。少し長くなりますが、引用します。

《兵隊さんや民間人のことは各地で祭られるけど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん奔ばれて、足手まといになると、放りだされ、荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬か狼の餌になり、土にかえったのです。軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手させられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首をしめようと思ったことか、半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうりこまれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を……。
 四〇年たっても健康回復はできずにいる私ですが、まだ幸いです。一年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建ててください。それが言えるのは私だけです。》

 彼女の訴えは実を結び、多くの人から寄付金も寄せられ、かにた婦人の村には「噫(ああ)従軍慰安婦」と刻まれた石碑が完成しました。1986年のことです。

 みなさん、1986年のときって何をしていましたか? 私は高校生でした。まだ生まれていない人が多いでしょうね。
 金学順さんが名乗り出られたのが1991年でした。その20年前に城田すず子さんは『マリヤの賛歌』を執筆し、5年前に日本軍「慰安婦」被害者の慰霊塔を建てたのです。金学順さんが名乗り出られる前というその事実に、私は驚きます。戦後40年のころはまだ戦争の記憶も今よりはまだ生々しく、日本軍「慰安婦」にさせられた女性たちのことを、少なくとも「かわいそう」だと思っている人が多くいたということなのです。
 宝塚水曜デモで通りがかった妨害者の男性は「朝鮮人「慰安婦」なんて嘘だ、「慰安婦」は日本人ばかりだった、なぜ日本人「慰安婦」のことを話さないのか?」と私に言いました。そんなバカな発言を真に受ける気はさらさらないのですけれど、城田すず子さんの人生を前にして、よくもそんなことが言えたものだと言いたいです。
 城田すず子さんは横浜の遊廓、台湾の慰安所、南洋諸島の慰安所を転々とし、戦後も日本の性売買集結地を転々とする生活をしました。パラオでは朝鮮と沖縄の女性20人の世話を任されていたといいますから、それは同僚というよりは管理する側だったと思われますが、夢に見るほど、彼女たちの苦しみがよみがえってきたのです。彼女たちの苦しみに優劣などない、日本人も朝鮮人も沖縄の人もあるものか、と私は思います。

《女は洗うひまもなく相手させられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首をしめようと思ったことか、半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうりこまれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を……。》

 このような被害当事者の声を聴いたときに、私たちはどのような態度が取れるのか。それが私たちに問われているのだと思っています。
 来年は戦後80年を迎えます。戦後40年の城田すず子さんの訴えを、私たちはまともに受け止められる社会でいられるでしょうか? でもそれを実現しなければならないのです。

2,なぜ日本人「慰安婦」被害者は名乗り出なかったのか?

 1991年8月14日に金学順さんが名乗り出られたあと、アジア各地から多くの被害女性たちが名乗り出られました。韓国、台湾、中国、フィリピン、インドネシア、マレーシア、東チモール、朝鮮民主主義人民共和国、オランダ………。「慰安婦」がいたことはわかっているのに被害女性が名乗り出なかった国もあります。一番わかりやすいのはミャンマーでしょうか。ミャンマーは戦後、そして冷戦終結後も軍事政権と内戦が続き、被害女性が名乗り出られるだけの社会情勢がなかったということが理由に挙げられます。
 日本人「慰安婦」被害者もまた、名乗り出られることはありませんでした。ただの1人も。
 城田すず子さんのように、日本人「慰安婦」だったとわかっている人は何人かいます。けれども「自分も被害者だった」の名乗り出て日本政府を告発しようとした女性はいません。

 名乗り出た日本人「慰安婦」被害者はいなかった……その理由についていくつか思いつくことはありますが、最大の原因のひとつとして、日本は性売買を容認している社会だということが挙げられるでしょう。もちろん日本での性売買は法律違反です。けれど実際にはそうはなっていません。当然のように性を買う店は存在するし、そういう店に行くことが悪いことだと多くの男性は思っていません。もちろん違法だとも思っていません。1万なにがしのお金を払えば性的なサービスを受けられると、多くの男性はそう思っているし、そういう差別的な地位(特権といってもいい)を何の疑いもなく享受しています。
 女性の性を買うことが女性に対する人権侵害だと、思われていないのです。

 日本人「慰安婦」の多くが、遊廓から「転売」された女性だったことがわかっています。
 日本軍「慰安婦」問題を否定したがる人たちは、日本軍「慰安婦」被害女性に対して「売春婦」とレッテルを貼りたがります。もちろんこの場合の「売春婦」という言葉自体、差別的で許容できるものではありません。けれどわかりやすくあえてこの言葉を用いるならば、「売春婦だって被害者だ」と私たちは反論します。

 もともと遊郭にいた性売買経験者であっても、日本軍が設置した「慰安所」に入れられ、日本兵の相手をさせられたという事実には変わりありません。慰安所とは、日本兵に性暴力を安全に提供するために、日本軍が設置した施設です。ここでいう安全とは、日本兵の性病拡散を防ぐという、それだけの意味しかありません。女性にとっての「安全」では決してありません。
 女性たちが自発的に「慰安婦」の仕事を行ったのか、強制だったのか、そういうことも私たちは問題にしません。慰安所に入れられた女性たちに自由がなかったことは、さまざまな資料からも明らかになっています。慰安所の規定には女性たちが外出するのに部隊長の許可が必要だったと書かれていますし、城田すず子さんが「まるで監視されている」と言っていたように、外出の自由もなければ日本兵の相手を断る権利もない、常に暴力と背中合わせの境遇だったということが問題なのです。慰安所における強制性が、日本軍「慰安婦」問題の本質です。
 だから、性売買経験者で「自発的」に戦地にやってきた女性であろうが、騙して連れてこられた女性であろうが、拉致されてトラックに載せられ慰安所に入れられた女性であろうが、等しく日本軍「慰安婦」被害者であることは変わりがないのです。

 では慰安所にいた女性が被害者で、遊廓にいた女性は被害者ではないのか?
 もちろん日本軍「慰安婦」問題とは、日本軍が慰安所をつくり、国家ぐるみで慰安所に女性たちを動員し、女性たちに被害を与えたという問題です。日本の責任が問われる問題です。けれど、遊廓にいた女性たちが被害者ではないのかと問われれば、それは違います。
 城田すず子さんの人生を追ってみても、それは明らかです。
 家が没落して神楽坂の芸者屋に売られた。横浜の遊廓に転売された。台湾の慰安所に転売。サイパン、トラック島、パラオの南洋諸島を転々とし、戦争が終わって日本の性売買集結地を転々とする人生。そのうち、台湾の慰安所に売られた17歳の時から終戦を迎える24歳の7年間だけが被害者だったと……そんな切り分け方ができるでしょうか。できるわけがありません。人身売買によって神楽坂の芸者屋に売られてから、34歳に更生施設に入るまでの半生が、城田すず子さんの性暴力の被害期間であるというべきでしょう。慰安所にいた期間と性売買集結地にいた期間を、切り分けることなんてできません。
 城田すず子さんは、横浜の遊廓にいた時のことを、このように書いています。

《お客さんが入ってくると、写真をみて相手をきめ、仲居さんがお金をきめて女を取り持つという仕組みでした。泊りが五、六円、時間遊びが一円から一円五〇銭で、いくらかせいでも借金などへりっこありませんでした。若いのでお客さんはつくにはつきましたが、着物、化粧品でお金がかかり、体も丈夫でなく、借金など二、三か月で返せるというのは嘘でした。》

 性売買に従事する女性は、たいてい借金を抱えています。そして働いても働いても借金は増えていく仕組みになっています。借金を返したという女性もなかにはいますが、基本的にはどれだけがんばっても借金を返せない仕組みになっているのです。
 これは日本軍「慰安婦」被害者についても同じことが言えます。植民地から多くの女性が「いい仕事がある」などと騙されて慰安所に連れて行かれましたが、着いたときには運賃や着物代などで多額の借金を抱えており、慰安所で兵士の相手をせざるを得ない境遇に陥っていました。もちろん本人の知らないうちに負わされた借金で完全な犯罪行為ですが、殴る蹴るの暴力よりも女性たちを従わせる強い効力を持っていたことは言うまでもありません。

 城田すず子さんの家は母親が亡くなって没落したのだそうです。そしてお金のために、芸者屋に売られました。生まれた家が悪かったのでしょうか? お金のために身売りした城田さんの自己責任なのでしょうか? それは違います。お金がなければ性売買せざるを得ない社会のほうに責任があるのです。
 時代的な制約があるから、という人もいるかもしれません。当時はそれが当然の社会だったと。けれど私たちは2024年のいまを生きています。私たちは未来のために「性売買に従事していた女性たちも被害者だ」と主張しているのです。
 そもそも、城田すず子さんの被害というのは、過去のものなのでしょうか? きわめて現代的な問題なのではないでしょうか?

 先日、『時給7000円のデリヘル嬢は80万円の借金が返せない。』という本が出版されました。タイトルがすべてを物語っていますが、性売買産業とは現代においても作った借金を返せない仕組みが出来上がっています。やめることができない仕組みが完成されています。

 3月6日には売春防止法違反の疑いで、東京のホストが逮捕されるという事件がありました。客の女性に約50万円の売掛金を抱えさせ、「夜の仕事のほうが稼げる」「売春すればすぐに売掛金を返せる」などと迫り、性売買をさせたという疑いです。このところホストクラブをめぐるこういう事件が、たびたび報じられるようになってきました。ホストクラブが女性に借金を抱えさえ、性売買に誘導するシステムに組み込まれています。
 性売買産業へ勧誘するバニラカーというものが昼間から街中を走り回っています。最近は女性向けではなく、男性向け、つまりホストへ勧誘する広告に変わっています。
 東京・歌舞伎町の大久保公園周辺では多くの女性が性売買目的で客待ちをしていることが問題となっていて、昨年1年間で140人の女性が検挙されたということですが、その4割がホストクラブでの遊興費や売掛金の返済が目的だったそうです。ホストクラブはいかに売り上げを伸ばすかが重要視されますから、男性ホストからすれば女性に売掛金を抱えさせることに疑問を持ちませんし、売掛金を回収できなければ自分自身の借金に繋がりますから売掛金回収に必死にもなります。これはホスト個人が悪いという問題でもなければ、ホストクラブで払えない売掛金を作った女性の自己責任という問題でも当然ありません。一部の悪質なホストクラブの問題、というわけでもありません。
 女性を性売買に誘導し性搾取する仕組み、そういう産業構造が問題なのだと主張しているのです。
 東京・新宿では昨年までの5年間に新規開店したホストクラブは200店舗と急増しているのだそうです。バニラカーが男性を勧誘するようになったというのも、当然かもしれません。

 このように女性たちを性売買に落とし込み抜け出せない仕組みが出来上がっているのに、日本社会では女性たちは被害者であると認知されていません。性売買産業そのものが巨大な暴力装置であるとということが認知されていません。債務などのために性売買に従事せざるを得ないシステムのことを、世界では性奴隷制度と呼んでいます。こんなにあからさまな性奴隷制度が日本に存在しているのに、日本には何の法規制もありません。
 韓国では性売買に従事している女性たちの債務は無効になります。日本では女性たちの自己責任にさせられてしまうのです。
 性売買が女性に対する暴力だと認知されていない社会では、性売買の被害者が名乗り出ることは困難です。
 城田すず子さんの訴えは多くの日本人の心を揺さぶりました。けれどそのうちの幾分かは「かわいそう」というものだったでしょう。もし城田さんが日本人「慰安婦」被害者として日本政府を告発し、謝罪と補償を求めて裁判を求めたら、どれほどのバッシングが起こったことでしょう。
 被害者が「かわいそう」な存在であれば世の中の男性は被害者の存在を許容し同情もするけれど、被害者が声を上げれば男性たちはまるで自分の特権を侵害されたような気持ちになり、バッシングを始めるのです。それは、日本社会が性売買を容認する社会だということに、最大の原因があります。男性がお金を払えば女性の性を自由にする権利を持っている、そんな特権的地位にある社会だということが問題なのです。

 城田すず子さんは1993年3月に亡くなられました。しかし日本人「慰安婦」をめぐる問題点は終わることがありません。名乗り出る被害者がいなかったという事実が、決して終わることのない課題となっているのです。
 私たちは日本人「慰安婦」被害者が名乗り出すことがなかったという事実を重く受け止め、「性売買は女性に対する暴力だ」「性売買に従事させられる女性は被害者」と認知される社会の実現のため、わたしたちはアピールを続けていきます。

[2024年3月27日 第182回神戸水曜デモアピール原稿]


かにた婦人の村の礼拝堂(2010年訪問)
城田すず子著『マリヤの賛歌』


(参考・引用)
城田すず子 著『マリヤの賛歌』(かにた出版部)
女たちの戦争と平和資料館(wam)『日本人「慰安婦」の沈黙 国家に管理された性』
「初めてのシャンパンはお前に」その言葉の裏で… 悪質ホストクラブ “売掛金”の闇|NHK事件記者取材note


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