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何のために「大学」に行くのか?大学を出たらどんないいことがあるのか?

どれだけ入学制度を変えようが、卒業した後の世の中に変化がない限り、今の大学は変わりようがない。

今でも日本は新卒、年功序列という制度の上に、就職が成り立っている。思い直して大学を目指したり、社会人で勉強する人に対しては、とても優しいとは言いにくい社会だ。米国も同様に学歴社会であり、最初につまづくとなかなかスタート地点に戻ることができない。しかしまだ米国は転職に対して理解のある社会だから、一度入った会社を向上心を持って転職することで自分の置かれる環境は向上する可能性がある。

日本は、どうしてもそこが社会として理解されないため、一度入った会社を辞めて転職するという考え方に結びつきにくい。2019年度の転職率は5.2%と毎年じわじわと比率が上がってきている一方で、やはり皆一様に新卒で大企業を目指している。

企業側が、多種多様な経歴を持った人員を採用時期は関係なく採用するようにならないと、人生経験を豊富にするような経験をしてから就職するのは、難しい。かといって学歴や職歴以外で客観的に評価することはおそらく出来ないのに、それをしようと社会を変えようとする動きがあるのはなぜなのだろう?変えようとする動きが、皆にチャンスを与え、本人の適性を、本人と企業(職場)が共有し、客観的な判断で結果だけを求める社会に変わろうとしているのであれば筆者は賛成したい。だが、おそらくは、その客観的な判断を持って、会社を移らざるを得ないものにも寛容である社会を目指す動きなのだと思う。その点で、筆者は反対である。そういったものに寛容であることを目指すのであれば、今の制度を変えない方がよいと筆者は考える。

人が人の地位や、出身大学、職歴、結婚相手、子供の進学先といったことで、人を評価することをやめない限り、世の中は変わらないのは事実だと思う。いろいろな会社などで評価制度を用いて、格付けを行っているが、客観的に人を評価する能力が人に備わっているだろうか?努力しても結果が出なければ評価は出来ないし、努力を平等に評価する能力は人間にはないと思う。人の評価は、能力を走る能力などと同じように評価してはなぜいけないのか?走ることに関しては努力をしても結果が出ない限りは認めてもらえないし、認められなくても誰も文句を言わないのに、それ以外の能力に関して、客観的な指標以外を含めての評価を人は求めてしまうのはなぜなのだろうか?僕はこんなに頑張った、あの人は、要領がいいだけだ、など。

会社に入るための評価方法と、会社が通年採用をしない限り、大学の入学制度を改革しても何も変わらないのではないかと思う。

日本と米国を比較して思うことは,「トライすることに寛容かどうか」の違いではなかろうか。日本では大学(大学院)卒業時に、自分が将来良い仕事だったと振り返りができるものに会えた場合はいいが、そうでない場合は、その後、チャンスは極端に減ってしまう。自分を振り返ってみても適性ややりたい仕事が社会経験のないまま見つかるとは思えない。医者や政治家を目指したとしても、それが自分の適性に合うかどうかはよく分からないから、実際に働いてみて何度トライ(転職)しても、世の中を舐めているなどという言い方をされずに済む社会の実現を政治は目指して欲しい。


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