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明治憲法の素顔 Part 1 ⑤「『天皇機関説』~論争と事件」

 戦前の代表的な憲法学者として学校の教科書にも登場する美濃部達吉。美濃部といえば「天皇機関説」ですが、歴史上天皇機関説をめぐって世間が騒がしくなったことが二度あります。
 一度目は「論争」でした。明治45(1912)年、「天皇主権説」を唱える東京帝国大学教授・上杉慎吉が、雑誌『太陽』誌上で同僚の美濃部を痛烈に批判したのです。「天皇機関説」は美濃部の専売特許ではなく、それ以前から唱えられており、学者同士の論争もありました。この時上杉は、美濃部が、文部省主催の中等学校教員向けに行った講習会で「天皇機関説」を教えた
ことに立腹していたようです。上杉や彼の師である穂積八束らの批判は、「文部省の講習会として不都合だ」というところに重点が置かれていました。彼らは新聞や雑誌に美濃部批判の論文を載せる一方、文部省にも圧力をかけました。
 美濃部を援護する学者も筆を執り、学界とマスコミを巻き込む大論争になりましたが、美濃部の整然とした反論に対し、上杉の議論はさえず、軍配は美濃部に揚がり、上杉は「学界の孤児」となりました。
 一方 、美濃部もダメージを受けました。論争直後の大正2(1913)年3 月、貴族院で奥田義人文相が「美濃部の学説には不穏当の点がある」と答弁した影響もあり、美濃部は文検(文部省検定試験。教員資格認定試験のこと)の試験委員から外されてしまいました。しかし、美濃部の学説は、正統であり続け、その著書は高等文官試験や文検受験生のバイブルであり続けたのです。「天皇機関説」は、大正デモクラシー期の議会政治の進展を陰から支えていたのでした。
 二度目は「事件」でした。昭和10(1935)年、貴族院で軍人出身の菊地武夫から、美濃部に対する攻撃が起こりました。美濃部の憲法学説は「不敬」だというのです。既に定年退官して、貴族院議員になっていた美濃部は、不当な言いがかりに敢然と反論しました。その時珍しく貴族院の議場に拍手が起こったほどです。ところが時代の流れは、美濃部に味方しませんでした。国会で火がついてから在郷軍人団が騒ぎはじめました。陸軍内部では真崎甚三郎教育総監が「天皇機関説は国体に悖る」と告諭を発しました。最初は美濃部を擁護していた岡田啓介首相も圧力に耐えきれなくなりました。政権内ではこの「事件」が穏健な岡田首相の足を引っ張る倒閣運動だと認識されていたようです。
 衆議院は「国体明徴決議案」を全会一致で可決しました。政党が足並みをそろえて憲政を理論的に守ってきた「天皇機関説」を否定したことで、自らの首を絞めました。岡田内閣も8月 と10 月の2回にわたって「国体明徴声明」を発表しました。美濃部は貴族院議員を辞職し、著書は発禁となりました。
 まがりなりにも「論争」は、学問という土俵の上で行われましたが、「事件」の方は、国体というタブーを正面から持ち出してきたため、誰もが黙ってしまい、その後の反自由主義的な流れに拍車がかかりました。「国体」というアンタッチャブルな概念を利用して、世論が自ら言論を封殺したやり方は、昨今の、「環境」や「人権」という一種のタブーを隠れ蓑にした怪しげな市民運動と、どこかしら似ている感じがします。

連載第15 回/平成10 年7月25 日掲載

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