2023.5.30 エンジン

近況報告。文章を書いている。

ライフステージの変化などに伴い、趣味ではなく毎日筆を取らざるを得ないような日々が続いている。その中には、書くことは決まっているのに何故かキーボードに両手を乗せたまま動けない、みたいな日もある。そういう時でも無理やり指を動かすため、他のどうでもいいことを書いて勢いづける、エンジンとしての執筆をしたいな、と常々思っていた。
ので、それをやる。

ちゃんとした文字を書くために、ちゃんとしていない文字を書く。ちゃんとした思考を出すために、とりとめのない思考を出す。
不定期かもしれないし、毎日かもしれない。字数としては、140字が5つ6つぐらい、程度のボリュームにしたいとは思っている。そこで意識的に留められたら多分エンジンとしても失敗なのだろうな、とも思うけれど、それ以上書くと多分書くべきものに支障が出る。

先日、「達観していますね」と言われた。
話の流れ的に褒められている。ありがとうございますと言いつつ、そうか?と思った。

別の日、知人に「人間が好きだよね」と言われた。
実際そうなので否定はしない。

人間は好きだ。他人も好きだし、自分のこともわりと好きだ。だいたいの人間のことが多分好きだろう。人間の、人間らしいところが好きだから。誰のどんな振る舞いに対しても「そういうのも人間らしいよね」となる(それはそれとして縁は切ろ、となる場合もある)。犯罪者に対しても、大前提として法で罰せられるべきとは思うが、それはそれとして動機を理解しようとするし、犯罪行為に至る思考のプロセスだけは「そうなる人もいるかもね」と肯定する気がする。この部分だけを拾い上げた結果達観していると言われたのだろう。

でもそれって、人間をコンテンツとして見ているだけではないのか。全部を肯定している代わりに、全部をコンテンツとして取り扱っているだけでは。そうでなくても、初めから万人に満遍なく失望しているからこそ、そんな姿勢でいられるんじゃないか。そもそも全肯定を是とすべきではなさそう。ということを常日頃から思っている。掘り下げてしまえば、人間が嫌いな人よりも無礼な態度を取っている可能性がある。

無礼を許さなくていいから、耐えられなければどうかそっと離れてくれ、と思う。この態度が許せない人も、この態度を取りながら不快感を覚えている私自身も、等しく同じ人間として好いてしまうから。

この文章を公開状態にする頃には、きっと書くべきものがそれなりに書き進んでいるはずだ。1000字。いや500字でもいい。進んでいるはず。きっと。


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