カフェイン中毒@2022/07/19

私何も変わらなかったら
今日も今も来年も再来年もここでお水をガシャンガシャン注いで、
貼りついた笑顔で空いてる席どうぞ〜だなんていってる気がするんだ、
私は躁鬱病という病気のせいで色々なことを諦めてきた、
例えば将来の夢、例えば大学受験。
私はずっとウエディングプランナーになりたかった。けど私の前に敷かれた線路は、専門学校とかそんなルートはなくて、姉が国立に行ったんだから、まなちゃんもそうだよね、みたいな感じで高校は有無を言わさず、こちらもなんの疑問もなく入学したけど、
あそこからもう、間違いだったのかな。私は勉強を楽しいと思えたことは一度もなかった。運良く塾内模試で数学で一位を取ったり、漢文の満点をとったりして、でもそれって全然努力じゃなくて、
いわゆる地頭の部分だけぽろんって擦れて出てきて、高校になったら地頭だけじゃどうもできなくなることに気づいたんだ。
周りには本当に東京大学に行きたい人とか、京都大学に行きたい人とかいて、私はお姉ちゃんのこともあったから地元で就職して、
父と母の老後看護が来たら実家に戻って、実家が空っぽになったら私が住もう、って思ってた。
いつからだっけな、私の将来設計が壊れる音がしたのは。
短期大学のオープンキャンパスに行ったことを鮮明に覚えてる。夏だったんだ。そしてもう私は摂食障害と、躁鬱病を発症していて、でもやりたいことと言ったらどうしてもウエディングプランナーだった。
なぜか高校に行ったオープンキャンパスを報告しなきゃいけないんだけど、短大を書く人なんていなくて、私は同時期に開かれてた市立大の名前を書いて、
コソコソ行ったんだ。
でもそこはさ、もう私よりもまず学がない、と言ったら失礼だけど、オープンキャンパスの時点でピアスと髪色がキラキラしてて、
あ、ここに混ざったら精神が死ぬ、って思ったんだ。
もうそこなら受験に対する熱意は
うつの症状と反比例して減っていったよ。そんな気力もなかったしね。センターの日、一睡もできなかったんだ。手が震えて頭が揺れて何錠もロキソニンを飲んだのを覚えてる。あの時は醜形恐怖症とかって呼ばれるものも併発していて、すれ違うすれ違う子の顔とか、足とか、髪質とか全部自分と比べて、なんで自分はこんなに劣っているんだろうと、そんなことばかり会場で考えていたんだ。私の代はセンター試験だったからまだ、国公立の子は色々控えていて緊迫した空間のなかで、私はもう、耐えられなくなって、3限目の英語の時にはもう、ペンを置いて寝込んでた。みんな必死だから私のことなんて見てなかった。
違う学校の子からしたら記念受験かなとか思われたと思う。それで何もできなくて、2日目の理系教科はなにもかかなかった。実質0点。
頭を働かせることさえも自分にはあまりにも大変で体力の使うことだった。休んだら学校に連絡が行くからなんとか言ったけど、あの時は死ぬかと思った。
それから色々あるけど流れに流れるけど言いたいこと纏まらなかったから終わる。

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