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【エッセイ】春

 読者諸君、ご機嫌よう。外はすっかり春の装いだ。街を歩けば、温かい空気に惑わされた奇人が、大量に街を跳梁跋扈している。奇人たちは春の景色を賑やかす存在として勇躍中なのだ。

 試しに週末の代々木公園に足を踏み入れれば、不思議なことに辺りは一瞬で地獄絵図と化す。花吹雪と杯盤狼藉が入り乱れた風景はまこと不気味である。平生は経験し得ない黄泉の雰囲気を、諸君らも堪能してくると良い。

 私も負けじと近所の公園へ赴き、今春へ身を投じることにした。レジャーシートを引き、丁寧に正座して自然と対峙する。満開の桜と、側の小川に流れる花びらが美しい。ついでに明るい黄緑色のレタス一玉を片手に携え、僅かでも口寂しくなれば、そのまま囓った。心なしか人が近寄ってこない。そのせいで偶然にもありのままの春を楽しめた。本来の自然とはこういうものなのだろう。周りの目は痛いが、そよ風が快い。───あぁ、春である。

 季節の移ろいは、常に心へ留めておくべきものだ。桜が街の賑わいを作るように、我々は季節に動かされている。そのことは努々忘れてはならない。逆に言えば、季語が拙い俳句は駄作となり、季節感のない服装は冴えない男をさらに薄気味悪くする。
 読者諸君にも、春夏秋冬は重んじてほしい。今年の春はどこへ行こうか、今年の夏はどこへ行こうか。季節への期待も人生を豊かにする。きっとヒルクライムも四季の有り難みを人々へ伝えるために歌っているのだろう。

 私も文筆家を目指すものとして、春は満開の桜の下で花びらを浴び、夏は暑いから家で涼み、秋は紅葉狩りに出掛け、冬は寒いから家で毛布に包まる。偉大な作家はすべからく四季を味わう。風情がなければ傑出した小説は書けぬのだ。故に私は傑出した小説を書けぬ。
 そして今、もともと僅かしかない私の風情が消失しかけている。危急存亡の秋がやって来たのである。

 話は戻るが、私は小川のほとりでレタスを囓っている時に思った。今年はいつの間にか春になっていた、と。
 例年通りなら、段階を踏んで春の訪れを感じていた。冬を越えて徐々に暖かくなり、二分咲き頃から満開の桜を待望し、自宅前の「さくら通り」がその名の通り綺麗な桜色のトンネルを作った際には、悠々と沿道を散歩したものだ。 

 今年はどうだったか。桜を楽しむ余裕など全くなかった。4月から社会人になった私の目は常に泳いでいた。入社以来、息継ぎもろくにできない無様な泳ぎを、我が双眸は繰り広げたのである。

 ───私はレタスを囓り、桜舞う中で唾棄すべき1年を振り返った。

 入社直後は、ストレス製造機こと会社の先輩に数々のお冠を投げつけられた。私は、指導員であったその先輩から、ありったけの悪意と不機嫌を頂戴した。その頃から、私は次第に顔が上がらなくなったのである。元気が出る曲を聴き、むりやり会社へ向かおうとした。結果、耳元では上を向いて歩こうと歌われながら、下を向いて涙を溢す阿呆となる。

 昨年の冬、我が精神衛生の悪化を残して、ストレス製造機は会社から去って行った。ホッとしたのも束の間であった。人がいなくなった分、残業が増えたのだ。定時から1時間が経ち、2時間が経ち、どんどん時間が過ぎていくに連れ、脳は機能不全に陥っていく。
 しかし、手は動かさなければいけないのである。何故、私がこんな事をしなければならないのか、自分でも訳が分からなかった。

 不意にポール・ゴーギャンの絵を思い出した。有名な『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』である。あのどこか陰鬱な印象を与える絵に対し、今の私は次のように答えることができる。どうしてこんな人生になったのか、自分が何なのか、どこへ行きたいのか、何一つとして分かりません、と。そして、私の精神は完全に頽れたのだ。

 文筆家になる前に就職し、社会人の経験と生活資金を手に入れるのだ、と考えて手にした転ばぬ先の杖が地面に刺さって抜けなくなってしまっている。ハートを射貫く恋のキューピッドがいるなら、刺さった杖を抜く事に長けた神もいるだろう。神よ、お願いだ。杖を抜き、私に風情を取り戻してくれたまえ。

 ───と、レタスをむしゃむしゃ食べながら、暗い妄想を広げていた。小川を流れる花筏が、自らの心持ちと対比して、やけに鮮やかで優しいピンク色をしているように見える。自分の咀嚼音すら、周りの喧騒と比較すると何処か虚しく聞こえる。

 気がつけばレタスは一回り小さくなっていた。かつて八百屋に鎮座していた彼も、まさかこのような人生になるとは思わなかっただろう。人生というより、レタス生と言うべきか。サラダやサンドイッチを夢見ていたのなら、可哀想なことをした。変人に小川のほとりでバリバリ食される未来など、希望していなかったはずだ。

 1時間程正座していると、足が痺れてきた。さすがに一度足を動かすべく、立ち上がろうとする。すると、その瞬間、思うほど足に力が入らずに体勢が崩れる。

「───あ……」

 手元から放たれたレタスが、地面を転がり、目の前の小川に浮いた。まだ食べかけで非常に勿体ない。私はすぐさま彼を取り戻そうとしたが、動きを止めた。流れゆくレタスが、とても自由になったように見えたのである。私はそこでレタスに話しかけた。

「私は、今のお前みたいに自由になりたい」

 すると、少し低めのトーンで何やら声が聞こえる。私は一切の集中をレタスから発せられる声に向けた。そこはもう私とレタスだけの世界になり、レタスの声がはっきりと聞こえるようになった。

「なぜ自由になりたいのでござるか?」

「いや、なんだその喋り方。一般的なレタスは侍みたいな語尾なのか。それともお前がレタス侍なのか」

「レタス侍でござるよ」

「波田陽区みたいな」

「ギター侍でござるね。そ、そんなことに時間使って良いのでござるか!?拙者は今、流れゆくレタスでござるよ」

 私は裸足になり、小川に入る。流れるレタスを両手で掬い上げた。

「卑怯でござる」

「これでお前は身動きの取れないただのレタスだ」

「やめるのだ。拙者はサンドイッチに挟まれたいのでござる。街の外れにある国道沿いのダイナーで、可愛いおなごに食されたいのだ。ただでさえ、素性の分からぬ変態男に一回り小さくされて、レタス生を損したのでござる!このまま夢半ばでレタスを終えられないでござる!!」

「面の皮が厚い野郎だ」

「葉の厚みには自信あるでござるよ」

 私は手元で葉をちぎり、改めてレタスを食した。

「確かに美味い」

 我が満面の笑みと、歯応えの良さが分かるシャキシャキとした音を、レタスへ丁寧に聴かせる。

「や、やめるでござる! 拙者の話を聞いていたでござるか!? この人でなし! 大悪党!」

 騒ぐレタスを眺めて、私は疑問が湧いた。

「このまま小川を流れていったとしても、公園内の小さな池に辿り着くだけだ。もし、お前がサンドイッチとして可愛いおなごに食べられたいという夢を本気で叶えたいのなら、少なくともお前は流れるべきではない。例えば、私を唆してダイナーに連れて行ってもらうとか、サンドイッチにしてもらって可愛いおなごに渡してもらうとか。他に方法は思いつくだろう」

 私が一度話し終えた瞬間、レタスはその鮮やかな黄緑色の体から、黄金の光を放ち始めた。そして私の手元を離れ、頭上に浮かび上がったのである。私は何が起きたのか分からないまま、開いた口が塞がらなくなった。私の口内に残るレタスの食べかすも、僅かに明るい光を灯している。レタスは今までよりもゆっくりと力強く話し出した。

「考える事ができるではないか」

 唖然とする私に構わず、レタスは話し続ける。

「人は皆、他人がどのような人生を送るべきか、明確な考えを述べるのでござる。しかし、自分の人生については何も考えを持っていないのでござる」

 レタスはそれまでに無かった圧倒的な威厳を私に振り翳す。私は、レタスの食べかすが出す光を、開いた口から放出するばかりだった。

「手足があり、自由に動ける人間が、ただ丸いだけのレタスに自由を感じるなど何を抜かしている。転ばぬ先の杖が抜けないとも貴殿は言っていた。それも杖から手を離せば良いだけでござる。少し考えれば分かることでござる」

 私は自分が恥ずかしかった。自らの憂き目に気を取られ、他の良き状況に嫉妬ばかりしていたことに気づく。いつの間にか開いた口は塞がり、頬には涙が垂れていた。

「貴殿は自分で気がついたのだ。レタスですら夢を叶える可能性はある。ならば人間は尚のことでござる」

 言葉はそこで終わった。レタスが発する光は徐々に弱くなり、終いには完全に消えた。宙に浮いていたその身は再び小川へ戻り、池の方へと流れていく。その様子をしばらく眺めていると、レタスは遠くの方でワンピース姿の女性に拾われていた。彼は夢が叶うかもしれない。

「帰るか」

 私は晴れ晴れとした気持ちでレジャーシートを畳む。気がつけば空はオレンジ色になり、そこに舞う桜もまた一興であった。
 きっと我が人生は危急存亡の秋などではない。前途洋々の春である。頬にはまだ涙がつたう。

 ───あぁ、春である。

 杖を抜くことに長けた神はいないかもしれないが、それよりも大切な事を教えてくれるレタスがいた。 
 そしてその日、私は退職を決め、文筆家の夢を真に歩き出したのである。

 心のヒルクライムが歌い出しても、ゴーギャンの絵が問いかけても、私は迷う事なく答える。夢に向かうと。

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