看護師になりたくない

僕がユーイング肉腫を発病して2度目の入院に退屈をしているある日、二人の卒業生がお見舞いに来てくれました。

二人が高校3年生の1月、担任の僕は発病して一度目の入院をするのですが、二人はその時点で、推薦入試で進学を決めていました。1年生の時から看護師志望で、非常にまじめに学校生活を送り、成績も良く、順調に看護系の専門学校と大学の推薦入試に合格した生徒でした。

たまたま入院していた病院の喫茶店でアルバイトしていたのをキッカケに二人でお見舞いに来てくれたのです。二人は大学3年生になる年でした。

近況を聞くと、驚くことに二人とも看護師という進路に疑問を持っていました。しかも、すでに一人は、体調を崩したこともあり、学校を辞めて働いていたのです。原因は想像していた看護師像と、現実とのギャップでした。暗い顔で、思っていたのと全く違ったと語るのです。

本人たちは看護系の進路を選んだ自分の選択にきっと後悔はないでしょうし、そもそも誰でも少しは抱く迷いかもしれません。ただ僕がビックリしたのは、二人とも早くから将来の目標を決めて、目標のためにいたってまじめに努力した生徒たちだからです。人間的にも優しく、約束を守ることができて、献身的に他人のために働くことができる。信頼できる生徒でした。他人より早く合格したので、クラスの掃除の中で一番大変な冬の落ち葉拾いの掃除も嫌な顔一つせず、すすんでやってくれていました。

当然合格した時、本人たちは大喜びでしたし、先生たちもみな祝福しましたが、その気持ちが数年でこのような迷いに変化するとは。

一人は国公立大学の看護学部に合格した生徒です。学校は国公立大学の合格者数を売りにしているので、その分余計に合格した時はみなで喜びました。しかし、そのことがひどく浅はかに思えるには、充分な告白でした。

この二人に限らず生徒たちは小さい時から、将来何になる?と聞かれて育ちます。学校で、家庭で、当然、中学校の進路指導や高校の進路指導でも教師は聞きます。良かれと思って、でも藪から棒に聞きます。僕自身何度も聞かれた記憶があります。では、生徒たちは選択するのに充分な情報を持っているのでしょうか?充分な時間を与えてもらっているのでしょうか?

日本でも今のところサラリーマンは増える一方で、ほとんどの子どもは働く大人を見ないまま育ちます。サラリーマンですし、個人差はあれど仕事は思い通りにいかないことも多いでしょう。瑣末な書類仕事や、事務仕事も多いでしょう。もしそうであれば、家で子どもに語るような魅力的な仕事は少ないでしょう。身近な大人が語らなければ、子どもが働くという事をイメージしにくい世の中になっていくでしょう。そもそも人の移動が多くなり、近所づきあい親戚づきあいも減り、身近な大人というのも少なくなってしまっています。そしてぶっきらぼうに子どもに聞くのです、将来何になる?

生徒たちにこの乱暴な質問をぶつけると僕の実感では、半分以上は、教育系、医療系、公務員を答えます。これ以外を選ぶ生徒はもしかしたら10%未満かもしれません。そもそもどんな仕事があるのか、イメージを持っていません。あとはドラマでとりあげられた仕事が出てくることも多いですが。

僕のいた学校では教師と生徒一対一での進路指導はけっこう頻繁にあります。では、僕はその時間をどう使えば良かったのでしょうか。

せっかく相談にのるのなら、一緒に普段の生活を振り返りながら自己分析をすることから始めてあげた方がいいかもしれません。どんなものに興味があって、どんなことに喜びを感じるのか。自分の能力について、どのような特性を持っていて、どんな力を身に付けたいのか。自分の評価と他人の評価のギャップを感じさせるほうがよほど有意義でしょう。

ただ、将来何になる?と聞いて、偏差値に応じて、進路をまるで、あみだくじでもたどるように決めていく。その子がどこの大学に受かりやすいかは知っていても、将来その子が幸せになるためにどんな力が必要かには興味がない。そんな進路指導でいいのだろうかと反省しました。

まじめな生徒だから、進路が決まっているから、安心というのではなくて、自分と関わる中で少しでも何か感じて、考えて、学んでほしいと声をかけたいと思っています。だからすすんで、その子のもつ特性、力を自分なりに評価して伝えることを心がけています。

教師は教えるプロだというのを否定はしませんが、僕は教師は評価のプロでなければならないと思います。そもそも、高校卒業の単位認定をするから、公の免許が必要なわけですし。ただそういう行政の意図とは関係なしに、勉強も、そして勉強以外も、適切に評価してあげることが、生徒の成長にとってなによりも重要だと思うからです。もちろん、適切に、と正しくは別物です。勉強以外の評価について、学校が無頓着すぎると、生徒が楽しく過ごせる学校ではなくなってしまいます。褒めるべきを褒めて、叱るべきを叱る。嬉しい思いも、悔しい思いもするから、毎日色んなことがあって、そこから色んなことを考えて学んでいく。それが充実感に繋がると思います。色々な生徒がいて、教師がその生徒ひとりひとりを適切に評価することで、生徒同士もお互いを見て、認め合い、励ましあったり、喜びを共有したりする。そこにいることが幸せだと感じる、そういう空間を作ることにつながるのではと思います。適切に、とは生徒が学ぶきっかけになるように、という意味です。

学校は「幸せになる方法を学ぶ所」と僕は教わりました。勉強はその手段にすぎません。もちろん冒頭の二人の生徒が幸せになれなかったと言うつもりはありません。仕事について悩むこと自体を否定するのでもありませんし、悩むこと自体は幸せだとも言えるかもしれません。

だとしたら、一緒になって悩んであげることを自分は幸せだと思うし、一緒に悩んでくれる人がいることが幸せだとも思います。僕は、高校の教師としてどんな風に二人の進路について一緒に考えてあげれば良かったのでしょうか。

高校を出たら当然あとは自己責任だというのもごもっともですし、そもそも生徒も保護者もほとんどの人が、そんなところまで高校の教師に期待していないでしょう。自分自身、基本的に自分の人生に責任を取れるのは自分だけだと思っています。

ですが、少なくとも僕は、高校にいる間だけ責任を持って、良い大学に行けるように勉強を教え、一緒に良い大学を選ぶ、というような関係に魅力を感じません。せっかくの出会いです。学校の外でも、卒業してからも幸せになる手伝いをしたいし、時にはしてほしいと思います。だから自然とお礼も言えるし、謝れるし、挨拶もできるのではないでしょうか。

つらつらと語りましたが、基本的にはこれは僕のエゴです。共感しない人も多いと思います。ただ、二人の卒業生の苦しい言葉が僕に考えさせてくれたことです。

最後に余談ですが、気になる仕事があるのなら、ぜひ高校生のうちに、プロの仕事を体験させてもらおう。現場を見せてもらおう。そして、プロの言葉を聞いてみよう。そう考えて、生徒と一緒にサークルを作りました。地域の大人たちに協力してもらって、職場体験をさせてもらったり、イベントを開いたりして一緒に仕事をさせてもらうサークルです。

このサークルで沢山の魅力的な仕事をされている大人の方と出会うことができました。小さな町にもこだわりを持って働く方が沢山います。そういう大人と関わる中で、生徒たちの仕事に対する価値観、地元に対する評価が少しずつ変わってきました。これもまた、二人の卒業生の悩みが生んだものです。

二人とも、また悩むことがあったらぜひ聞かせてくださいね。幸せを実感できる充実した人生を過ごすことをお祈りしています。


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