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地域社会✖️高校生というサークル その2

長くなったので分けました。

その2では、どのような思いでサークルと関わっていたか、特に今年について、僕の思いを。


高校生たちは、大人のやっていることにいくらでも疑問を持っています。とくに、今年のコロナウイルスの流行に狼狽える大人たちの姿はきっと、色んなことを高校生に考えさせたでしょう。学校に行けない期間には、学校が本当に必要かどうかを考えなかった生徒の方がきっと少ないでしょう。そう思って今年僕は、学校が必要かどうか、例年以上に生徒たちに試されていると思って教師をしていました。生徒の顔色を伺うようなことはしたくないですが、少しでも生徒の熱い思いが実現する学校でなければならないと思っていました。だから例年以上に楽しいことを実現したい、と。もちろん間違っていると僕が思うことは、間違っていると伝えます。ですが、正しいと僕が思うことは一緒に実現したい、と思ってサークルの生徒たちとたくさん話しました。

学校は楽しい場所でなければならない。先輩の先生とよくそう話します。今年は特に強くそう思い、一生懸命生徒と一緒に楽しいことを実現しようとしました。ただ一つの条件がそこにはあって、自分が楽しいことであると同時に、人に楽しいと思ってもらわなければならない。要するに一人で楽しむのではなく、みんなで楽しむものであることが、僕にとって企画を認めるかどうかの条件でした。高校生のうちから人を幸せにする慶びを感じてほしい、その経験は将来働くモチベーションになり得ますし、その人の仕事を魅力的なものにすると思います。喜びと慶びは微妙に違うと思います。慶びは祝意、つまり他人の幸せを一緒に祝う気持ちです。

仕事は誰かのために何かをして、対価としてお金を得る行為です。なるべくならやっつけ仕事をしてただお給料をもらうだけのものになってほしくありません。相手の笑顔を想像して仕事をしてほしいのです。そして、喜びを共有することは、共に学ぶ「学校」の存在意義のうち最も重要なものだとも思います。学校は本来働く喜びを教える機能を備えているのではないでしょうか?


高校生たちも、様々な疑問、葛藤を抱えながら高校生活を送っています。なぜ勉強が必要なのか、今勉強をすべきなのか、部活をすべきなのか、あの人の発言は正しいのか、なぜあの人はあんなことを言うのか、あんなことをするのか、なぜこんなルールがあるのか、自分は将来どうなっているのか、日本は将来どうなっているのか。

予測のできない困難な時代がやってくると大人たちは無責任に子どもの不安を煽ります。今ある仕事の半分が20年後(10年?30年?)なくなる、とか言って、今まで以上に受験勉強を頑張ることを強います。明治維新以来最大の改革だと言って試験制度を変えようとしていますが、本気で言っているのでしょうか?自分がどんなにアホなことを言っているのか、気づいていないのでしょうか?

そもそも入試が変わる前に社会はとっくに変わっています。僕自身は学歴社会はすでに終わりかけていると思います。子どもが増えて、受験戦争などと言われていた社会など一体何年前でしょうか?学歴で順番に大企業に入っていく社会などそもそも魅力的な社会でしょうか?別に東大に行きたいと言うのを否定するのではありません。東大の〇〇先生のもとで〇〇の研究をしたい、という思いはむしろ素晴らしいものだと思います。同様に大企業を否定するつもりもありませんし、既存の価値観や常識をすべてを非難したいのでもありません。もっともっと、東大を目指すべき、大企業に入るべき、現実的な理由がたくさんあるのも知っています。

でも、「べき」が理由で幸せな人生を送れるのでしょうか。

僕は、いい加減教育の現場で、「大人」の価値観を簡単に高校生に押しつけるのをやめてほしいと思います。常識はこうだとか、普通はこうだとか、社会はこうだとか、一体誰を代表して語っているのでしょうか?彼らの言う「大人」の価値観は、決して自分の価値観ではありません。自分の考えを明らかにしないまま、子どもに多数派になることを勧めているだけです。他人と同じ選択をすることは、多くの場合責任を逃れることに成功させてくれます。そのような不快な動機がそこにあるとしたら。。

大人が自分の価値観を自分の責任で、自分の言葉で語ることはむしろ生徒にとって有益です。自分はこう思うから、服装はこうしてほしい。自分はこう思うから、挨拶をきちんとすべきだ。自分はこういう本を読んで、今後の社会はこう変化すると予測する。答えが出なければ生徒と一緒に考えれば良いのだと思います。結果的に出てくる答えももちろん重要ですが、共に考える過程はさらに重要だと思っています。

そう思って、サークルの生徒とも、部活の生徒ともたくさん会話をしました。どうしていくか、何を作るか、今年は特に、一緒に話して考えました。楽しいことがしたいね、と。

偉そうな物言いになったかもしれませんが、もちろん僕もまだまだ青二才。どこまでできたか、不安はたくさんありましたし、失敗はもっと多いでしょう。ただ少なくとも残り時間の少ないかもしれない僕にとって、仕事中の生徒との時間も大切にしたい、彼らと幸せを共有したいと思って、自分の行動を選んできました。


コロナウイルスの流行ではっきりしたのは、大人たちの決定が簡単に高校生たちの生活を激変させるということです。官僚はさておき、知事も議員も、政治家たちは大人が選んでいます。政治的な決定に責任を逃れられる大人はいません。そして彼らは、学校に行けと言ったり、行くなと言ったり、部活をするなと言ったり、文化祭をするなと言ったり。それでいて形だけのコロナ対策と言われても仕方ないようなくだらないことをたくさん要求します。それは全ての大人が責任を負うべきことです。

大人たちの決定は正しいのでしょうか?彼らの人生を幸せなものにしているのでしょうか?

この質問に答えを出すこと自体が困難なものです。でもなぜそのような決定に至ったのか、どのような思いでその決定を下したのか、を語ることは、子どもたちの人生の指針となり得ます。あなたたちを幸せにしたいのだと目的を語ることは愛情の表現になります。その手間を省くべきではない、と思います。コロナウイルスで生じた社会の歪みは、子ども達にも確実に影響を与えています。おそらく、どちらかというと悪い影響を。環境が変わり傷ついた子どももたくさんいるはずですし、大切な人を失ったかもしれません。そして行動の制限はおそらく想像以上に子どもの価値観、そして人生を変えています。

病気の脅威は大人も、子どもも等しく感じるものですし、データによればむしろ大人の方が恐れるべきでしょう。

だからこそ余計に、大人は今試されている、と思うのです。大人がどう行動するか、それを子どもたちは想像以上によく見て、考え、学んでいるはずですから。

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