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20240127学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-3 第2インタナショナルの右翼と左翼

20240127
『三つのインタナショナルの歴史』

[世界大戦前夜の右翼と左翼]

第一次世界大戦が勃発したとき、第2インタナショナルにおける重要な諸党のほとんどが右翼分子に支配されていた。ドイツ、オーストリア、イギリス、フランス、ベルギー、そしてスカンジナビア諸国の党である。アメリカなど他の国ではたいてい中央派と修正主義者が提携して支配権を握っていた。が、中央派のクループは右翼との協力を密接にしていった。これに対しレーニンは次のように批判している。「『中央派』は、甘ったるい小ブルジョア的美辞麗句の世界、口先では国際主義だが実行では小心翼々の日和見主義と社会排外主義者へのおべっか使いがのさばっている世界である。」またレーニンは、中央主義者をこう名付けた。「腐れ切った合法性によって堕落させられ、議会主義の環境によって腐敗させられている杓子定規屋」

中央派・修正主義者との協力を強める右翼という右翼日和見主義的な連合は、さまざまな機関に属するおびただしい数の役員や職員から支持されていた。例えば、1000人近い国会の代表、数千人を越える地方・州議会の代表、そして労働組合や協同組合、スポーツ団体などの組織の数万人にのぼる有給職員などである。彼らの階級的基盤は熟練労働貴族である。のちに彼らは、中部および西部ヨーロッパの労働者階級の革命的な意志をくじくという、社会民主主義が悲劇的な道を進むことを決める大きな力となったのである。

一方、このころの左翼は相対的に弱く、また未熟であった。第2インタナショナルの時期はだいたいにおいて資本主義の繁栄の時期であり、こうした時は一般的に、組織的・政治的に強力な左翼が発展するには有利とはいえない。左翼の力を強めるためには、戦争と革命を経過しなければならなかった。

この時期の第2インタナショナル内外の左翼は、三つの部類に分かれていた。
一つ目は、ラテン諸国にあったサンディカリスト労働組合と無政府主義者の集団である。同じ集団は、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、スカンジナビア諸国、ラテン・アメリカなどにもわずかながらいた。これらの分子は非政治的でセクト的で、「左翼からの修正主義者」であった。

二つ目の部類は、さまざまな国に散在した左翼的傾向の労働者と幹部であった。ドイツのルクセンブルグ、リープクネヒト、ツェトキン、メーリング、レンシュ、ピーク。ポーランドのラデック、マルシンウスキー。イギリスのハインドマン。オーストリアのブラウン。フランスのゲード。オランダのガーター、パンネクック。スウェーデンのヘーグルント。アメリカのデブス、ヘイウッド、デ・レオンのような人たちである。これらの分子はそれぞれが決して同質のグルーブというわけではなく、明確な綱領は持っていなかった。
このなかでひときわ抜きんでていたのが、ドイツのローザ・ルクセンブルグである。彼女はドイツ社会民主党の指導者であったが、理論的にも戦術的にも多くの欠陥を持っていた。彼女の大きな誤りは、民族問題、農民問題、新しい型の中央集権化された規律ある党、大衆の自発性、武装蜂起などに関するもので、ロシア革命が進むにつれてさらに重大な誤りを犯すことにもなった。それでも彼女は真に革命的な戦士であり、レーニンは彼女を「鷲」と呼んでいた。

三つ目の部類は、ロシアのボリシェヴィキである。ボリシェヴィキこそは、全インタナショナル左翼の頭脳であり心臓であった。彼らは、広範な左翼のために必要な綱領も、指導力も、ともに持ち合わせていた。1912年1月にはロシア社会労働党はメンシェヴィキを追放し、第2インタナショナルの進へ席政治的な道筋をつくった。この時からボリシェヴィキは一つの独立した党となり、ロシアの積極的な労働者の8割がこれを支持した。
国際社会党事務局はメンシェヴィキの援助を借りてロシアの党を再統一する努力を続けていたが、これは成功しなかった。そのため、戦争が始まったときには少なくともボリシェヴィキだけが「プロレタリア国際主義の諸原則を実行に移すことができた」のである。

こうした三つの分類に当時の左翼は分けられたが、レーニンを先頭とするボリシェヴィキは、この分散した未熟な左翼を組織しようと熱心に努力した。ボリシェヴィキは、ロシアにおける党の活動で、革命的な綱領と戦術の素晴らしい模範を自ら示した。しかし、このころはまだレーニンはほとんど知られておらず、むしろロシアの党を分裂させたものとして非難を浴びていた。1907年のシュトゥットガルト大会でレーニンは左翼分子の会議を開き、この時から国際社会党事務局のメンバーとなったが、レーニンの提案はことごとく否決された。1909年には、レーニンは『唯物面と経験批判論』で、マルクス主義理論に不滅の貢献をした。1910年のコペンハーゲン大会でも同様に左翼分子の大会を開いたが、この時もレーニンの提案は否決された。西ヨーロッパのマルクス主義者は、レーニンがロシアで展開していた政策をほとんど理解しておらず、アメリカにおいてはレーニンを知るものはほとんどいなかった。

第2インタナショナル内の右翼修正主義者に対抗するため、レーニンは、左翼とできるだけ多くの中央派を統一しなければならなかった。レーニンほど、右翼修正主義者の害悪を知っている者はいなかった。そして、左翼と中央派の誤りや欠陥も鋭く批判した。中央派は年を追うごとにますます右翼へ移ってしまう傾向があり、大衆と日和見主義的右翼指導部との間に常にくさびを打ち込まなければならなかった。にもかかわらず、第2インタナショナルの内部に全般的な幅の広い活動的な左翼を作り出すことは、ついにできなかった。

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