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20230514学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第5章-1

20230514

【第5章 労働組合主義、プルードン、ラッサール、バクーニン】


労働者階級の闘争はとても複雑な問題を孕んでいる。

まず、資本主義のもとでの労働者の利益を守ること、そして資本主義体制の廃止、その後の社会主義の建設。ここに辿り着くまでの革命はマルクス主義(今日でいえばマルクス=レーニン主義)であり、プロレタリアートとその同盟者が長い年月をかけて搾取階級と戦い、学んだ教訓が取り入れられている。

労働者階級は、階級闘争を続けるうちにマルクス主義的思想を持つことになるものであるが、なかには間違った考えを持つ者も出てきた。

マルクスによれば、そうした間違った考えの者は「右翼的偏向者」であったり「左翼的偏向者」であったりした。これら偏向者を「セクト(宗派)」と呼んでいた。

セクトにも、労働者階級にとって当然の考えや戦術があったが、それらは歪められたり誇張されたりして本当の意味からかけ離れてしまった。そして、資本主義の廃止と社会主義建設の方法について独自の考えを持つようになった。そうした独自の考えは、労働者階級にとっては害となり、資本家にとっては有利に働いた。革命の際には反革命派になることもある。このことは、マルクス死後の数十年間、労働者にとっては苦い経験となり、また、学ぶこととなる。


[純粋・単純な労働組合運動]


第1インタナショナルのうち、「純粋・単純な労働組合運動」に加盟していたイギリスの労働組合が最も強力な大衆的な組織だった。ジュンタ(労働運動の非公式な指導委員会)の会員であるジョージ・オッジャーとW・R・クリーマーは国際労働者協会の議長と名誉書記長に選ばれている。また、組合指導者の多くが総評議会のメンバーとなっている。国際労働者協会は10年間にわたりイギリスの労働問題で重要な役割を果たした。


1840年代は資本主義の急速な発展期である。イギリスは帝国主義の第一段階の時期であり、熟練労働者の待遇はある程度は良くなり、労働運動には革命的な色はほとんど見られなくなった。イギリスの労働運動の指導者たちは、急進的なブルジョアと労働者の中間に位置するようになり、資本家は労働者をブルジョア化しようとしていた。


1860年代はイギリス帝国主義の台頭期であった。

ロートシュタイン(チャーティスト運動の研究家)は、「あたらしい指導者、あたらしい方法、あたらしい利害、あたらしい目標が生まれた。ふるい(チャーティズムの)名残りは急速に消え失せ、次の世代にはその記憶さえもほとんど薄れてしまった。オブライエン、ハーニー、アーネスト(いずれもチャーティストの優れた指導者)のような、わずかな生き残りの人々は、時代錯誤の生きている見本、いやほとんど骨董品のようになってしまった」と、この時代について述べている。

この労働組合の中には広範な互助制度が作られた。政治にはほとんど関心を寄せなかった。オッジャー、クリーマー、そのほかの指導者たちは、国際労働者協会の内部では日和見主義的な存在だった。彼らの考え方は、労働運動内部へのブルジョアの影響を代表するものであり、インタナショナルを労働者解放のための武器と考えるものではなかった。ただ単に、イギリスの労働組合を助ける手段となればいいと考えていた。彼らのそうした日和見主義的な思想は、インタナショナルの発展を絶えず妨げ、ついには組織の分裂という形になってしまうのだった。


[ブランキ主義]


ルイ・オーギュスト・ブランキ(1805-1881)は、法律と医学を学んでいたが、早くから政治に関心を寄せるようになった。1830年のフランス7月革命ではルイ・フィリップを皇帝にするのに協力した。その後は労働者階級の運動に協力するようになり、1871年のパリ・コミューンまで重要なフランス労働運動の指導者となった。なぜ考えが変わったかははっきりしないが、彼は共産主義者であったし、プロレタリア独裁を主張していた。

ブランキの政策の基礎は、武装蜂起と陰謀集団であった。初期のフランスの共産主義者バブーフの名前をたびたび持ち出し、経済上政治上の改良主義を忌み嫌った。武装蜂起をとにかく重視するブランキ主義は、苛烈な弾圧のもとで生かされ、初期のフランス労働運動独特の産物となった。


ブランキ主義はほとんどフランスのみに限られていたので、それがインタナショナルを支配するということはなかった。しかし、インタナショナルの内部では左派の勢力となった。マルクスはブランキ主義の革命的精神を高く評価していたが、陰謀的方針は評価しなかった。

パリ・コミューンとともに消滅したブランキ主義だったが、1904年から1905年に、その残党がフランス統一社会党に合流した。


[プルードン主義]


ピエール・ジョセフ・プルードン(1809-1895)は、独学の印刷工で優れたインテリであり、近代無政府主義の生みの親である。パリのぜいたく品製造業の熟練手工業者から支持を得ていた。また、ベルギーにも支持者が多かった。

プルードン主義者は終始一貫、自分たちの目的のためにインタナショナルを握ろうと努力した。


プルードンの綱領は、生産者と消費者の協同組合の一大体系である「互助組合」を作ることを提唱している。互助組合が拡大すれば、これが資本主義体制に取って代わるというものだった。


エンゲルスはマルクスに、プルードン主義について批判する手紙を書いている。

「連中の考えていることは、プロレタリアの貯蓄によりかつ彼らの資本の利潤と利子との放棄によって、さしあたりは全フランスを、のちにはおそらくその他の世界をも、買い占めるということより以上でも以下でもない」

プルードンの言う「財産とは盗品である」という言葉の「財産」はブルジョアジーの財産であって、小ブルジョアジーの財産のことではない。


プルードンは、互助組合が広がれば資本主義は崩壊し、国家もまた一掃されるはずだと言った。そして未来は「自由な互助組合」によって運営される「無政府」の社会となるだろう、と。

プルードン主義というのは、労働者と農民が自分自身を解放できるのは、互助組合(協同組合)を通してだんだんと、土地や工具の所有者になることによるものだった。闘争ではない。また、婦人のあるべき場所は職場や政治ではなく家庭であるといった。当時のフランスの政治は抑圧的で、プルードンの言うようにすればそうした抑圧的な生活から自由になれるというのだ。このため、労働者や農民の中にはプルードンに賛同する者が多かった。


プルードンは、とにかく階級闘争を否定した。労働組合にも反対した。もちろんストライキにも、賃金引き上げにも労働立法にも。そして、政党にも反対だった。「政党は専制政治から生まれる」と言った。プルードン主義の主な指導者(トラン、フリブール、ヴァルラン等)グループが提案するもののねらいは、インタナショナル内部の階級闘争の理論と実践を骨抜きにし、小ブルジョア資本主義を受け入れさせるものだった。

マルクスとエンゲルスによれば、プルードン主義は小ブルジョアジーの中の保守的な層の意見を代表するものであった。小ブルジョアジーの急進的な層は大資本家に対して抵抗するが、保守的な層は大資本家に踏み潰されるのを恐れて闘争を避けようとするのだ。

マルクスとエンゲルスは、20年にわたってプルードン主義と戦った。プルードンが『貧困の哲学』を出した時、マルクスは『哲学の貧困』を書いた。マルクスは、プルードンの小ブルジョア的ユートピアをとことんまで叩きのめした。


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